第26話 史上最悪の魔女
それは、どこまでも深い、底のない闇だった。
いつもと変わらない静かな夜。
今日もリゼの部屋のベッドで寝落ちしてしまったユノは、冷たくて重い、どろりとした何かに身体が包まれるような感覚に襲われていた。
(……ここは、どこだろう。ボクは、眠っていたはずなのに……)
周囲を見渡しても、光一つない暗黒の世界。
その闇の奥から、くちゅり、くちゅりと、不気味な液体の蠢く音が響き始める。
現れたのは、禍々しい漆黒のドレスを纏った一人の美しい女性だった。
その身体からは、『黒い水』が絶え間なく溢れ、滴り落ちている。
——彼女に名前はない。
いや、正確にいうならば、かつて、彼女が人間だった頃には名前はあった。しかし、今は誰も、彼女の名前を知らない。彼女自身も、ずっと昔にその名前を忘れ、覚えていない。
彼女はこの数百年、畏怖を込め、こう呼ばれて恐れられていた。
——黒水の魔女。
300年以上の時を生き、黒水を用いて数多の人間を取り込み、その生命エネルギーを吸収し続けた、史上最悪の魔女。
かつて大賢者ユノ・クロウが命を賭して封印した魔女だった。
しかし、ユノが子供の姿になり、その魔力の大部分を喪失したことで、封印の楔が安定を失い、とうとう完全に崩壊してしまったのだ。
「……ふふ、やっと見つけたわ。可愛い、可愛い私のユノ」
魔女はどろりとした黒水を従えながら、ゆっくりとユノへと近づいてくる。その妖艶な瞳には、狂気的な執着が宿っていた。
「あなたがそんなに小さな、愛らしい姿になってしまうなんて……。ユノ、あなたは私と結ばれる運命なの。あなたが大人になったら、私と一つになるのよ。素敵でしょう? 甘美な快楽で、何もかも忘れさせてあげるわ」
差し出される、黒水に濡れた白い手。
その手がユノに触れようとした、その瞬間——
「——ちょっと待ったぁぁぁーーーっっっ!!! 何あんた、勝手にユノの頭の中に不法侵入してんのよ!」
闇の空間を切り裂いて、凄まじい暴風が吹き荒れた。
緑髪の少女——風の精霊シルフィが、激怒した表情で魔女の手を弾き飛ばす。
「御呼びじゃないわ。帰りな! それともここで灰にしてやろうか?」
イグニスが両手に紅蓮の炎を灯し、魔女を睨みつける。
「我が主の精神世界を汚す不届き者め。激流に呑まれて消え去りなさい」
ウンディーネが巨大な水の刃を構える。
「……ユノの夢、荒らす奴、許さない……」
テラリアは精神世界の足元から無数の岩のトゲを突き上げた。
「目障りな精霊ども……!」
黒水の魔女が顔を歪ませ、津波のような黒水を一斉に放つ。
「舐めないでよね!! みんな行くよ!!」
シルフィの号令とともに、四精霊の合体魔法が炸裂した。暴風が黒水を押し返し、烈火がそれを蒸発させ、聖水と大地が魔女の邪悪な魔力を強引にすり潰していく。
「お、おのれ……! 精神世界では分が悪いか……! だが、いずれ現実の肉体ごと、あなたを私の黒水に沈めてあげるわ、ユノ……!!」
捨て台詞を残し、黒水の魔女の幻影は、精神世界から去って行った。
◇
「——ハッ!」
ベッドの上で、ユノは勢いよく跳ね起きた。全身に冷や汗が流れている。
「先生!? どうしましたか!?」
隣で眠っていたリゼが、異変に気づいてすぐにユノの身体を抱きしめた。
その温もりに触れて、ユノは激しく打っていた心臓を少しずつ落ち着かせる。
「……リゼ。ボク、昔、すごく悪い魔女を閉じ込めたんだ」
「え……?」
ユノは、リゼの服の袖を小さな手でぎゅっと握りしめ、真剣な目で見つめた。
「その魔女の封印が、解けちゃったみたい。……ボクを捕まえるために、この学校にやってくる」
窓の外、静まり返る王都の夜空を見つめるユノ。
かつてない危機がすぐそこに迫っていた。




