第19話 大図書館の伝説
「……それにしても」
ユノに抱きつかれて顔をほころばせていたエレーヌだったが、ふと腕の中の少年の顔を至近距離で見つめ、その動きを止めた。
整った目鼻立ち、どこか超然とした不思議な瞳の光——
(どこかで……いいえ、私はこの眼を知っているわ。この、すべてを見透かすような、それでいてひどく退屈そうな深い双眸を……)
エレーヌの脳裏に、ある一人の「とんでもない男」の記憶が鮮烈に蘇る。それは彼女がまだ新米の司書だった頃の忘れられない強烈な思い出だった。
——10年前。
当時22歳だったユノ・クロウは、王立天文台の所属でありながら、魔法学校の教師として大図書館にふらりと現れた。
先輩司書たちは自由奔放なユノのことを知っていたが、当時19歳の駆け出しの司書だったエレーヌはユノのことを知らなかった。
「少し借りるぞ」
ユノは挨拶もそこそこに、閲覧室の一番大きな椅子にどかりと腰掛けた。
そして、あろうことか大図書館のテーブルの上に、長い脚を無作法に投げ出したのだ。
「ちょっと、ユノ先生! いくらなんでも行儀が悪すぎます!」
エレーヌが慌てて注意するも、ユノは気だるげに前髪をかき上げるだけだった。
「寛いで読書がしたいんだ。すまないがエレーヌ、その棚の右上の本から順番に、あるだけ持ってきてくれ」
その様子を見ていた先輩の司書が、まぁまぁという風にエレーヌをたしなめる。仕方なく言われるがまま、エレーヌは呆れながらも十数冊の分厚い魔導書の束をテーブルの上に置いた。
「……どうぞ」
「感謝する」
ユノは短くそう言うと、読書を始めた。——だが、それはおよそ『読書』と呼べるような所作ではなかった。
ユノが左手で本を開き、右手の指をくるくる回すと、パラパラパラパラ、と凄まじい速度でページがめくられていく。
その信じ難い光景に、エレーヌは驚愕した。
彼は文字を読んでいるのではない。まるで頭の中に直接複写しているかのような——
『速読』という技術がある。
本を速く読むためには、いくつかの能力が要求される。
例えば、文章を頭の中で音読する過程を省略したり、一度に多くの文字を視認したり——それらはトレーニングにより獲得可能とされている能力。
エレーヌ自身も、本を読む速度は常人のそれよりも、遥かに速い。
だが、ユノの速さは異常。
速読にも物理的な限界がある。視覚だけでは捉えられる情報量に限度があるからだ。
——共感覚。
それは生来的にユノが獲得していた能力。
例えば、文字を文字としてではなく「音」や「色」など、連続する刺激として認知処理する能力である。
彼にとって、本の記述は多重奏の体感。さながら荘厳な交響曲のような体験といえよう。
あっという間に一冊を読み終えると、ユノはそれを脇にどけた。
「この本は下げていい。次を持ってきてくれ」
——そこからは、大図書館の歴史に残る大混乱となった。
常軌を逸したユノの速読に、エレーヌ一人では到底本を提供する速さが追いつかない。
見かねた他の司書たちも加わり、数人がかりで棚から本を運び、ユノの前に積み上げ、読み終わった本を大急ぎで元の棚に戻す、という前代未聞の反復作業が始まったのだった。
「次だ」
「は、はいっ!」
「次」
「もうありません、今持ってきます!」
常人離れした神業的な集中力。普通に読めば最低でも10年はかかる大図書館の全蔵書を相手に、ユノはほとんど身じろぎもせず、ただひたすらに情報を貪り続けた。
そして——わずか2時間後。
「……なるほど。参考になった」
すべての蔵書を読み終えたユノは、ふぅと小さく息を吐き、椅子から立ち上がった。司書たちは全員、疲労困憊で床にへたり込んでいた。
ユノは退席する際、ふと思い出したようにエレーヌを振り返った。
「ああ、そうだ。何冊か落丁があったな。……あの棚の4段目、左から12番目の本、96ページが脱落している。それから、歴史書の棚の……」
ユノは館内の棚を指差しながら、次々と落丁があるページを指摘していった。
「えっ!? あ、お待ちください、メモしますから!」
エレーヌは慌てて紙にペンを走らせた。
後日、手分けしてユノに指摘された本をすべて確認したところ——恐ろしいことに、文字の擦り切れやページの抜け落ちなど、ユノが指摘した箇所のすべてが完璧に的中していたのだった。
大図書館には『総点検』と呼ばれる作業がある。
年度末に司書及び学生ボランティアが総出となり、全蔵書の落丁等を確認する恒例行事であるが、通常は一ヶ月程度の期間を要し、さらに100時間以上の残業を余儀なくされる、全司書が最も嫌う作業である。
それをユノはたった一人で、読書のついでにやってのけたのだった。
(2時間ですべての文字を記憶し、さらに欠損まで把握していたなんて……。あの人は人間ではない、本物の化け物だわ……)
当時のエレーヌは、そのあまりの規格外ぶりに、恐怖を通り越して深く感服したのだった。
「……エレーヌお姉ちゃん? どうしたの?」
ユノの声で、エレーヌはハッと現在に引き戻された。
目の前にいるのは、あの傲慢で不真面目だった大賢者とは似ても似つかない、純粋で可愛い男の子だ。
(まさかね。似てはいるけど、いくらなんでもあのユノ先生がこんなに可愛いわけがないわ。……でも、この驚異的な古代語の解読速度といい、ただの子供とは思えない……)
エレーヌが不思議そうな、それでいて確信めいた視線をユノに注いでいると、背後から凄まじい『殺気』が飛んできた。
「——ユウくん、そこで何をしているのですか?」
一歩一歩、地の底から響くような声と共に歩み寄ってきたのは、黒いリゼだった。
その笑顔は完全に凍りついており、ユノをエレーヌから引き離すように、素早くその小さな身体を自分の背後に隠した。
「あ、リゼ! お仕事終わったの?」
「ええ、終わりましたよ。……エレーヌさん、私の『弟』が何かご迷惑をおかけしましたか?」
リゼの過保護すぎる、そして嫉妬に満ちた態度に、エレーヌはクスッと余裕の笑みを見せた。
「いいえ。とっても聡明で、可愛いお利口さんね。……リゼ先生、あなたの弟君、将来がとても楽しみだわ。またいつでも大図書館にいらっしゃい、ユウくん」
エレーヌはユノにウインクをしてみせると、優雅な足取りでカウンターへと戻っていった。
「……先生。エレーヌさんと、ずいぶん仲良しさんでしたね?」
「う、うん。『星の露雫』の本を探してくれるって……。って、リゼ顔が怖いよぉ……っ」
リゼの静かな嫉妬の炎に、ユノは小さくプルプルと震えるのだった。




