第15話 夜のひと時
——コンコン。
21時を少し過ぎた頃、女子寮のリゼの部屋の扉が控えめにノックされた。
扉を開けると、そこにはお風呂上がりで少し髪の濡れたユノが、枕を小脇に抱えて立っていた。
「リゼ……。22時の消灯まで、まだ時間があるから……寂しいし、一緒にいていい?」
上目遣いでおねだり上手に頼むユノの愛らしさに、リゼの胸は一瞬で撃ち抜かれる。
「も、もちろんですよ。どうぞ入ってください」
「わーい、ありがとう!」
ユノを部屋に招き入れたリゼは、机の上の書類に視線を戻した。彼女は今、明日の講義のために必要な基礎魔法の教本や資料をまとめているところだった。
ペンを走らせながら、リゼはふと思い出したことを口にする。
「そういえば先生、さっき大浴場の方から女の子の断末魔のような悲鳴が聞こえた気がしたのですが……何かありましたか?」
「えっ!?」
ユノの小さな身体がビクリと跳ねた。
ユノの脳裏に、『いい!? 誰にも言っちゃダメだからね! 言ったら火だるまにするからね!』と顔を真っ赤にして迫ってきたアリアの姿が蘇る。
「う、ううん! な、なんでもないよ! ボク、何も知らないもん!」
必死に首を横に振るユノ。あまりにも分かりやすい動揺だったが、リゼは「そうですか?」と苦笑するに留めた。
「ボク、リゼの邪魔をしないように、本を読んでるね」
ユノはそう言うと、リゼのベッドの端にちょこんと腰掛け、大図書館から借りてきた古代魔導語で書かれた分厚い魔導書を広げた。
部屋の中に、リゼがペンを走らせる音と、ユノがページをめくる規則正しい音だけが静かに響き始める。
リゼはふと、資料から目を離してユノの横顔を見つめた。
小さな手で分厚い本を支え、真剣な眼差しで文字を追うその姿——
(……ああ、やっぱり先生は先生なんですね)
胸の奥が、きゅっと切なくなる。
22歳だった当時のユノも、研究室のソファでいつもこうして本を読んでいた。
気だるげで不真面目に見えて、誰よりも本を愛し、世界の真理を追い求めていた大賢者。
姿形は子供になっても、その本質は何も変わっていない。
先生はよく言っていた。『本を読め。大抵のことは、すでに先人が書き残している』と。
いつまでも見ていられるような、愛おしい横顔——
やがて、ページのめくられる音が途絶えた。
時計の針は21時半を回っている。見ると、ユノは分厚い魔導書を胸に抱えたまま、こっくりこっくりと船を漕ぎ、そのままベッドにパタリと倒れ込んでしまった。
「ふふ、さすがに眠くなってしまいましたね」
リゼは机の灯りを落とし、ベッドに近づいてユノの手からそっと本を抜き取った。
すやすやと規則正しい寝息を立てるユノ。もうすぐ22時の消灯だ。
今から起こして隣の部屋へ連れて行くのも可哀想に思えてくる。
「……仕方ありませんね。今夜は特別ですよ、先生」
リゼはそっとユノの隣にもぐり込み、毛布をかけ直す。
すぐ隣にある、小さくて温かい身体。その温もりに触れているだけで、日中の緊張や、アルトリウス学長から告げられた重い選択の悩みが、嘘のように溶けていく気がした。
その時、ユノが寝返りを打ち、リゼの服の袖を小さな手でぎゅっと握りしめた。
「ん……。リゼ……大好き……」
微かな、けれど確かなユノの寝言。
「っ……!」
リゼの心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
顔が熱くなり、愛おしさが胸の奥から溢れ出して止まらなくなった。
(ずるいです。本当に、ずるい……)
記憶がなくても、身体が小さくなっても、この人はいつも私の心を乱していく。
アルトリウス学長は、ユノを学校に預けて危険な旅をやめるべきだと言った。それが一番安全なのだと。
けれど、この寝顔を、この温もりを、手放すことなんて自分にはできない。
(たとえ先生の時間が永遠に止まっていたとしても……。私は、あなたの隣にいます。どんな危険が待ち受けていようと、私があなたを守って、一緒に歩んでみせます)
リゼはユノの小さな手をそっと包み込むように握りしめ、静かに目を閉じた。
窓から差し込む月光が、寄り添って眠る二人を優しく照らしていた。




