トマの日記~エティエンヌ・その4
エティエンヌは、自分の患者の往診を終えてから、僕を迎えにきてくれた。
彼は、誠実な医師だった。だから、彼の患者からは絶大なる信頼を得ていた。自己犠牲も
辞さないほどの熱心さだ。
ただ、僕が知っているのは、それだけで他の事は何も知らなかった。年齢もはっきりと
聞いていなかった。若いころには、美しく輝いていたはずの彼のブロンドの髪には、銀色
がうっすらと混ざり込んでいたけど、金縁のめがねをかけるとそれが一層、彼に気高さを
醸し出させた。
僕は、エティエンヌにオルゴールをプレゼントする事にしていた。
ママが昔、くれたものだ。木製で、手作りで、メロディは『愛の挨拶』だ。
小さかった僕は、いつも寝る時このオルゴールを開いて眠りについた。
エルガーの『愛の挨拶』
今、僕が一番エティエンヌに捧げたいメロディだ。
僕は彼の手の上にオルゴールをのせ、蓋をあけた。
優しく、甘く、慎ましやかな音が『愛の挨拶』を奏でる。
僕はこっそりエティエンヌを覗き込むと、彼は頬をほころばせて、
「美しいね。」と言ってくれた。
しばらく、二人で何度もネジを回して聞き入った。
何回か聞き返した後、エティエンヌは、思慮深い青灰色の目を僕に真っ直ぐにむけて
少しはにかむようなしぐさで、僕の額にキスをしてくれた。
そして、僕には白いマフラーを用意してくれていた。
僕の首にそれを巻きつけてくれて、「よく似合う。」と言った。
クリスマスらしい飾りが何一つない部屋で、僕たちはエティエンヌのお手製の料理を
楽しんだ。
なかなかの腕前で驚いた。そして、借りて読んでいた本の中に挟まれたまま、忘れられて
いるらしい一枚の写真の事を思い出した。
その写真には、若いエティエンヌとその横で美しい笑みを浮かべる女性が写っていた。
その事について聞いてみたい衝動にかられたけど、彼のごきげんを損ねるのが怖くて
いいだせなかった。
話題は、読んだ本の感想ばかりだったけど、エティエンヌは、黙って聞いていて、時折
自分の考えを聞かせてくれたので楽しかった。
でも、物足りない。二人で何かを恐れているような感じ。
なるべくそこに話題が向かっていかないように用心している感じ。
ぼちぼち本の話にも飽きてきて、僕は、あの写真の事をききたくなってきた。
で、自分でも気付かないうちに、真剣な目つきで彼をみつめていたようだった。
それに耐えきれなくなったのか、急に、エティエンヌは立ち上がると、
「さて、もう片付けよう。」といって、台所へ行ってしまった。
僕も慌てて立ち上がり、二人、黙々と食器を洗ったり、片付けたりした。
そうして、やがて、いつものように僕は一人、寝室に放り込まれた。
「では、おやすみ。」
とそっけなく挨拶をして、彼はまた階下へと降りていった。
僕はなんだか、ひどく傷ついて泣きたくなった。
そして、本当に涙が出てきたので、慌ててシャワーを浴びた。
ひとしきり、シャワーを浴びながら気のすむまで泣いてから、ガウンを着てベッドに
座った。
やっぱり、寝る気にはなれなかった。そこで、また、エティエンヌの居場所を探し
に部屋を抜け出した。
彼はやはり、書斎にいるようだった。細心の注意を払いながらドアをほんの少し
開けてみた。すると、彼はいつものように眼鏡をかけていて、本を前にしてはいたけど、
顔は天井にむけたままで放心したような風情で腕がだらりと椅子の横に放り出されていた。
まるで魂をぬかれた人のようで、さすがの僕もいつものように何食わぬ顔で入っていくのが
ためらわれた。
少しまよったけど、寝室に戻る気にもなれず、書斎の扉をまた細心の注意を払いながらしめ、
その扉を背にしてそこに坐り込んだ。
そして、僕も廊下の天井をみつめてどうしたものかと考えを巡らせていた。
どれぐらい、そうしていたんだろうか。またしても居眠りをしてしまったようで、
僕のからだが後ろに倒れ込んでいく感じがしたと思うと、後頭部をおもっきりぶつけて
目がさめた。その真上からエティエンヌが目を大きく見開いて立っていた。
そして、見下ろしながら、
「そこで何をしてたんだ?」と聞いた。
僕は、あまりに不意打ちをくらったのとぶつけた後頭部が痛くて、そのまま丸まって
「ごめんなさい・・・。」と小声で答えた。
すると、エティエンヌは僕を抱き上げ、書斎の壁ぎわの大きな長椅子に寝かせてくれた。
そして、僕の後頭部の具合を確かめ、「どんな感じ?」ときくので、
「少し痛むけど大丈夫。」と答えた。
彼は少し安心したように、優しく微笑んでくれた。
僕は、また心配させてしまった事を恥じて、もう一度「ごめんなさい」と言おうとすると、
彼が、僕の裸の足に触れた。
「こんなに冷え切って。いつからあそこにいたんだ?」
と言い終わらぬ内に、僕のその冷たい足に彼の温かい息をふきかけながら、マッサージ
を始めた。彼の優美な指が僕の足を撫でさすってくれているのが見えた。
綺麗な指だ。と、うっとりしている内に、僕の心臓が激しく高鳴り始めた。
彼の灰色混じりのブロンドの髪が僕の足元でゆっくりと波打っている。
熱心に、懸命に、彼は息をふきかけては、優しく、力強く、また優しく、僕の足が温まる
まで、一心にその作業を続けていた。
彼の顔に垂れ下がるブロンドの髪はウェーブしていて、鼻梁と額の影の部分のふせている
彼の目元は豊な睫毛でおおわれていた。
僕はたまらなくなってきた。彼を抱きしめたくなってきた。そして、彼の綺麗で慎み深い
静かな顔に敬意と愛情のキスをしたくなった。ほとんど、衝動的に僕は彼の手からその足
をひっぱりだして、そのまま彼に抱きついて床に二人で転がった。
間髪をいれずに、エティエンヌの上から彼の肩を押さえつけ、彼の首すじに何度もキスを
して囁いた。
「僕をこわがらないで。エティエンヌ・・・もう、僕はこどもなんかじゃないよ」
何度も何度も、そう彼の耳元で囁きながらキスし続けた。僕の心臓は爆発しそうなぐらい
に音をたてて、からだは熱く燃えるように感じられた。
最初は硬直していた彼のからだにもその熱は伝わったようで、彼の胸からも激しい動機が伝
わってきた。彼の腕がゆっくりと僕のからだをつつみこみ始めた。まるで、少しずつ、何か
の呪文がとけていくように、怖れをのりこえて行こうとしているように。
そして、僕たちは本物のキスをしたんだ。




