1話 妖術と高級料理へのあこがれ
西暦1878年、イタリア。
昼を告げる鐘が鳴る頃、ナポリの下町にあるトラットリア・リナルディは、いつものように腹を空かせた客でいっぱいになった。
開け放した扉から港の喧騒が流れ込み、店内には客の笑い声が響いている。
厨房の大鍋では肉とトマトを煮込んだラグーが静かに泡を立て、茹で上がったマカロニにたっぷり絡められていく。
その鍋を仕切っているのが、店主のロレンツォ・リナルディだった。
「親父! 三番の席、マカロニのおかわりだってよ!」
「おう! 今よそうから皿を持ってこい!」
「それから、あっちのおっちゃんが肉をもっと入れろってさ!」
「まったく、あいつはいつもそれだな! 肉屋じゃねえんだぞ、うちは!」
そう言いながらもロレンツォは皿に肉を一切れ足した。マッテオが運ぶと、常連の男は満足そうに笑い、代わりに息子のことをよく働くようになったと褒めた。
「聞いたか、親父! 俺も一人前だってさ!」
「皿を落とさず運べるようになっただけだろ! 喋ってねえで次を持っていけ!」
客たちはどっと笑った。十二歳のマッテオは口の減らない少年で、料理を運んでいても誰かに話しかけられれば、すぐに立ち止まってしまう。
学校が終われば店を手伝い、手が空けば厨房を覗き込んだ。父親の手元を見るのが好きだった。
ロレンツォは頑固で味付けにうるさいが、客の好みを覚えており、食事を喜ばれると自分も嬉しそうにする。マッテオは父の料理が美味しいことを誰より知っていた。
それでも、毎日来る顔ぶれは似ている。注文される料理も決まっていて、今日も昨日と同じラグーが売れていく。
マッテオは時々、もっと見たことのない料理を作ってみたいと思っていた。
食事を終えた常連客が、腹をさすりながら席を立った。
「今日も美味かったよ、ロレンツォ」
「おう、また明日も食べにおいで!」
ロレンツォが大きく手を振ると、男は笑って帰っていく。マッテオは空いた皿を片づけながら首を傾げた。
明日も同じ人が来て、同じ料理を食べて帰る。それがどうして、あんなに嬉しいのだろう。
自分だったら、遠くの街からも客が押し寄せるような立派な料理を作りたい。父のラグーを運びながら、マッテオはまだ見ぬ自分の店を思い描いていた。
昼の客が引けると、夕食の仕込みが始まった。マッテオは玉ねぎを刻み、切ったものを木の器に集めていた。ところが、背後から覗き込んだロレンツォにすぐ注意される。
「そこはもっと細かく切れって言っただろ!」
「これくらいでいいじゃねえか。煮れば柔らかくなるって!」
「大きさがばらばらなら火の通り方も変わる。よくねえから言ってるんだ!」
「親父は細かいんだよ!」
「細かく切れって話をしてるんだろうが!」
マッテオが言い返そうとした、その時だった。調理台の端に置いてあった小さな匙が、からりと音を立てた。
二人の手は匙から離れている。転がったわけでもない。それなのに、匙は木の台の上を指一本ほど滑った。
「……今の、親父が動かしたのか?」
「お前じゃねえのか?」
マッテオがじっと見つめると、匙の柄がかすかに震えた。息を呑んだ拍子に、それきり動かなくなる。
ロレンツォは厨房の入口を確かめ、声を落とした。
「マッテオ。もう一度、今のをやってみろ」
マッテオは言われるままに匙を睨んだ。念じてみても動かず、顔を真っ赤にして力むと、ようやく柄の先がわずかに揺れる。
「すげえ! 俺にも妖術が使えるのか!」
「声がでけえ! 客に聞こえたらどうする!」
父親に口を押さえられ、マッテオは目を丸くした。月読の血を引く一族には、他人に隠すべき力が現れると聞いていたが、自分にも起こるとは思わなかった。
ロレンツォが手を離すと、マッテオは小声で何度も匙に向かって念じた。しかし、大きく浮き上がるどころか、転がすことさえできない。
「何だよ。もっと派手なことができねえのか?」
「目覚めたばかりなんだ。無理に使うな。店の外でも、ほかの人間の前でも、絶対に試すんじゃねえぞ」
「分かってるよ。でも、どうしたら上手くなるんだ?」
ロレンツォは返事に詰まった。自分には妖力の制御法を教えられない。しばらく考えた末、旧知の久遠に相談することにした。
数日後、食堂に見慣れた青年が現れた。穏やかな顔で扉をくぐると、厨房のロレンツォに向かって手を振る。
「こんにちは、ロレンツォ。いい匂いがするねぇ」
「那岐様! よくいらっしゃいました。ちょうどラグーが煮上がったところです!」
ロレンツォの声は、旧友に会ったように弾んでいる。
伊奈久遠はロレンツォが若い頃からの知り合いで、マッテオにとっても、何年経っても姿の変わらない親戚のお兄さんのような存在だった。
「久遠! 俺に妖術が使えるようになったんだぜ!」
「あはは。聞いたよ。まずは落ち着いて使えるようになろうか」
久遠はロレンツォの用意した料理を喜んで食べ、食堂が一段落するとマッテオを裏手へ連れていった。人目につかないところに台を置き、例の小さな匙を載せる。
「動かそうとする前に、肩の力を抜いてみようね」
「抜いたら力が出ねえだろ?」
「そう思うかもしれないけど、力むと余計なところに力が入っちゃうからさ」
マッテオは半信半疑で息を整え、匙に意識を向けた。柄が少し動いたところで嬉しくなり、一気に力を込める。すると匙は小さく跳ね、台の端から落ちそうになった。
「おっと。今度は止めてみようか」
「止めるって、どうやってだよ!」
「使おうとするのをやめるんだよ。怒っても慌てても、勝手に出ないようにね」
匙は少しずつ動かせるようになったが、動かさないようにする方がずっと難しい。
「これだけか? 俺、もっと大きな物を動かせると思ってたのに」
「うん。マッテオの妖術は、あまり強くないみたいだねぇ」
「何だよ、それ! 久遠みたいに何でもできるんじゃねえのか!」
「私だって何でもできるわけじゃないよー。それに、強い力があれば便利だとは限らないからね」
久遠は匙を拾い、もう一度台の中央へ置いた。誰かの前で突然動かさないこと、興奮した時ほど落ち着くことを、マッテオができるまで繰り返した。
そのうちマッテオは、別の使い道を思いついた。
「なあ久遠、妖術で鍋をかき混ぜたり、包丁を動かしたりできねえのか?」
「できる人もいると思うけど、今のマッテオには難しいかなぁ。包丁は危ないしね」
「ちぇっ。便利だと思ったのによ」
「でも、料理は自分の腕で作りたいんじゃなかったの?」
「当たり前だろ! 俺は世界一の料理人になるんだからな!」
「だったら、料理の方を頑張ればいいねぇ」
マッテオは一瞬むっとしたが、すぐに笑った。匙が浮かなくても、父の鍋を超えるには困らない。妖術の練習を終えた足で厨房へ戻ると、早速夕食の仕込みを手伝い始めた。
その数日後、マッテオは父に頼まれて市場へ出かけた。必要な野菜を買い揃えた帰り道、いつもなら通らない通りへ足を向ける。立派な建物の前に馬車が停まり、着飾った男女が中へ入っていくのが見えた。
入口の向こうには白い布を敷いた食卓が並び、給仕たちは背筋を伸ばして料理を運んでいる。
ちょうど扉が開いた時、銀色の皿に載った肉料理が通り過ぎた。艶のあるソースが肉に添えられ、付け合わせの野菜まで綺麗に並べられている。
思わず足を止めたマッテオに、外で荷を下ろしていた男が、あの店はフランス仕込みの料理で評判なのだと教えてくれた。
フランスの料理法を取り入れた店がナポリにもあるとは聞いていた。しかし、目の前の料理は父のラグーとはまるで違う。一皿に料理人の腕前が表れていた。
どんな味がするのだろう。あのソースはどうやって作るのか。マッテオは買い物袋の重さも忘れて見入った。
あんな料理を自分で作れたら、どれほど気持ちがいいだろう。大勢の客が名前を覚え、遠くからわざわざ食べに来てくれるかもしれない。
帰るなり、マッテオは厨房に飛び込んだ。
「なあ親父! 俺、いつかああいう立派な店で料理を作りてえ!」
「何だ、藪から棒に。買い物は済ませたのか?」
「済ませたよ! それよりフランス料理だ! すげえ綺麗な料理だったんだ!」
ロレンツォは受け取った野菜を確かめながら、興味があるなら勉強すればいいと答えた。思いがけずすんなり認められ、マッテオはますます調子に乗る。
「そうだろ! うちの料理も美味いけどさ、あんな風に盛り付けたらもっと立派に見えるぜ。親父の料理はちょっと地味だしな!」
「……何だと?」
「いや、味は好きだよ。でも、毎日マカロニとラグーばっかりじゃさ。俺ならもっと――」
「お前、誰がそのマカロニを食いに来てると思ってやがる!」
ロレンツォは鍋をかき混ぜる手を止めた。マッテオも引き下がらない。
「客が好きなのは分かってるって! だからって、ほかの料理を作っちゃいけねえのかよ!」
「そんなことは言ってねえ! 今の料理を馬鹿にするなって言ってるんだ!」
「馬鹿になんかしてねえよ! 俺はもっとすげえ料理人になりてえんだ!」
互いの声が大きくなり、厨房の従業員は顔を見合わせた。また始まった、と言いたげだった。
その晩、久遠は食堂で夕食を取っていた。ラグーを一口食べて満足そうに頷いたところへ、奥から親子の言い争いが聞こえてくる。
「だから俺はフランスで料理を学びてえんだ!」
「その前に、うちの仕事をきちんと覚えろってんだ!」
久遠は二人を見比べ、楽しそうに笑った。
「マッテオはフランス料理を勉強したいんだねぇ」
「そうだよ! 俺は世界一の料理人になりてえんだ!」
「いいじゃない。学びたいことがあるのは素敵だと思うよ」
「ほら見ろ親父! 久遠だって俺の味方だ!」
「調子に乗るな! お前はまだ俺のラグーもまともに作れねえだろ!」
「それは今だけだ! すぐに追い越してやる!」
「でも、私はロレンツォの料理も好きだよ」
久遠が皿のソースをパンですくうと、今度はロレンツォが胸を張った。
「ほらな! 那岐様にも分かっていただけるんだ!」
「そうかなぁ。私は二人とも頑張ればいいと思うけどねぇ」
「どっちの味方なんだよ、久遠!」
「どうしてどちらかの味方をしなくちゃいけないの?」
マッテオもロレンツォも返事に詰まった。久遠は相変わらず笑っている。
「それに、ロレンツォも昔は月読にずいぶん反抗していたよねぇ」
「那岐様! それとこれとは話が違います!」
「そうかなぁ? 私にはそっくりに見えるけど」
マッテオは目を輝かせた。
「何だよ親父! 昔は親父も反抗してたのか!」
「うるせえ! お前には関係ねえ!」
久遠によると、若い頃のロレンツォは、一族の長である月読から生き方に口を出されるのが気に入らなかったらしい。自分はナポリで料理人になり、自分の店を持つのだと言い張って、何度も衝突したという。
「ロレンツォは、どうしても料理を作って暮らしたかったんだよ。だから私も、修業先を探したり、店を開く時に少し手伝ったりしたんだ」
「那岐様のご援助がなければ、この店はありませんでした。そこは今でも感謝しております」
「でも、料理が上手くなったのはロレンツォが頑張ったからだよ」
父が苦労して店を開いたことは知っていたが、月読にまで食ってかかっていたとは知らず、マッテオは可笑しくなった。
「何だ、俺と一緒じゃねえか!」
「一緒にするな! 俺は自分の腕を磨いてから店を持ったんだ!」
「俺だって磨いてるだろ!」
「だったら口より手を動かせ!」
とうとうマッテオが言い返せなくなると、久遠は声を立てて笑った。ロレンツォは苦い顔をしたまま、久遠の空いた皿を見つけると、すぐにおかわりを勧める。
「今日のラグーも美味しかったよ。ありがとう、ロレンツォ」
「那岐様にそう言っていただけるのが、一番嬉しいですよ!」
「俺だって、もっと美味いのを作ってみせるからな!」
「まずはその口を閉じて、一皿作ってみろ!」
また始まった口喧嘩に、近くの客たちまで笑い出した。久遠は二人を止めようともせず、残りの料理をゆっくり楽しんでいた。
店が閉まった夜、マッテオは一人で厨房に残っていた。鍋の底に残ったラグーの味を確かめ、自分で作ったソースと比べてみる。材料は同じはずなのに、父の料理には肉の旨味がもっと深く染み込んでいる。
「ちくしょう……何で親父みたいにならねえんだよ」
もう一度火加減を見直そうとした時、入口から久遠が顔を覗かせた。
「まだ練習していたんだねぇ」
「当たり前だろ。俺は親父を超えるんだからな!」
「そうなんだ。ちょっと味見してもいい?」
マッテオは小皿に自分のラグーを取り分けた。久遠が一口食べる間、じっとその表情を見つめる。
「うん、美味しいよ」
「本当か!?」
「うん。でも、ロレンツォのラグーとは違う味だねぇ」
「……やっぱりそうか」
肩を落としかけたマッテオに、久遠はどんな料理人になりたいのかと尋ねた。
「決まってるだろ! フランス料理を習って、でっかい店で働いて、世界一の料理人になるんだ。そんで親父にも、俺の方が美味いって言わせてやる!」
「あはは。だったら、たくさん勉強しないとねぇ」
「もちろんだ! 俺は本気だからな!」
久遠はしばらく考え、フランスに料理人の古い知り合いがいることを話した。マッテオが身を乗り出すと、すぐに紹介を約束するのではなく、まずは今の修業を大切にするよう勧める。
「本当にフランスで学びたくなったら、いつか力になれるかもしれないね。でも、ロレンツォの料理もちゃんと覚えておいた方がいいと思うよ」
「分かってるよ! 親父に負けっぱなしなんて、ごめんだからな!」
久遠は笑い、台所の奥へ引き揚げていった。
マッテオは再び鍋に向き合う。父の味にはまだ届かず、フランスで学べる日が来るかも分からない。それでも、いつかどちらも自分のものにしてみせる。
十二歳の少年の目には、世界一の料理人という夢が、誰にも負けないほど鮮やかに輝いていた。




