後日談 藤娘
西暦1875年(明治8年)、神在月の出雲では、不老長寿の一族が年に一度の宴を楽しんでいた。
旅館の大広間には世界各地から集まった一族の人々が顔を揃え、久しぶりの再会を喜び合っている。料理や酒が次々と運ばれ、あちらこちらから楽しそうな笑い声が聞こえていた。
イザベラも久遠と月読に挟まれながら、初めて参加する一族の宴を楽しんでいた。
日本語はまだほとんど分からなかったが、久遠がその都度通訳してくれるため、会話に困ることはなかった。
珍しい料理について尋ねれば丁寧に教えてくれるし、近づいてきた一族の人々も親しげに声をかけてくれた。
そんな中、一人の男性が久遠のもとへやって来て、何かを耳打ちした。
久遠は頷くと、イザベラに顔を向けた。
「イザベラ、ちょっと席を外すね」
「あら、何か用事なの?」
「うん。ちょっと支度があってねぇ。しばらくしたら戻ってくるよ」
「そうなの。行ってらっしゃい」
久遠は立ち上がりかけたが、何かを思い出したように周囲を見渡した。
「そうだ。その間、ルーカスに一緒にいてもらおうかな」
少し離れた席で酒を楽しんでいたルーカスを見つけると、久遠は手招きして呼び寄せた。
「那岐様、何か御用ですか?」
「ルーカス、私が戻るまでイザベラのことをお願いできるかな? まだ日本語が分からないから、何かあったら教えてあげてね」
「お安い御用ですぜ、那岐様!」
「ありがとう。じゃあ、よろしくね」
久遠が大広間を出ていくと、ルーカスは空いた席に腰を下ろした。
金髪に立派な髭を蓄え、身長は二メートル近くもある大男である。小柄で少年のような久遠とはあまりにも体格が違うため、イザベラは思わず笑ってしまった。
「あら、随分と大きな付き添いの方ね」
「がはは! 那岐様とは身体の大きさが違うからな!」
ルーカスは豪快に笑いながら、空になった杯に酒を注いだ。
イザベラは先ほど紹介されたばかりの彼について、少し興味を持っていた。元ヴァイキングというだけでも驚きだったが、すでに千年以上を生きているというのである。
「ルーカス、あなたは本当に千年以上も生きていらっしゃるの?」
「おう。もう長いこと生きてるな。昔のことなんざ忘れちまったものも多いぜ」
「まあ……私には想像もつかないわ」
「がはは! 長く生きてりゃ、嫌なことも楽しいことも山ほどあるもんさ。だから、こうして昔馴染みと酒を飲めるのが嬉しいんだよ」
イザベラは大広間を見渡した。
周囲では年齢も容姿もさまざまな人々が、互いの近況を語り合っている。言葉も国籍も違う者たちが、同じ一族として親しく交流していた。
ルーカスもまた、この宴を心から楽しみにしている一人なのだろう。
やがて、大広間の奥で従業員たちが忙しく動き始めた。
宴席の一角には舞台が設けられており、先ほどから楽器や道具が運び込まれている。
「あら、何か始まるのかしら?」
「おお、そろそろ余興ですな」
「余興?」
「今夜は日本の芸能を披露するそうだ。歌舞伎舞踊もあるらしいぜ」
「歌舞伎……名前は聞いたことがあるけれど、見たことはないわ」
「それなら楽しみにしていなされ。なかなかの見ものだぜ」
「あら、そんなに素晴らしいの?」
「がはは! そりゃもう!」
妙に楽しそうなルーカスの様子に、イザベラは首を傾げた。
そこへ月読が口を挟む。
「ルーカス、余計なことまで話さないように」
「分かってますって、月読様!」
二人は何やら事情を知っている様子だったが、イザベラには何のことか分からなかった。
やがて三味線の音色が響き始め、宴席の人々が舞台へ視線を向ける。
イザベラも初めて聴く日本の音楽に耳を傾けた。
西洋の音楽とはずいぶん違う響きだった。弦を弾く独特の音色に合わせて歌が始まり、時折、笛や太鼓の音も加わる。
最初の余興が終わると、観客から盛大な拍手が送られた。
続いて、次の演目が告げられる。
『藤娘』
舞台には大津絵を模した背景が設けられ、三味線と長唄が再び響き始めた。
そして、絵の中から抜け出してきたかのように、一人の娘が姿を現した。
藤の花模様をあしらった華やかな着物をまとい、頭には塗笠をかぶっている。手には藤の枝を携え、ゆったりとした足取りで舞台へ進み出た。
娘は笠を少し傾け、ゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、イザベラは思わず息をのんだ。
「まあ……なんて綺麗な方なのかしら」
整った顔立ちに、優雅な立ち姿。華やかな衣装がよく似合い、袖から覗く手の動きにまで気品が感じられた。
「ほう、お気に召しましたか」
「ええ。とても美しいわ」
ルーカスは口元を緩ませた。
「……そいつはよかった」
「どうして笑うの?」
「いやいや、何でもありませんぜ」
イザベラは不思議に思いながらも、すぐに舞台へ視線を戻した。
娘は藤の枝を肩に担ぎ、三味線と長唄に合わせてゆっくりと舞い始める。
笠を傾け、袖を返し、足を運ぶ。その動きには無駄がなく、一つひとつの所作が丁寧だった。
ときには恥じらうように顔を伏せ、ときには遠くにいる誰かを思い浮かべるような表情を見せる。
イザベラには歌詞の意味までは分からなかった。それでも、娘が何かを思い悩み、恋しい人へ想いを寄せていることは、その仕草から伝わってくるようだった。
「ねえ、ルーカス。これはどんなお話なの?」
「恋する娘の心を踊りで表しているんですな。相手を想う気持ちや、思いどおりにならない切なさなんかをね」
「そうなのね……」
イザベラは改めて舞台を見つめた。
娘は少し拗ねたように顔を背けたかと思えば、次の瞬間には可愛らしい仕草で微笑み、藤の枝を揺らしている。
その変化が実に自然だった。
「言葉が分からなくても、気持ちが伝わってくるものなのね」
「そういう芸ですからな」
「本当に見事だわ。まるで本物の娘さんみたい」
「……ぶっ!」
ルーカスが突然、吹き出した。
「あら?」
「な、何でもありません!」
慌てて口元を押さえるルーカスに、月読が冷ややかな視線を向ける。
「ルーカス、少しは静かになさい」
「す、すみません……」
イザベラは二人の様子を不思議に思ったものの、それ以上は気にしなかった。
舞台では娘が軽やかに舞い続けている。
藤の枝を優しく揺らし、長い袖を翻しながら、音曲に合わせて身体を動かす。ときには笠の陰から客席を覗くような仕草も見せ、観客たちを楽しませていた。
イザベラはすっかり魅了されていた。
日本に来てから、初めて見るものや経験することがいくつもあった。けれど、このような美しい舞踊まで見られるとは思っていなかった。
「ああ……久遠にも見せてあげたかったわ。きっと喜んだでしょうに」
月読は一瞬だけ言葉を止めた。
「……そうですね」
その隣では、ルーカスが口元を押さえたまま肩を震わせている。
やがて舞踊は終盤を迎えた。
娘は最後まで優雅な所作を崩すことなく舞い続け、長唄の節が収まると、美しい姿勢を保ったまま舞台から退場した。
大広間には盛大な拍手が響いた。
イザベラも惜しみなく拍手を送った。日本の歌舞伎舞踊というものが、これほど素晴らしい芸能だったとは知らなかったのである。
「本当に素敵だったわ!」
「がはは! そりゃよかった!」
ルーカスは嬉しそうに笑っていた。
舞踊が終わると、宴席は再び賑やかになった。
次の余興の準備が進められる中、イザベラは先ほどの藤娘について、ルーカスと楽しそうに話していた。
「あの娘さん、もう一度お会いしてみたいわ。あんなに美しい舞踊を披露してくださったんですもの」
「がはは! そりゃ、いつでも会えますぜ!」
「え? どういうこと?」
「いやいや、何でもありません!」
その時、大広間の入口から聞き慣れた声がした。
「イザベラ、お待たせー」
振り向くと、久遠がいつもの柔らかな笑みを浮かべながら戻ってきていた。
「あら、久遠。お帰りなさい」
「ただいま。ルーカス、ありがとう。助かったよ」
「いえいえ! こちらこそ楽しませてもらいましたぜ!」
「……ルーカス?」
久遠は首を傾げたが、深くは気にせず元の席に腰を下ろした。
イザベラは早速、先ほどの素晴らしい舞踊について話し始めた。
「ねえ、久遠。あなたがいない間に、とっても素敵な舞踊があったのよ!」
「あはは。そうなんだねぇ」
「藤娘っていうの。ご存じ?」
「うん。知っているよ」
「それなら話が早いわ。とても綺麗な娘さんが踊っていたのよ!」
「へえー。そんなに綺麗だった?」
「ええ! 衣装も素敵だったし、踊りも本当に優雅だったわ。あなたも見られたらよかったのに」
「あはは。それはちょっと難しいかなぁ」
「あら、どうして?」
「だって、私が踊っていたんだから」
「…………え?」
イザベラは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……今、何ておっしゃったの?」
「私が藤娘を踊っていたんだよ」
イザベラは久遠の顔をじっと見つめた。
そして、先ほど舞台で見た美しい娘の姿を思い浮かべる。
言われてみれば、たしかにどこか似ていた。顔立ちも、柔らかな表情も、今こうして目の前にいる久遠と重なるところがある。
「ええええっ!? あの娘さんは久遠だったの!?」
「あはは。そんなに驚くことかなぁ」
「だって……だって、あんなに綺麗な娘さんだったのよ!」
「いやぁ、ありがとう。でも私は男なんだけどねぇ」
「それは知っているわよ!」
そこでとうとう、ルーカスが腹を抱えて笑い始めた。
「がっはっはっは! もう駄目だ! 腹が痛い!」
「まったく……少しは品よく笑えないのですか」
月読は呆れたように言ったが、その口元にもわずかな笑みが浮かんでいた。
イザベラは改めて久遠を見つめた。
今の久遠は、二年間一緒に農場で暮らしていた頃と何も変わらない。柔らかな口調で話し、いつも楽しそうに笑っている少年のような人物である。
その久遠が、先ほどまであれほど美しい娘を演じていたというのだから、驚かずにはいられなかった。
「でも久遠、どうしてあなたが女性の役を演じていたの?」
「歌舞伎では男が女性を演じることもあるんだよ。女方っていうんだけどね」
「あら、そうなのね」
「うん。私も昔、少し稽古したことがあってさぁ。こういう宴で踊ることもあるんだよ」
そこへ月読が口を挟んだ。
「父上の『少し習った』というのは、普通の人間とは年月の感覚が違いますからね」
「えー。そんなに長くないよー」
「さて、どうでしょう」
ルーカスも愉快そうに口を開く。
「なにせ那岐様は昔からお美しいですからな!」
「もう、ルーカスまでからかわないでよー」
久遠は困ったように笑っていた。
イザベラはそんな三人のやり取りが可笑しくて、また笑ってしまった。
「ああ、でも本当に綺麗だったわ。ねえ、久遠。もう一度、あの衣装を着て見せてくれないかしら?」
「えっ? もう着替えちゃったよ。化粧も落としたし……」
「あら、残念ね」
「また機会があればね」
「ふふ。それなら楽しみにしているわ」
久遠は照れくさそうに笑った。
やがて宴も終わりに近づき、一族の人々は最後の料理や酒を楽しんでいた。
久遠もイザベラの隣で、何事もなかったように料理を食べている。
その姿を眺めているうちに、イザベラはまた笑みをこぼしてしまった。
「ん? どうしたの?」
「ふふ……何でもないわ」
「変なイザベラだねぇ」
「だって、さっきまであんなに美しい娘さんだったのに、今はこうしてお料理を美味しそうに食べているんだもの」
「あはは。踊ってお腹が空いちゃったんだよー」
「そうでしょうね」
久遠は料理を口に運びながら、イザベラに尋ねた。
「イザベラも楽しめた?」
「ええ。本当に素敵な夜だったわ」
「それならよかったよ」
イザベラは賑やかな大広間を見渡した。
世界各地から集まった一族の人々が、笑い合いながら互いの近況を語り合っている。久しぶりに再会した者たちも、今夜初めて知り合った者たちも、同じ宴を楽しんでいた。
そして、その中心にいる久遠も、皆と変わらず笑い合っている。
イザベラは隣にいる久遠へ顔を向けた。
「ねえ、久遠。また来年も、この宴に連れてきてくれる?」
「もちろんだよ。来年も一緒に来ようね」
「ありがとう。楽しみにしているわ」
「あはは。今度はどんな余興があるかなぁ」
イザベラは少し考えてから、楽しそうに微笑んだ。
「そうね。できれば、また藤娘を見てみたいわ」
「えー、また私が踊るの?」
「ふふ。お願いできるかしら?」
「うーん……考えておくよー」
イザベラは声を上げて笑った。
日本へ来てから、初めて経験することばかりだった。そして今夜も、久遠の思いがけない一面を知ることができた。
来年も、またここへ来られる。
その時には、どんな楽しい出来事が待っているのだろう。
イザベラは今から楽しみで仕方なかった。




