7話 神への誓い
西暦1875年(明治8年)・出雲
神在月の宴が終わった翌朝、イザベラは久遠と向かい合って朝食を取っていた。
昨夜は遅くまで大広間が賑わっていたが、今朝の旅館は静かだった。窓の外では木々の葉が風に揺れ、廊下の向こうから時折、従業員の足音が聞こえてくる。
久遠はいつもと変わらぬ様子で食事を楽しんでいた。
「うん、美味しいねぇ。イザベラもちゃんと食べてる?」
「ええ。いただいているわ」
「今日はどうしようか。せっかく出雲まで来たんだし、もう少し観光していこうか?」
「そうね。それも楽しそうだわ」
昨夜の宴で、イザベラは久遠の正体を知った。
日本神話に名を残す伊邪那岐。そして、不老長寿の一族の祖。
そんな人物が、今は目の前で料理を美味しそうに食べ、次の旅行先を考えている。
その姿を眺めているうちに、イザベラは自然と笑みを浮かべていた。
「ねえ、久遠。一つお願いがあるのだけど」
「ん? 何かな?」
「これから私も、あなたを那岐と呼んでもいいかしら?」
「うん。好きな方で呼んだらいいよ」
久遠は特に気にする様子もなく答えた。
「ありがとう。それから……」
「うん?」
「私も、あなたを神として信じたいの」
「……え?」
久遠は箸を持つ手を止めた。
「いや、イザベラ。昨日も言ったでしょ。私は神様じゃないんだよ」
「ええ。ちゃんと聞いていたわ」
「だったら、どうして……」
「でも、私が何を信じるかは、私が決めてもいいでしょう?」
久遠は返答に困ったようだった。
「……それは、もちろんそうだけどねぇ」
「ふふ。そんなに困らないでちょうだい」
「まさかイザベラまで、私を神様として信じるなんて思わなかったからさー」
イザベラは穏やかに微笑んだ。
彼女にとって、信仰を変えることは軽い決断ではなかった。幼い頃から聖書に親しみ、結婚してからも家族と祈りを捧げてきた。その信仰は長い間、彼女の人生の一部だった。
しかし、昨日の宴を経て、イザベラの心はすでに決まっていた。
自分の意思で信じる相手を選びたい。
それが、彼女の答えだった。
「那岐、あなたは何も変わらなくていいのよ。今までどおりのあなたでいてちょうだい」
「……うん。それならいいけど」
「それとも、私に信じられるのは嫌かしら?」
「嫌というわけじゃないんだけどねぇ。どうにも慣れなくてさ」
「ふふ。これから慣れればいいじゃない」
「ええ……そういう問題なのかなぁ」
イザベラは楽しそうに笑った。
「これからもよろしくね、那岐」
久遠も困ったように笑い、再び箸を手に取った。
「あはは……うん。こちらこそよろしくね、イザベラ」
こうしてイザベラは、長年信仰してきたキリスト教から離れ、伊邪那岐を自分の神として信じることを選んだ。
ただ、二人の関係が変わることはなかった。
イザベラはこれまでと同じように親しく話しかけ、久遠も気兼ねなく冗談を言う。
神と信者という関係になっても、二人にとってはそれが自然だった。
日本での旅行を終えたイザベラは、一度アメリカの農場へ戻ることにした。
留守中の管理を任せていたクリスは、イザベラが農場と家を売却するつもりだと聞いて驚いた。
「本当に売ってしまうのかい?」
「ええ。これからは日本とアメリカを行き来するつもりなの」
「日本かぁ。ずいぶん遠くまで行くんだな」
「ふふ。素敵なところよ。あなたも機会があったら行ってみて」
「俺にはそんな金も暇もないよ。それに、畑を放っておけないしな」
「それもそうね」
二人は笑い合った。
クリスは農場の買い手を探すことにも協力してくれた。長年付き合いのある隣人との別れは寂しかったが、イザベラは新しい生活を楽しみにしていた。
家の中を整理すると、懐かしい品物がいくつも見つかった。
夫が使っていた農具、息子たちの幼い頃の持ち物、家族の写真。
そして、長年読み続けてきた聖書。
イザベラはそれらを一つずつ確かめ、残しておきたいものを丁寧に箱へ収めていった。
信仰を変えたからといって、家族と過ごした日々まで変わるわけではない。聖書も写真と一緒に大切にしまっておくことにした。
最後の荷物をまとめた日、イザベラは家の中を見渡した。
思い出の詰まった家だった。
それでも、ここを離れることに後悔はなかった。
「……それじゃあ、行ってくるわね」
誰もいなくなった部屋にそう告げ、イザベラは扉を閉めた。
農場の売却を終えると、彼女は再び日本へ渡った。
横浜では久遠と一緒に暮らし、日本語の勉強を始めることになった。
「那岐、日本語って難しいわね」
机に向かったイザベラは、筆で書いた文字を眺めながらため息をついた。
「そうかなぁ。少しずつ覚えたらいいよ」
「あなたは何千年も日本語を使っているのでしょう? 私とは違うわ」
「あはは。それはそうだねぇ。でも、私が子供の頃とは言葉もずいぶん変わったからね」
「そうなの?」
「うん。昔の言葉で話したら、今の人には通じないことも多いよ」
「まあ、それなら私と同じじゃない」
イザベラが笑うと、久遠も楽しそうに笑った。
彼女は日本語だけでなく、日本の商習慣や商品についても学び始めた。
農場を経営してきた経験を生かし、農産物や日本の商品を扱う貿易の仕事をしてみたいと考えていたのである。
久遠は商人たちを紹介してくれたが、商談の内容や取引先についてはイザベラ自身に判断を任せた。
慣れない土地での仕事は簡単ではなかった。
それでも、知らないことを覚え、新しい人と出会う毎日は楽しかった。
そんな生活が始まってしばらくした頃、思いがけない訪問者がやって来た。
その日、イザベラは久遠と一緒に日本語の勉強をしていた。
机の上には練習用の紙が広げられ、筆で書いた文字がいくつも並んでいる。
「那岐、この字は何と読むの?」
「それは『母』だよ。お母さんの母だね」
「母……そうなのね」
「うん。こっちは『父』。お父さんの父だよ」
「もう、似たような字が多くて覚えるのが大変だわ」
「あはは。毎日少しずつ練習していこうよ」
久遠が次の文字を書こうとした時、玄関から声が聞こえた。
「父上、いらっしゃいますか?」
「あれ、月読だね」
久遠は筆を置き、玄関へ向かった。
イザベラも机の上を片づけながら、二人の様子を眺めていた。
やがて久遠が月読を連れて戻ってくる。
月読の腕には、小さな赤ん坊が抱かれていた。
「月読、どうしたの? その赤ちゃんは?」
「父上、少しご相談したいことがありまして」
「うん。何かな?」
月読は赤ん坊を抱き直した。
「フランスで列車の衝突事故がありました。この子はその事故で両親を亡くしたのです」
「……そうだったんだ」
久遠の表情が曇った。
「名前はリュシアン・ヴァロワ。私の血を引く一族の子です。事故の後、保護いたしました」
「親戚に引き取ってもらうことはできないの?」
「調べてはいるのですが、養育を任せられる者が見つかっておりません」
「そうかぁ……」
久遠は赤ん坊を見つめた。
リュシアンは眠っているらしく、時折小さく身じろぎするだけだった。
「父上のお知り合いで、この子を引き受けてくださる方はいらっしゃいませんか?」
「んー、そうだねぇ。まだ赤ちゃんだから、ちゃんと世話をしてくれる人じゃないとね」
「ええ。できれば落ち着いた環境で育てたいと考えています」
二人が相談を始めると、それまで黙っていたイザベラが椅子から立ち上がった。
「ねえ、月読」
「はい、何でしょう?」
「その子、私に抱かせてくれないかしら?」
月読は少し意外そうな顔をした。
「イザベラ?」
「とても可愛い子ね。少し抱いてみたいの」
「ええ、構いませんよ」
月読から赤ん坊を受け取ったイザベラは、慣れた手つきで優しく抱き上げた。
「あらあら、こんにちは。リュシアン」
赤ん坊は小さな口を動かし、ゆっくりと目を開いた。
「ふふ……起こしてしまったかしら?」
イザベラが指を差し出すと、リュシアンは小さな手で握りしめた。
「あら、握ってくれたわ」
久遠も隣から覗き込む。
「イザベラ、ずいぶん慣れているねぇ」
「あら、忘れたの? 私だって二人の息子を育てた母親なのよ」
「あはは、そうだったね」
イザベラはリュシアンの顔を眺めながら、月読に尋ねた。
「ねえ、月読。まだ育ててくれる人は決まっていないのよね?」
「ええ。そのことで父上に相談していたのですが」
「それなら、私が育ててもいいかしら?」
「……え?」
久遠と月読が同時に声を上げた。
月読はしばらくイザベラを見つめ、それから改めて尋ねた。
「イザベラ、あなたが引き取ってくださるということですか?」
「ええ。私が育てたいの」
「しかし、これから日本とアメリカを行き来する予定なのでしょう? 乳児を育てながらでは、仕事にも影響すると思いますが」
「それなら、この子と一緒に旅をすればいいでしょう?」
イザベラはあっさりと答えた。
久遠が思わず笑う。
「あはは。イザベラらしいねぇ。でも、本当にいいの? 無理しなくてもいいんだよ」
「無理なんてしていないわ、那岐。私がそうしたいの」
彼女は腕の中のリュシアンを見つめた。
「私ね、もう一度子供を育ててみたいと思っていたの」
久遠は黙って話を聞いていた。
「息子たちの代わりが欲しいわけではないのよ。この子はこの子だもの。どんな子に育つのか、見守ってあげたいの」
「……うん」
「それに、私には時間がたくさんあるのでしょう?」
イザベラは月読に目を向けた。
「せっかく長く生きられるのだから、その時間をこの子のために使いたいわ」
月読はしばらく考えていた。
彼女の暮らしぶりについては、久遠からも話を聞いている。本人に十分な養育経験があることも、今の言葉から伝わってきた。
「……そこまでおっしゃるのでしたら、お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ!」
イザベラは嬉しそうに微笑んだ。
久遠も二人を眺めながら頷く。
「じゃあ、私も手伝うよ。今は一緒に暮らしているんだしね」
「あら、那岐も育ててくれるの?」
「うん。私も子育ての経験はあるからねぇ」
「ふふ。それなら心強いわ」
月読はようやく安心した様子で息をついた。
「父上にも協力していただけるのでしたら、この子を安心してお任せできます」
「うん。必要なものも揃えないとね。月読、ほかに何か手配しておくことはあるかな?」
「乳母の手配など、当面の世話に必要なことはこちらで整えます。ほかにも困ったことがあればお知らせください」
「ありがとう。助かるよ」
こうしてリュシアンは、イザベラに引き取られることになった。
月読が帰った後、二人は早速赤ん坊のための部屋を整え始めた。
久遠は寝具や必要な品物を確認し、イザベラはリュシアンの衣服を用意する。
小さな服を広げながら、イザベラは何度も嬉しそうに笑っていた。
「ねえ、那岐。この子はどんな大人になるのかしら?」
「まだ赤ちゃんだからねぇ。どんな子になるか楽しみだね」
「ええ。本当に楽しみだわ」
その時、寝かせていたリュシアンが泣き始めた。
「おや、どうしたのかなぁ?」
久遠が顔を覗き込むと、リュシアンはますます大きな声で泣いた。
「あらあら、お腹が空いたのかしら?」
「さっき飲ませてもらったばかりじゃなかった?」
「赤ちゃんはそういうものよ。まずは抱っこしてあげましょう」
「そうだったねぇ。ずいぶん昔のことだから、忘れちゃったよ」
「ふふ。那岐にも忘れることがあるのね」
「そりゃあ、あるよー」
イザベラが抱き上げると、リュシアンは少しずつ泣きやみ始めた。
彼女は赤ん坊を優しく揺らしながら、その顔を覗き込む。
「さあ、リュシアン。今日から私があなたのお母さんよ」
リュシアンはまだ言葉の意味など分からない。
それでもイザベラは、何度も優しく語りかけた。
「よろしくね、リュシアン」
久遠はそんな二人を微笑みながら眺めていた。
机の上には、先ほどまで日本語の練習に使っていた紙が残されている。
そこには、イザベラが何度も書き直した「母」という文字が並んでいた。
それから長い年月が流れた。
イザベラはリュシアンを育てながら、日本とアメリカを行き来する生活を続けた。
日本語も次第に上達し、やがて通訳に頼らず簡単な商談をこなせるようになった。貿易の仕事も少しずつ軌道に乗り、両国に仕事上の知り合いが増えていった。
もちろん、子育てと仕事の両立は簡単ではなかった。
思うように仕事が進まない日もあれば、リュシアンが熱を出して予定を取りやめることもあった。
それでもイザベラは、その忙しさを楽しんでいた。
リュシアンが言葉を覚え、歩けるようになり、やがて学校へ通うようになる。
「ママン!」
そう呼ばれるたびに、イザベラは嬉しそうに振り返った。
久遠は世界各地を巡る生活に戻っていたが、定期的に二人のもとを訪ねてきた。
リュシアンも久遠によく懐いており、訪問するたびに遊んでほしいとせがむのだった。
やがてリュシアンは成長し、十五歳で留学し、そのまま自立する道を選んだ。
イザベラは寂しくもあったが、彼の決意を尊重した。その後も親子の交流が途絶えることはなく、離れて暮らすようになってからも、リュシアンは何かにつけて母親のもとへ顔を出した。
イザベラにとって、毎年の神在月の宴も大切な楽しみになっていた。
出雲には世界各地から一族が集まり、普段は離れて暮らしている人々とも再会できる。
最初の頃は久遠の隣で通訳してもらうことが多かったが、日本語に慣れると、自分から積極的に話しかけるようになった。
長い年月の中で、イザベラは一族の人々とも親しくなっていった。
また、事情があって家族を失った子供たちの世話を引き受けることもあった。
子供たちを育てることは、彼女にとって特別な義務ではなかった。
助けが必要な子がいれば、できることをしてあげたい。
その気持ちから始まったことである。
こうしてイザベラの暮らしは、仕事と家族、そして一族の人々との交流に満ちたものになっていった。
しかし、そんな日々にも大きな変化が訪れる。
再び世界が戦争に包まれたのである。
戦争が広がり、日本とアメリカの関係が悪化するにつれて、イザベラは以前のように自由に旅行することが難しくなっていった。
そして1941年12月、日米が戦争状態に入ると、日本への渡航はできなくなった。
毎年楽しみにしていた出雲の宴にも参加できない。
日本で暮らす一族の仲間たちはどうしているのだろう。月読は無事なのだろうか。
久遠のことも心配だった。
手紙で連絡を取ることさえ難しい状況が続き、イザベラはアメリカで仕事をしながら、遠い日本のことを気にかけていた。
そんなある日の午後だった。
イザベラが書類を整理していると、玄関の扉を叩く音がした。
「はい、どなた?」
扉を開けると、見知らぬ若者が立っていた。
明るい茶色の髪に、普段とは違う色の瞳。
一見すると久遠とは別人のようだった。
しかし、イザベラはその顔を見た瞬間に息をのんだ。
「……那岐?」
若者は嬉しそうに笑った。
「あはは。やっぱり分かっちゃうんだねぇ」
「那岐!」
イザベラは思わず駆け寄り、その身体を抱きしめた。
「おっと……久しぶりだね、イザベラ」
「会いたかったわ……!」
「うん。私も会いたかったよ」
久遠は優しく抱きとめ、彼女の背中を軽く撫でた。
イザベラはしばらく離れようとしなかった。
ようやく顔を上げると、改めて久遠の姿を眺める。
「本当に髪も目の色も変えているのね」
「うん。妖術でちょっとね。今はこの方が都合がいいんだ」
「そんなことをしても、私にはすぐ分かるわよ」
「あはは。イザベラには敵わないなぁ」
「当たり前でしょう。あなたと何年付き合っていると思っているの?」
久遠は笑いながら家の中へ入った。
イザベラはすぐに扉を閉め、久遠を居間へ案内する。
「それにしても、こんなところまで来て大丈夫なの?」
「なるべく人目につかないようにしてきたよ。長居はできないけどね」
「そう……でも、来てくれて嬉しいわ」
「元気にしているか心配だったからねぇ」
イザベラはお茶を用意し、久遠の向かいに座った。
しばらく互いの近況を話していたが、やがてイザベラは表情を曇らせた。
「那岐……日本に行けないのが辛いわ」
「うん……」
「みんな元気にしているのかしら。毎年会っていた人たちの顔が見られないなんて、こんなに寂しいものなのね」
「そうだねぇ。みんなもイザベラに会いたがっていると思うよ」
「早く戦争が終わってほしい……」
久遠はしばらく黙っていた。
それから静かに頷く。
「そうだね……こんな戦争、早く終わってほしいよ」
イザベラは久遠を見つめた。
彼は今も各地を巡り、一族の人々を気にかけているのだろう。
きっと、自分の知らないところでも多くの人々と会っているに違いない。
「那岐、あなたも無理はしないでね」
「うん。ありがとう、イザベラ」
「本当に分かっているのかしら?」
「あはは。分かっているよー」
「まったく……心配させるのが得意なんだから」
イザベラが呆れたように言うと、久遠は申し訳なさそうに笑った。
やがて久遠が台所の方を眺める。
「ねえ、イザベラ。何か食べるものはあるかな?」
「あら、お腹が空いたの?」
「うん。せっかくだから一緒に食事をしようよ」
「ふふ。相変わらずね、那岐」
「そうかなぁ?」
「ええ。ちっとも変わっていないわ」
イザベラは立ち上がり、台所へ向かった。
久遠もその後をついてくる。
「何を作ろうか?」
「今日は私が作ってあげるわ。那岐は座っていて」
「えー、何か手伝うよ」
「それなら野菜を切ってちょうだい」
「うん。任せてよー」
久遠は嬉しそうに袖をまくった。
何十年も前、アメリカ南部の農場で一緒に料理をしていた頃と、少しも変わらない。
イザベラは食材を用意しながら、思わず笑みを浮かべた。
「那岐、もう少し小さく切ってくれる?」
「これくらい?」
「ええ。そうそう」
「ずいぶん細かいねぇ」
「料理は丁寧に作るものよ」
「あはは。そうだったね」
戦争の最中であることを忘れそうになるほど、穏やかな時間だった。
二人で作った夕食を食べながら、イザベラは久しぶりに心から楽しいと思えた。
翌日、久遠は再び旅立つことになった。
玄関まで見送ったイザベラが尋ねる。
「那岐、また会いに来てくれる?」
「うん。もちろんだよ」
「本当に?」
「あはは。約束するよ」
「それなら待っているわ」
イザベラは久遠を抱きしめ、しばらくしてから腕を離した。
久遠は彼女に手を振り、静かに去っていった。
その後も戦争中に数回、久遠は姿を変えてイザベラを訪ねてくれた。
そのたびに二人は近況を語り合い、一緒に食事をした。
久遠が帰っていく時は寂しかったが、イザベラは引き留めなかった。
自分だけが久遠を必要としているわけではないことを、よく知っていたからである。
やがて戦争が終わった。
渡航が再び可能になるまでには時間がかかったものの、イザベラは少しずつ以前の生活を取り戻していった。
日本とアメリカを行き来し、貿易の仕事にも再び力を入れるようになる。
そして、待ち望んでいた神在月の宴にも参加できるようになった。
久しぶりに出雲を訪れたイザベラは、旅館の人々から温かく迎えられた。
「イザベラさん、お久しぶりです」
「まあ、久しぶりね。元気にしていた?」
「はい。よくお戻りになりましたね」
「ありがとう。また皆さんに会えて嬉しいわ」
大広間には懐かしい顔ぶれが揃っていた。
長い間会えなかった人々との再会に、イザベラは何度も笑顔を浮かべた。
一族の中には、イザベラを母のように慕う者も増えていた。
リュシアンを育てた経験もあり、身寄りのない子供の養育について相談を受けることがあったからである。
イザベラは事情を聞き、引き受けられる場合には自分で面倒を見ることもあった。
そんな彼女の姿を、久遠は嬉しそうに眺めていた。
「イザベラもずいぶん大家族になったねぇ」
「あら、そうね。みんな可愛い子供たちよ」
「大変じゃない?」
「もちろん大変なこともあるわ。でも楽しいのよ」
「そっかぁ。それならよかった」
「それに、那岐だって時々手伝ってくれるでしょう?」
「あはは。まあねぇ」
イザベラは世界各地に暮らす子供たちと連絡を取りながら、仕事を続けていた。
成長した子供たちはそれぞれ自分の人生を歩んでいる。
それでも、困ったことがあれば相談に来る者もいたし、何の用事もなく顔を見せに来る者もいた。
イザベラはそんな訪問を楽しみにしていた。
かつては一人で暮らしていた家に、今では多くの人が訪ねてくる。
長い年月の中で、彼女の人生はすっかり賑やかなものになっていた。
ある年のこと。
日本を訪れていたイザベラは、久遠と二人でお茶を飲んでいた。
机の上には、子供たちから届いた手紙が何通か置かれている。
久遠はその一通を読み終えると、嬉しそうに笑った。
「へえ、元気にしているみたいだねぇ」
「ええ。最近は仕事も順調なんですって」
「それはよかった」
「こちらの子は結婚したそうよ。写真も送ってくれたの」
イザベラが写真を差し出すと、久遠は興味深そうに眺めた。
「おお、立派になったねぇ」
「ふふ。子供の頃はあんなに甘えん坊だったのに、今ではすっかり大人よ」
「イザベラも立派なお母さんだね」
「あら、私だって昔から母親だったのよ」
「あ、そうだったね。ごめんごめん」
久遠が頭をかくと、イザベラは楽しそうに笑った。
「でも、今こうして暮らしていられるのは、那岐のおかげね」
「私は何もしてないよ。イザベラが自分で決めて、自分で育てたんでしょ」
「そうね。私が決めたことよ」
イザベラは頷いた。
誰かに命じられたからではない。
リュシアンを引き取ることも、その後に出会った子供たちの世話をすることも、自分で選んできた。
久遠はそれを手伝ってくれたが、決して自分の生き方を押しつけることはなかった。
イザベラは机の上の手紙を揃え、久遠へ顔を向けた。
「ねえ、那岐」
「ん?」
「少しお祈りしてもいいかしら?」
「……え?」
久遠が嫌な予感でもしたような顔をする。
イザベラは椅子に座ったまま、両手を合わせた。
「あー、イザベラ。目の前で祈りだすのだけは勘弁してほしいんだけど……」
「あら、どうして?」
「どうしてって……恥ずかしいじゃないかぁ」
「何を言うの。目の前だから祈るのよ」
「いや、だから私は神様じゃないってばぁ」
「ふふ。知っているわよ、那岐」
「知っているならやめてよー」
「それはできないわ。だって、私があなたを信じると決めたんだもの」
久遠は困り果てたように肩を落とした。
「……もう、イザベラは頑固だねぇ」
「あら、あなたほどではないわ」
「ええー、私ってそんなに頑固かなぁ?」
「ええ。とっても」
イザベラは笑いながら目を閉じた。
久遠は何か言いたそうだったが、結局それ以上は何も言わなかった。
イザベラが祈りを捧げている間、静かに待っていてくれる。
その様子も、昔と何も変わらない。
イザベラにとって伊邪那岐は、遠い神話の中にいる神ではなかった。
会いたいと思えば、こうして会うことができる。
一緒に食事をして、仕事の話をして、時には冗談も言い合える。
何か困ったことがあれば相談に乗ってくれるし、久遠が困っていれば自分も力になりたいと思っている。
彼女は伊邪那岐信仰の熱心な信者として、一族の中でもよく知られるようになっていた。
しかし、その信仰を他の人に強制したことはなかった。
自分が久遠を信じることを選んだように、誰もが自分の人生を選べばよいと思っていたのである。
やがてイザベラは祈りを終え、ゆっくりと目を開けた。
目の前では久遠が頬杖をつき、困ったような顔でこちらを眺めている。
「終わった?」
「ええ。終わったわ」
「まったく、イザベラには敵わないなぁ」
「ふふ。ありがとう、那岐」
「……何のお礼?」
「何でもないわ」
「あはは。変なイザベラだねぇ」
久遠は笑いながら、冷めかけたお茶を口に運んだ。
イザベラも微笑み、彼と一緒にお茶を飲んだ。
イザベラ――その名には「神への誓い」という意味が込められている。
かつて彼女は、神に救いを求めて祈り続けていた。
そして長い年月を経た今、彼女は自分が受け取った愛情を、次の誰かへと与えていこうとしている。
育てた子供たちが幸せに暮らせること。
これから出会う人々が、少しでも穏やかな人生を送れること。
それが今のイザベラの願いだった。
久遠は何も求めなかった。
信仰も、感謝も、恩返しも。
だからこそイザベラは、自分の意思で信じることを選び、自分の意思で誰かを愛することを選んだ。
それが彼女の生き方であり、神への誓いでもあった。
そして、その祈りの相手は今日も彼女の目の前で、神と呼ばれることに困った顔をしているのだった。




