6話 神々との出会い
西暦1875年(明治8年)、神在月の出雲。
久遠に続いて旅館の大広間へ足を踏み入れたイザベラは、思わず立ち止まった。
磨かれた廊下の先に広がる座敷は想像していたよりもはるかに広く、長く並べられた膳には、見慣れない器が整然と置かれている。
奥では従業員たちが料理や酒を運び、すでに席に着いた人々の間からは、あちこちで笑い声が上がっていた。
年若く見える男女が抱き合って再会を喜ぶかと思えば、白髪の男性が自分よりずっと若そうな女性に頭を下げている。
衣装もさまざまで、洋服姿の者もいれば、日本の着物をまとった者もいた。
交わされる言葉は日本語だけではない。聞き覚えのある英語のほか、イザベラには分からない国の言葉も混じっていた。
「わあ……ずいぶん大きな宴会なのね」
「うん。年に一度、世界中からみんなが集まってくるんだよ」
「世界中から? それほど大勢のお知り合いがいるの?」
「あはは。知り合いというか、みんな一族の仲間なんだ。私と同じ、不老長寿のね」
イザベラは久遠の顔を見た。二年間、自分の農場で働いてくれたこの少年のような人物は、出会った頃から少しも姿を変えていない。
彼女自身も同じ血を引いているのだから、不思議に思わなかったわけではなかった。
「……あなたも、やっぱりそうだったのね」
「うん。今まで話していなくてごめんね」
「ふふ。何となく、そうじゃないかと思っていたわ」
久遠が案内したのは、広間を見渡せる一角に用意された席だった。
彼はイザベラを隣に座らせると、まだ料理の運ばれていない膳を指さして、何が出るのだろうと楽しそうに笑った。
「イザベラ、今日は私の隣にいてね。まだ日本語も分からないだろうし、何かあったら通訳するから」
「ありがとう、久遠。それなら安心だわ。でも、皆さんは本当に同じ一族なの?」
「そうだよ。血のつながりがある人も、長い付き合いの仲間もいるけどね。ここでは一緒に過ごせるんだ」
イザベラは改めて広間を見渡した。五十年ほど前、自分の血筋について月読から説明を受けたとき、彼女はその存在を恐れ、関わりを避けてきた。
ところが目の前にいる人々は、特別に恐ろしい者には見えない。ただ久々に顔を合わせた相手との会話を、心から楽しんでいるようだった。
「この旅館の方たちも、皆さんのお仲間なの?」
「うん。今夜は一族の者だけで切り盛りしているんだよ。秘密のことも話すから、事情を知らない人は入らないようにしているんだ」
「なるほどね。私がここに来てもいいのか、ちょっと心配だったけれど」
「もちろん、いいに決まってるよ。さあ、ゆっくりしていってね」
久遠がそう言ったところへ、着物姿の男性が近づいてきた。
「那岐様、お久しぶりです。今年もお会いできて嬉しゅうございます」
「久しぶりだねぇ。元気にしていたかい? 去年は身体を悪くしたって聞いたけど」
「おかげさまで、もうすっかり。ご心配をおかけしました」
「それならよかったよ。今夜は楽しんでいってね」
男性が深々と頭を下げて去ると、今度は洋服を着た夫婦が挨拶に現れた。
久遠は二人の暮らしぶりを尋ね、子供の成長を聞いて目を細めた。
その後も人々は途切れることなくやって来たが、久遠は誰に対しても気さくで、昔からの友人に会ったように笑顔を向けていた。
しかし、イザベラには一つ気になることがあった。誰もが親しげに話しているのに、久遠へ向けられる敬意は、単なる年長者に対するものとは違う。
挨拶の仕方も、言葉の選び方も、どこか祈りに似た真剣さがあった。
「ねえ、久遠。皆さんが呼んでいる『イザナギ』というのは、あなたのこと?」
何人かの口から聞こえたその名前を、イザベラは慎重に発音した。
「うん。私の昔の名前だよ。親しい人は那岐って呼ぶけどね」
「伊邪那岐……日本の神話に出てくる神様のお名前ではなかったかしら」
「よく知っているねぇ」
「旅の途中で少し教わったもの。……それなら、あなたも神様なの?」
「私は神様じゃないよ」
久遠はあまりにもあっさりと否定したので、イザベラは思わず笑った。
「でも、皆さんの様子を見ていると、とてもそうは思えないわ」
「……みんな、私を神として信仰しているんだよ」
「あら、歯切れが悪いわね」
「あはは。私は一族の祖だからね。どうしてもこうなっちゃうんだ」
イザベラがもう少し聞きたがると、久遠は日本語の名前や伝承について、彼女にも分かるよう英語で話してくれた。
遠い昔、山門と呼ばれる土地で人々と暮らし、水を引き、田畑を作り、争いを防ぎながら集落を大きくしていったのだという。
「人が暮らせる土地を、みんなと少しずつ増やしていっただけなんだよ。それがずいぶん大きな話になっちゃってねぇ」
「それで国産みの神様と呼ばれるようになったの?」
「そうみたい。でも、海を割ったり、天からパンを降らせたりなんてできないからねぇ」
「あら、神様なのに?」
「だから神様じゃないってばぁ」
困った顔をした久遠が可笑しくて、イザベラは声を上げて笑ってしまった。
「私も初めて『古事記』を読んだときは驚いたよ。いつの間にか国産みの神様になっていたんだから」
「ふふ。自分の知らないところで、神様にされてしまったのね」
「そういうことだねぇ」
それでも、先ほど挨拶に来た人々の表情を思い出すと、久遠がどれほど否定しても、その存在が彼らにとって特別であることは明らかだった。
イザベラは膝の上でそっと手を重ね、大広間を見渡した。若者のような顔で百年以上を生きている者がいるかもしれない。
反対に、穏やかな老人の姿をした者にも、彼女には想像もつかない過去があるのだろう。誰もが気安く声を掛け合い、互いの無事を喜びながら席を移っている。
「……私なんかが、ここにいてもいいのかしら」
「もちろんだよ。ここは神様のための場所じゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。不老長寿の一族が集まる場所なんだよ。神様の宴会というより、久しぶりに会う家族の集まりみたいなものかなぁ」
「今まで交流を避けていたから、こんな場所があるなんて知らなかったわ」
「そうだったね」
久遠は咎めることもなく頷いた。イザベラが昔、月読との接触を断ったことを、彼は一度も責めなかった。今日この場に来たのも、久遠に命じられたからではなく、自分で彼について行きたいと思ったからだ。
「長く生きていると、どうしても辛いことが増えてしまうでしょ」
「……ええ」
「大切な人を見送ることも多いし、自分だけが取り残されたように感じることもある。見た目が変わらないから、同じ場所に住み続けるのが難しくなる人もいるんだ」
イザベラは静かに耳を傾けた。久遠は誰か一人を指さすことも、苦しみを比べることもしなかった。
「でも、ここには同じ時間を生きる仲間がいるんだ。みんなそれぞれの事情があるからね。ここへ来れば、普段は話せないことも話せるし、昔の友達にも会える。だから年に一度の宴を大切にしているんだよ」
「……そうなのね」
久遠は穏やかに笑った。
「みんなが私を神として祀ることで、少しでも心の支えになるのなら、私は神にでもなるよ」
イザベラは隣に座る久遠を見つめた。先ほどは自分が神であることをあれほど否定していたのに、誰かの心を支えられるのなら、それを引き受けても構わないという。
矛盾しているようで、久遠の中では少しも矛盾していないのだろう。
彼は自分のために神でありたいわけではない。必要としている人がいるから、その人が信じるものをむやみに奪わないだけなのだ。
そのとき、イザベラの胸に、ひとつの思いが浮かんだ。
二年前、荒れ果てた農場の戸口に現れた少年の姿。仕事をさせてほしいと頼み、食事と寝る場所さえあればいいと笑っていた久遠を、彼女は不審に思いながらも家へ招き入れた。
彼は家族のことを無理に尋ねなかった。悲しむなとも、忘れろとも言わなかった。
毎朝畑へ出て、必要な仕事を見つけ、彼女に作物や料理のことを教わりながら、夕方には家へ戻ってきた。やがてイザベラは、彼の帰りに合わせて食卓を整えるようになった。
そして、二年が過ぎた頃だった。日本へ帰ると告げた久遠が、よかったら一緒に来ないかと誘ってくれたのは。
あのとき、彼女はもう一度、知らない世界を見てみたいと思えるようになっていた。
「……あなたは、最初から知っていたのね」
「何を?」
「私が……あなたを必要としていたことを……」
久遠はしばらくイザベラの顔を見つめ、それから小さく頷いた。
「……うん」
「それなのに、二年間も何も言わないで……」
「イザベラには、イザベラの時間が必要だったからね」
「……本当に、あなたって人は……」
言葉の続きを探したが、喉が詰まって声にならなかった。
目の奥が熱くなり、気づけば涙が頬を伝っていた。
久遠は驚いた様子もなく、ただイザベラが落ち着くのを待っている。
その変わらない眼差しに、かえって胸がいっぱいになった。イザベラは身を寄せ、久遠の胸に顔を埋めた。
小柄な身体なのに、その腕は優しく、しっかりと彼女を受け止めてくれた。
久遠は何も言わず、背中に手を添えている。広間の賑わいが遠く感じられるほど、イザベラはしばらくそのままで泣いた。
やがて久遠が静かに声をかけた。
「もう一人じゃないよ。ここにはイザベラと同じ時間を生きている人たちがいるんだから」
イザベラは彼の胸に顔を埋めたまま頷いた。
大切な家族を失った事実は、どれほど年月が過ぎても変わらない。それでも、自分の人生がそこで終わったわけではなかった。
久遠と暮らした日々があり、彼と海を渡った旅があり、今は名前も知らない多くの人々が、同じ長い時間を生きながらこの広間に集まっている。
久遠はそのことを、彼女が自分の目で確かめられる日まで待ってくれたのだ。
しばらくして涙が収まると、イザベラはそっと身体を離し、懐から取り出した布で目元を拭った。
「……ごめんなさい。もう大丈夫よ」
「謝らなくていいよ。ほら、だいぶみんな集まってきたねぇ」
「ええ。もう満席になりそうね」
久遠につられて周囲を見渡すと、いつの間にか空いていた席の多くが埋まり、賑やかな話し声が広間を満たしていた。
「那岐様! お久しぶりです!」
突然、腹の底から響くような声が飛んできた。
振り向くと、金髪に立派な髭を蓄えた大男が、こちらへ歩いてくるところだった。
身長は二メートル近くあるだろうか。周囲の人々と比べても頭ひとつ抜けており、堂々とした体つきにイザベラは目を見張った。
「あ、ルーカス! 久しぶりだねぇ。元気にしていたかい?」
「おかげさまでな! 自由を取り戻してからは快適に暮らしてますぜ!」
「あはは。それならよかった」
男は久遠と親しげに挨拶を交わしてから、イザベラの存在に気づいた。
「その女性はアメリカ人ですか?」
「うん、イザベラというんだよ。アメリカでお世話になった、大切な友達なんだ」
ルーカスは英語に切り替え、大きな手を差し出した。
「初めまして、イザベラ。俺はルーカス。ノルウェー人だ」
「初めまして、ルーカス。よろしくね」
握手を交わしたところへ、落ち着いた声が割って入った。
「元ヴァイキングでもあるでしょう」
「うおっ、月読様!」
つい先ほどまで大きな声で笑っていたルーカスが、急に背筋を伸ばした。そこに立っていたのは、五十年ほど前にイザベラへ一族の秘密を伝えた月読だった。
「もう何百年も前の話じゃないですか! いい加減、忘れてくださいよ!」
「忘れるわけがないでしょう。あなたが妖術を乱用していたことも含めてね」
「あー……昔は若かったんです!」
「若かったって、もう何百歳にもなってたでしょ」
「那岐様まで勘弁してくださいよ!」
久遠まで笑いながら加わるものだから、ルーカスはすっかり困り顔になってしまった。イザベラもつられて笑うと、久遠が二人の過去を簡単に教えてくれた。
かつてルーカスは、自分の妖術を使って各地で無茶を重ねていたらしい。秘密を守ろうとする月読は、彼を処分しようとヨーロッパ各地を追いかけたが、ルーカスは逃げ続けた。
その騒ぎが百年近くも続き、最後は久遠の仲裁で処分が保留され、ルーカスは彼の監督のもとに置かれたのだという。
「月読も百年くらい追いかけていたからねぇ」
「そりゃ逃げますよ! あの頃の月読様の目はヤバかった……」
「まったく。もう追いかけませんよ」
「その言葉、信じていいんでしょうな?」
「ルーカス、もう悪いことしなきゃ大丈夫だよ」
「なら安心ですな! それじゃあイザベラ、また後で!」
ルーカスは大きな身体に似合わぬ素早さで踵を返し、人混みの方へ逃げるように去っていった。
「あーあ。月読が来たから逃げちゃった」
「ふふ。ずいぶん怖がられているのね」
「昔のあの男が、どれほど手に負えなかったことか……」
月読が深いため息をつく。久遠の隣で何度も笑ってしまったイザベラは、先ほどまで泣いていたことさえ少し照れくさく思えた。
「そういえば、イザベラ。月読とはもう知り合いだったね」
「ええ。五十年ほど前にお会いしたわ」
月読はイザベラに向き直ると、英語で穏やかに挨拶した。
「お久しぶりです、イザベラ。よく来てくださいました」
「こちらこそ。月読様、お久しぶりです」
「じゃあ、紹介する必要もなかったねぇ」
「父上、そういう問題ではありませんよ」
「……父上?」
イザベラは久遠と月読を交互に見つめた。月読がそう呼んだのは、今、間違いなく久遠のことだった。
「ああ、まだ話してなかったね。月読は私の息子なんだよ」
「…………え?」
「日本では月読命という名前の神様だね」
久遠は当たり前のことのように説明したが、イザベラには到底当たり前と思えなかった。
五十年ほど前、自分の前に突然現れ、一族の掟や長い寿命について告げたあの人物が、農場で一緒に畑を耕していた久遠の息子だというのだ。
「本当に……驚くことばかりだわ」
「あはは。長寿の一族だからねぇ」
イザベラは改めて月読に向き直った。若い頃、彼の言葉を受け入れることができず、行き先も告げずに遠く離れたことがあった。それでも月読は、その後の暮らしを乱すことなく、彼女の選択に任せてくれた。
「月読様。あの時は、あなたから逃げるように離れてしまったけれど……今までそっとしてくれて、ありがとう」
月読はしばらく彼女を見つめてから、静かに答えた。
「あなたが選んだ人生です。ちゃんと歩めましたか?」
「……はい」
イザベラが頷くと、月読もそれ以上は何も言わず、穏やかに頷いた。
イザベラも今さら昔の事情を尋ねようとは思わなかった。目の前の久遠と月読が、自分をここに迎え入れてくれている。それだけで十分だった。
広間の奥から、人々に席へ着くよう促す声が聞こえてきた。すでにほとんどの膳が埋まり、料理を運ぶ従業員たちも最後の準備に追われている。
「お、そろそろ宴会が始まりそうだね」
「そのようですね」
月読はイザベラの反対側に腰を下ろし、久遠は彼女の隣で膳に並ぶ料理を楽しそうに眺め始めた。
やがて宴が始まると、広間のあちらこちらで杯が掲げられ、久しぶりの再会を祝う声が重なった。
日本語の挨拶に英語やほかの国の言葉が交じり、笑い声が次々と湧き起こる。
イザベラにも話しかけてくれる人がいて、久遠はそのたびにさりげなく通訳してくれた。
「イザベラ、これ美味しいよ。食べてみなよ」
「あら、どんな料理なの?」
「食べてからのお楽しみだねぇ」
「ふふ。もう、久遠ったら」
勧められた料理を口に運ぶと、思いがけず優しい味が広がった。イザベラが目を丸くしていると、久遠は嬉しそうに笑い、自分の箸も伸ばしている。
周囲にいるのは、日本神話に名を残す神々と、その血を引く人々だった。
しかし彼らも冗談を言い、料理を楽しみ、ときには昔の出来事を持ち出して言い争っては、すぐに笑い合っている。
誰も彼女を部外者として扱わず、見知らぬ者まで気さくに声をかけてくれた。
イザベラは久遠に連れられて海を渡り、今この席にいる。まだ知らないことも、理解できないこともたくさんある。
それでも、これから先の長い人生を、以前のように一人で恐れる必要はないのかもしれなかった。
「イザベラ、楽しんでる?」
久遠が料理の器を置いて尋ねた。
「ええ。とても楽しいわ、久遠」
「それならよかったよ」
久遠の柔らかな笑顔に、イザベラも笑みを返した。宴はまだ始まったばかりだった。




