2話 パリのフレンチ
西暦1880年、ナポリ。14歳になったマッテオは、トラットリア・リナルディの厨房で、出来上がったばかりのラグーを味見していた。肉の旨味は十分に出ているし、トマトの酸味も悪くない。
自分では上手くできたつもりだったが、父ロレンツォは一口食べると、首を横に振った。
「玉ねぎの火の通し方が甘い。最初からやり直すほどじゃねえが、これを俺と同じ味だなんて言うなよ」
「ちぇっ。少しは褒めたらどうなんだよ!」
「前よりは上手くなった。それで十分だろうが」
「前よりは、って何だよ! 俺だってもう一人で作れるぞ!」
「だったら俺と同じ味にしてみろ!」
マッテオはむっとしたものの、父の皿をこっそり味見してみると、言い返せなくなった。煮込んだ肉の香りが違う。手順はずっと見てきたのに、いざ自分で作ると同じようにはならないのだ。
二年前から料理の仕事はずいぶん覚えた。学校を終えて店に戻れば、野菜を刻むだけでなく、簡単な一皿を任されることもある。
それでも、目標は父の味を真似ることだけではなかった。街で見かけた高級店の華やかな料理は、今も鮮やかに頭に残っている。
そんな昼下がり、店の入口から聞き慣れた声がした。
「こんにちは、ロレンツォ。今日もいい匂いだねぇ」
「那岐様! いらっしゃいませ。すぐにお席を用意します!」
マッテオは鍋から顔を上げた。伊奈久遠が来たと知るや、父より先に駆け寄る。
「久遠! あの時の話、覚えてるか?」
「ん? 何の話かな?」
「フランスの料理人だよ! 知り合いがいるって言ってただろ!」
「ああ、レオのことだねぇ。もちろん覚えているよ」
マッテオは待ってましたとばかりに、自分が覚えた仕事を並べ立てた。肉の下ごしらえもできるし、ラグーも作れる。皿洗いをさぼっていたのは昔の話だ、と言ったところでロレンツォが鼻を鳴らす。
「昨日も鍋を一つ洗い忘れてただろうが」
「今はそんな話してねえよ!」
久遠は笑いながら二人を見比べ、話を聞き終えると頷いた。
「そんなに行きたいなら、レオに聞いてみようか。ただ、私が紹介したからって、特別に扱ってもらえるわけじゃないよ」
「いいさ! 俺の料理で認めさせてやる!」
マッテオは拳を握ったが、横に立つ父の顔は晴れなかった。
久遠がパリへ手紙を出してしばらくすると、レオ・モローから返事が届いた。店で修業生を受け入れてもよいが、仕事は一から覚えてもらう。それが条件だった。
「よし! 決まりだな!」
「待て、マッテオ。まだ俺は許すと言ってねえぞ」
ロレンツォは腕を組んで、久遠の前でも厳しい顔を崩さない。息子が料理を学びたい気持ちはよく分かる。だが、言葉も勝手も違う遠い街に送り出すとなれば、話は別だった。
「こいつはすぐに口答えするし、腹が立つと仕事より先に喧嘩を始める。レオさんの店に迷惑をかけるんじゃないかと……」
「親父! 俺を何だと思ってんだよ!」
「だから、その声のでかさだ!」
久遠は二人の言い合いが収まるのを待ってから、穏やかに口を開いた。
「ロレンツォだって、若い頃は自分の行きたいところで料理を学びたかったんでしょ。マッテオも、ちゃんとやってみたいんだと思うよ」
「……それは、分かっています」
父は久遠から視線を外し、息子を見た。マッテオはいつものように顎を上げていたが、今度は余計な口を挟まなかった。
「いいか。向こうでは俺の息子だからって甘くしてもらえると思うな。鍋洗いでも床掃除でも、言われた仕事はきちんとやれ」
「分かってるよ!」
「レオさんに迷惑をかけるな。それから、嫌なことがあっても投げ出すなよ」
「そんなことするかよ!」
「泣き言を言って帰ってきたら、うちで皿洗いからやり直しだ!」
「誰が泣くかよ!」
ロレンツォは大きく息を吐き、息子の肩を叩いた。
「だったら行ってこい。俺が知らねえ料理まで、しっかり覚えてこいよ」
マッテオは一瞬、父の顔を見つめた。それから嬉しさを隠すように鼻をこすり、任せとけ、と胸を張った。
出発の日、ロレンツォはいつも以上にたっぷりラグーを盛った皿を息子に出した。列車の中ではこんなものは食えねえぞと威張るので、マッテオは何度でも食いに帰ってやると言い返した。
久遠に付き添われて駅へ向かう道すがら、マッテオは何度も振り返った。見送る父は最後まで腕を組んだままだったが、姿が見えなくなるまでそこに立っていた。
鉄道を乗り継いで到着したパリは、マッテオが想像していた以上に大きな街だった。広い通りを馬車が行き交い、立派な建物の前を、見慣れない服装の人々が歩いている。
久遠の隣であちこちを見上げているうちに、マッテオは何度も歩くのが遅れた。
「久遠、あれは何だ? こっちの建物もすげえな!」
「あはは。道に迷わないように、ちゃんとついておいでよ」
レオ・モローの店は、ナポリの実家とは雰囲気からして違っていた。
磨かれた扉の向こうには整えられた食卓が並び、白い布や銀器が柔らかい光を受けている。客の声も静かで、給仕は一つ一つの動作に気を配っていた。
「久遠! よく来たな!」
奥から現れたレオは久遠と親しげに挨拶を交わすと、マッテオへ目を向けた。堂々とした立ち姿の料理人で、笑うと気さくだが、その目には仕事を見る者の鋭さがあった。
「君がロレンツォの息子か。料理を学びたいそうだね」
「そうだ! ナポリじゃ親父の店を手伝ってる。俺、フランス料理を覚えて世界一の料理人になるんだ!」
「なるほど。目標は大きい方がいい。ただし、ここでの仕事は君が決めるものじゃない。それでも構わないかい?」
「もちろん!」
マッテオは元気よく答えた。翌朝、厨房に入るまでは、それがどんな意味なのか深く考えていなかった。
最初に任されたのは、鍋と器具の洗浄だった。終われば野菜を洗い、皮をむき、切り揃える。床が汚れれば掃除をし、食材が届けば運ぶ。
厨房では料理人たちが忙しく動き回り、マッテオが見事な肉料理に目を奪われていると、すぐに次の仕事が回ってきた。
「なあ、俺はいつになったら料理を作れるんだ?」
「まずはその人参を同じ大きさに切れるようになりなさい」
「ナポリじゃ俺だって料理を作ってたんだぜ!」
「それなら、なぜ切り方を揃えるのが大切か分かるだろう?」
レオにそう返されると、マッテオは言い返せなかった。細かく切れと怒鳴る父の声が、妙に鮮明に蘇る。
長い一日が終わる頃には足が痛み、手には洗い物の匂いが染みついていた。
それでも、盛り付けを終えて客席へ運ばれていく料理を見ると、目を離せなくなる。皿の上では肉も野菜も、何一つ適当に置かれていなかった。
あんな料理を自分の手で作りたい。マッテオはその気持ちだけは譲らず、翌朝も誰より早く厨房へ向かった。
店の仕事を少し覚えた頃、マッテオが片づけをしていると、学校帰りらしい少女が厨房を覗いた。十二歳くらいで、そこにいる料理人たちとも顔なじみのようだった。
「あなたがマッテオね。お父さんから聞いたわ」
「そうだけど……お前、誰だ?」
「エリーズ・モロー。レオの娘よ」
「ああ! レオさんの娘か!」
エリーズは机に置かれた野菜の籠を片づけるのを手伝いながら、ナポリから来たというマッテオにいろいろと尋ねた。
どんな街なのか、店では何を出しているのか。マッテオは話せと言われればいくらでも話す。
「うちの親父のラグーはすげえんだ。肉とトマトをじっくり煮込むんだけど、何度真似しても同じ味にならねえ。マカロニにかけたら、みんな夢中で食うぜ!」
「美味しそう。魚料理もあるの?」
「もちろん! ナポリは海の街だからな。こっちじゃ食べられねえものもあるかもしれないぞ」
エリーズは目を輝かせて耳を傾けた。父の店で使うソースや料理の名前について話し始めると、今度はマッテオが次々に質問した。
「お前、料理が好きなのか?」
「ええ。学校が休みの日は、時々ここを手伝うの。いつかお父さんみたいに美味しい料理を作りたいわ」
「へえ! じゃあ俺と一緒だな。俺は世界一の料理人になるんだ!」
「それはすごい夢ね。頑張って」
「おう! いつか食わせてやるからな!」
エリーズは楽しそうに笑った。
マッテオはまだフランス語を聞き間違えることがあり、厨房で指示を受けては首を傾げていた。
そんな時、エリーズが簡単な言葉に言い換えて教えてくれることがあった。代わりにマッテオはイタリア語の料理名や挨拶を教え、二人で発音を真似し合った。
仕事の厳しさは変わらなかったが、パリには料理について飽きずに話せる友人ができた。マッテオはエリーズが顔を出す日を楽しみにするようになった。
1881年から翌年にかけて、マッテオの仕事は少しずつ変わっていった。野菜を刻むだけだった少年は、料理人の指示を受けて火を見たり、煮込みの下準備を任されたりするようになる。
とりわけ彼の興味を引いたのは、フォンとソースの作り方だった。肉や骨、野菜を使って旨味を引き出し、料理に合わせて煮汁を使い分ける。
漉して澄ませ、煮詰めることで、同じ材料から驚くほど違う味が生まれる。
ナポリでも肉を煮込む料理は作ってきたが、ここでは煮汁そのものが一つの仕事として丁寧に扱われていた。マッテオはレオの手元を見逃すまいと、鍋を覗き込み続けた。
「そんなに顔を近づけたら、熱い湯気を浴びるぞ」
「だって、どこで味が変わるのか知りてえんだよ!」
「だったら香りを確かめなさい。舌だけでなく、鼻も使うんだ」
レオは肉の焼き加減や魚を火から下ろす頃合いも教えた。
焼き色をつける時に焦って肉を動かすなと言われ、次の日には火を入れすぎて注意される。失敗しても、同じ材料があればもう一度試したくなった。
ある日、レオはマッテオに、肉料理に添えるソースを作らせた。教わった手順でフォンを煮詰め、慎重に仕上げる。マッテオは自信満々で小皿を差し出した。
「できたぜ! 今度は文句ないだろ?」
レオは一口味わってから、静かに皿を置いた。
「悪くない。ただ、もう少し煮詰めた方が味にまとまりが出たね」
「ええっ? これでも十分美味いだろ!」
「美味しいよ。でも、もっと良くできると分かっているのに、そこで終わりにするのかい?」
悔しくなったマッテオは、もう一度鍋に向かった。今度は煮詰めすぎて塩気が強くなり、匙を置いたレオに首を振られる。
「くそっ! 今度は濃すぎるのかよ!」
「火を強めれば早く仕上がるとは限らない。鍋の中をよく見てごらん」
マッテオは三度目の鍋を見守り、香りと濃さを確かめながら火を調整した。レオがようやく頷いた時は、客から褒められた時以上に嬉しかった。
「うん。これなら料理に使える」
「やった! これを覚えたら、もっと難しいのも教えてくれよ!」
「まずは今日の味を、明日も同じように作れるようになることだね」
その言葉にマッテオは顔をしかめた。難しい技を一つ覚えれば、すぐに次へ進めると思っていたからだ。
それでも、仕込みのたびに同じ味を出せるようになるまでには、何度も失敗しなくてはならなかった。
エリーズが学校の休みに厨房へ来ると、マッテオは新しく覚えた仕事を得意げに話した。
エリーズも父から聞いた料理の話をしてくれる。二人は時折、店で使わない簡単な料理の組み合わせを考えては、こんな味になるかもしれないと笑い合った。
「マッテオ、最近ずいぶん上手になったわね」
「当然だろ! 俺は世界一になるんだからな!」
「じゃあ、いつかあなたの料理を食べさせてね」
「任せとけ! 驚くような料理を作ってやる!」
レオに認められ、いつか立派な店で腕を振るう。その日のことを思うと、どれほど疲れていても新しい技術を覚えるのが楽しかった。
1883年、十七歳になったマッテオは、厨房でいくつかの調理を任されるまでになっていた。仕事を始めた頃には嫌で仕方のなかった下準備も、今は手を抜く気になれない。
切り方が揃わなければ火の通りも変わり、仕込みが遅れれば料理を出す時刻にも響く。それを毎日の仕事で覚えたからだった。
ある休日、マッテオはナポリの父へ長い手紙を書いた。レオから学んだソースのこと、肉の焼き方、最近は皿の仕上げまで任されるようになったこと。書きたいことが多すぎて、紙が足りなくなりそうだった。
最後に、帰ったら自分の料理を食べさせてやる、その時は親父も負けを認めるはずだ、と書き添えた。
何日も経って届いた返事には、店は相変わらず忙しく、常連たちも元気にしていると書かれていた。修業が順調なのは何よりだが、俺を超えたなどと勘違いするな、と最後に大きな文字が並んでいる。
「何だよ親父! こっちは本場で修業してるんだぞ!」
思わず声を上げたところへエリーズが来て、何があったのかと尋ねた。マッテオが手紙を見せながら文句を言うと、彼女はくすくす笑った。
「ふふ。仲がいいのね」
「どこがだよ! 帰ったら絶対に黙らせてやる!」
「その時は、わたしにもどうだったか教えてね」
マッテオは胸を張って頷いた。父の味を超えられるかどうかは分からないが、パリに来る前の自分とは違う。今なら、あのラグーにも新しい工夫を加えられるはずだ。
その頃、久遠がレオの店を訪ねていた。レオは厨房を忙しく動き回るマッテオに目をやり、口は達者だが努力を惜しまない、いい料理人になりそうだと話す。
「そうなんだ。マッテオも頑張っているんだねぇ」
「ああ。ただし、まだ自分が世界一だと思いかけているのが玉にきずだな」
「あはは。それはロレンツォにも似ているねぇ」
久遠の笑い声に気づいたマッテオが、何を話しているんだと近づいてきた。レオに父の若い頃の話を知らされているのではないかと疑い、久遠が笑うと余計に気になって仕方がない。
「いいから俺の料理を食ってみろよ、久遠! きっと驚くぞ!」
「うん、楽しみにしているよ」
マッテオは張り切って厨房へ戻った。パリで学んだ技術を自分のものにし、いずれは父にもレオにも腕前を認めさせる。そんな未来を思い描きながら、今日も新しい料理に挑んでいた。




