4話 久遠の帰郷
西暦1875年(明治8年)、アメリカ合衆国。
久遠がイザベラの農場に住み込みで働き始めてから、二年の歳月が流れていた。
かつて雑草に覆われていた畑には綿花やトウモロコシ、じゃがいもが育ち、老朽化していた家の屋根や柵も修繕されていた。
農場の経営も少しずつ持ち直し、今では収穫した作物を近隣に売ったり、余った野菜を分け合ったりする余裕も生まれている。
もちろん、すべてが順調というわけではなかった。天候によって収穫量は変わるし、農具が壊れれば修理も必要になる。
それでも、二年前とは見違えるほど農場は整い、イザベラも以前のように農場の仕事をこなせるようになっていた。
その日の朝も、イザベラは久遠より早く起きて台所に立っていた。
窓から差し込む朝日を受けながら、焼き上がったパンを皿に並べ、卵料理を用意する。最後にコーヒーを淹れたところで、廊下から足音が聞こえてきた。
「おはよう、イザベラ。あれ、もう朝食ができてるんだ」
寝室から出てきた久遠が、食卓を見て嬉しそうに笑った。
「おはよう、久遠。今日は早く目が覚めたのよ」
「ありがとう。あ、コーヒーもあるんだね」
「ふふ、あなたが好きだから用意しておいたわ」
「嬉しいなぁ。いただきます」
久遠が席に着くと、イザベラはいつものように食前の祈りを捧げた。久遠はその間、静かに待っている。
初めて一緒に食事をした時から変わらない習慣であり、祈りが終わると、久遠も手を合わせて食事を始めた。
「そうそう、北側の柵なんだけど、やっぱり補強した方がよさそうなんだ。今日、クリスに直し方を教えてもらおうと思ってる」
パンを食べながら久遠が話し始めると、イザベラもコーヒーを口に運びながら耳を傾けた。
「あそこは風が強いものね。柱を取り替えた方がいいのかしら?」
「うーん、まだ使えると思うんだけど、クリスに見てもらってから決めようかな。それと、じゃがいももずいぶん育ってきたよ。今年は収穫が楽しみだね」
「あら、それなら収穫できたらご近所にも分けてあげましょうか。クリスの奥さんも喜んでくれるでしょうし」
「うん、それがいいね。あ、そうだ。鶏小屋の戸も少し調子が悪くてね……」
久遠は思い出したように次々と仕事の相談を持ちかけてくる。
農場の作業は久遠が中心となって進めていたが、何かを決める時には必ずイザベラの意見を聞いていた。
作物の育て方や収穫物の扱いだけでなく、家の修繕や買い物の予定まで、些細なことでも相談してくるのである。
初めの頃は、そんなことまで自分に聞かなくてもよいのにと思っていた。
しかし、相談されれば一緒に考えることになり、気づけばイザベラ自身も積極的に農場の仕事に関わるようになっていた。
朝食を終えれば久遠は畑へ出かけ、イザベラも家事や農場の帳簿の確認に取りかかる。昼になれば食事を用意し、夕方には仕事を終えた久遠が帰ってくる。
農場の仕事が忙しい日もあれば、雨で作業が進まず、家の中で二人して過ごす日もあった。
そんな日々が、いつの間にか二人にとって当たり前の暮らしになっていた。
それから数日後の夕食時、久遠がいつもとは違う話を切り出した。
「イザベラ、ちょっと話があるんだけど」
その日の夕食はイザベラが作ったもので、久遠はいつものように料理を褒めながら嬉しそうに食べていた。話があると言われても、また農場の仕事について相談したいのだろうと思った。
「あら、何かしら? 明日の畑のこと?」
「ううん。実は日本から知らせが来てね。そろそろ一度戻らないといけなくなったんだ」
「……日本?」
思いがけない言葉に、イザベラは手を止めた。
「うん。急な話になって申し訳ないんだけど、近いうちに帰国しようと思ってる」
「……そう。故郷に戻られるのね」
「二年間もお世話になったのに、急でごめんね」
久遠は申し訳なさそうに笑っていたが、イザベラはすぐに返す言葉が見つからなかった。
日本から来た青年なのだから、いつかは故郷へ帰る日が来る。
そのことは初めから分かっていたはずだった。それでも、この二年間の暮らしがあまりにも自然になっていたため、久遠が帰国するということを考えなくなっていたのである。
「謝らないで。あなたにも帰らなければならない事情があるのでしょう?」
「うん。どうしても顔を出しておきたいところがあってね」
「そうなのね。それなら仕方ないわ。いつ頃、出発するつもりなの?」
「旅の支度ができたら、できるだけ早くと思ってるよ」
「……そう。わかったわ」
イザベラは微笑み、再び食事を続けようとした。
久遠も安心したのか、留守にする前に直しておきたい柵のことや、畑の管理を誰に頼むべきかといった話を始めた。イザベラはそのたびに返事をしていたが、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
二年間をかけて農場は立て直され、今なら一人でも十分に管理できる。久遠がいなくなったからといって、暮らしていけなくなるわけではない。
それでも、明日も明後日も続いていくと思っていた生活に、突然終わりが告げられたことが寂しかった。
その夜、イザベラは寝室で本を読んでいたが、なかなか内容が頭に入ってこなかった。
気分を変えようと廊下に出ると、久遠の部屋から物音が聞こえてきた。どうやら旅に持っていく荷物を整理しているらしい。
久遠が住み込みを始めてから、あの部屋は彼のものになっていた。
朝になれば扉が開き、食卓から呼びかければ返事が聞こえてくる。それが当たり前だったのに、帰国すれば再び使われない部屋に戻ってしまう。
イザベラはしばらく扉を見つめていたが、声をかけることなく寝室へ戻った。
ベッドに横になっても、なかなか眠気は訪れない。
久遠の帰国を引き留めるつもりはなかった。自分にはそのような権利もないし、彼には彼の人生がある。
それでも、もう少し一緒に暮らしていたかった。
そんな思いを胸に抱きながら、イザベラは静かな夜を過ごした。
翌朝、イザベラは手元にある現金を数えていた。
久遠には、この二年間の労働に対する報酬を渡しておかなければならない。
最初に食事と寝る場所だけでよいと約束していたものの、農場をここまで立て直してもらいながら、何も渡さず帰すことなどできなかった。
収穫物を売って得た収入から、生活費や農場の維持に必要な費用を差し引く。
決して十分な額ではなかったが、それでも感謝の気持ちを伝えるには必要なことだと思った。
畑仕事から戻ってきた久遠を呼び止めると、イザベラは用意していた封筒を差し出した。
「久遠、少しいいかしら?」
「ん? どうしたの?」
「これ、受け取ってちょうだい」
「……お金?」
「ええ。二年間働いてくれた報酬よ。十分な額ではないけれど、せめてこれくらいは受け取ってほしいの」
ところが、久遠は封筒を見つめたまま、困ったように笑った。
「いや、いらないよ。最初にご飯と寝る場所だけでいいって言ったでしょ」
「でも、それでは私の気が済まないわ。あなたが働いてくれたおかげで農場も持ち直したのよ」
「イザベラだって、いろいろ教えてくれたじゃない。私は十分お世話になったよ」
「それとこれとは話が違うわ。お願いだから受け取ってちょうだい」
イザベラが改めて封筒を差し出しても、久遠は受け取ろうとしなかった。
「うーん……」
久遠は腕を組み、何やら考え込んでいたが、やがて思いついたように顔を上げた。
「それならさ、イザベラ。そのお金、別のことに使ってくれないかな?」
「別のこと?」
「うん。実はお願いしたいことがあるんだ」
「何かしら?」
「イザベラ、私と一緒に日本へ行かない?」
「…………え?」
あまりにも唐突な申し出に、イザベラは目を丸くした。
「だから、一緒に日本へ行こうよ」
「に、日本? 私が?」
「うん。せっかくだし、案内したいところもあるんだ」
「ちょっと待ってちょうだい。日本って、海の向こうの日本でしょう?」
「あはは、もちろんそうだよ」
「そんな遠い国まで、私が行くの?」
「旅費はそのお金から使ってよ」
久遠はまるで近くの町へ出かける相談でもしているかのように、楽しそうな顔をしていた。
しかし、イザベラにとって外国への旅行など考えたこともない話である。まして太平洋を越えて日本へ向かうとなれば、どれほど長い旅になるのかも想像できなかった。
「でも私、日本のことなんて何も知らないわ。言葉だって分からないのよ?」
「私が案内するから大丈夫だよ。旅行なんだし、難しく考えなくてもいいって」
「もう、あなたは簡単に言うけれど……」
呆れたように言いながらも、イザベラは思わず笑ってしまった。
久遠が帰国してしまうことばかり考えていたため、その旅に自分も同行するなどという発想はまったくなかったのである。
「すぐに返事しなくてもいいよ。少し考えてみて」
「……ええ。そうさせてもらうわ」
久遠はそれ以上勧めることもなく、いつものように農場の仕事へ戻っていった。
残されたイザベラは、手元の封筒を見つめる。
二年間の報酬として用意したお金が、まさか自分の旅行代金になるかもしれないとは思いもしなかった。
しかも行き先は日本である。
「……本当に、変わった人ね」
イザベラは小さく呟いたが、その表情には自然と笑みが浮かんでいた。
その日の午後、イザベラは家の前に置かれた椅子に腰を下ろし、畑仕事をしている久遠を眺めていた。
日本への旅行について考えようと思っていたのだが、考え始めると次から次へと疑問が浮かんでくる。
そもそも日本とはどのような国なのだろう。久遠から故郷の話を聞いたことはあるものの、その暮らしを具体的に想像できるほど詳しく知っているわけではない。
海を渡るには大きな船に乗るのだろうし、日本に着いてからは言葉も習慣も違う人々と接することになる。初めて経験することばかりで、戸惑うことも多いに違いなかった。
けれど、久遠と一緒に旅をするところを想像すると、なぜか楽しそうに思えてくる。
知らない街を歩き、見たことのない景色を眺め、初めて食べる料理に驚く。久遠なら、そんな時も楽しそうに説明してくれるだろう。
日本の食べ物はアメリカの料理とどれほど違うのだろうか。家の造りも違うのかもしれないし、久遠が普段話している故郷の様子を、自分の目で確かめることもできる。
何より、久遠が暮らしてきた国を見てみたいと思った。
あの青年は、遠い日本でどのような生活を送っていたのだろう。
その国には、どんな人々が住んでいるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、イザベラは自分がすっかり旅行に興味を持っていることに気づいた。
最初は突然の申し出に驚いたものの、今では行かない理由を探す方が難しくなっていたのである。
やがて日が傾き、仕事を終えた久遠が畑から戻ってきた。
「イザベラ、ただいまー」
「お帰りなさい、久遠。今日もお疲れ様」
「うん。柵の補修も終わったし、これでしばらくは大丈夫そうだよ」
久遠が手を洗おうと家に入ろうとしたところで、イザベラは声をかけた。
「ねえ、久遠。昨日の話だけど……」
「うん?」
「私も日本に連れていってもらえるかしら?」
久遠は足を止め、嬉しそうに笑った。
「もちろん! 一緒に行こうよ」
「あら、そんなに喜んでくれるの?」
「そりゃそうだよ。案内したいところもあるしね」
「ふふ……それじゃ、頼りにさせてもらうわね。私、外国への旅行なんて初めてなんだから」
「任せてよー。きっと楽しい旅になると思うなぁ」
そう言って笑う久遠を見ていると、イザベラまで嬉しくなってしまう。
こうして彼女は、生まれて初めて海を越える旅へ出ることを決めたのだった。
日本行きが決まると、二人は早速旅の準備に取りかかった。
まず問題となったのは農場の管理だったが、近所のクリスに事情を説明すると、留守中の畑や家畜の世話を引き受けてくれることになった。
収穫物の扱いや手間賃についても相談し、長期間留守にしても困らないよう手配を整えていく。
久遠は鉄道と汽船の便を調べ、必要な切符を手配した。
一方、イザベラは旅に必要な衣服や日用品を揃え、長い旅行に何を持っていくべきか久遠と相談しながら荷物をまとめた。
慣れない準備に戸惑うこともあったが、出発の日が近づくにつれ、イザベラは次第に旅そのものを楽しみにするようになっていた。
そして、いよいよ旅立ちの日がやってきた。
朝の光が農場を照らす中、イザベラは家の前に立ち、見慣れた景色を眺めていた。
畑には作物が育ち、修繕された柵が続いている。久遠と二人で整えてきた農場を、こうして長期間離れることになるとは思ってもみなかった。
留守中の管理はクリスに頼んである。帰ってきた時にも、この場所は変わらず自分たちを迎えてくれるだろう。
やがて、旅支度を終えた久遠が荷物を持って姿を見せた。
「イザベラ、準備はできた?」
「ええ。でも、こうして家を離れるとなると、何だか不思議な気分ね」
「初めての長旅だもんね」
「ええ。それも海の向こうまで行くなんて、今でも信じられないわ」
久遠は荷物を持ち直し、楽しそうに笑った。
「長い旅になるけど、きっと楽しいよ」
「ふふ……あなたがそんなに楽しそうに言うものだから、私まで楽しみになってしまったわ」
「あはは、それならよかった」
イザベラはもう一度だけ農場を眺め、久遠とともに歩き始めた。
まずは鉄道を乗り継ぎ、西海岸のサンフランシスコを目指すことになる。
鉄道の駅へ到着すると、イザベラはその賑わいに驚いた。大きな荷物を抱えた旅行者や、荷車を押して荷物を運ぶ人々が行き交い、駅員たちが忙しそうに声を掛け合っている。
やがて汽笛が響き、黒い煙を吐きながら蒸気機関車が入ってきた。
「まあ……ずいぶん大きな列車ね」
「これから長いことお世話になるからね。乗り心地がいいと嬉しいんだけどなぁ」
久遠に案内されて客車へ乗り込むと、イザベラは窓際の席に腰を下ろした。
出発を告げる汽笛が鳴り、列車がゆっくりと動き始める。最初はわずかな揺れだったものが、次第に規則正しい車輪の音へと変わっていった。
イザベラは窓から外を眺めた。
駅の建物が遠ざかり、町並みが後ろへ流れていく。やがて家々の姿が少なくなり、窓の向こうには広々とした田園風景が広がっていった。
「ねえ、久遠。サンフランシスコまでは、どのくらいかかるの?」
「何日もかかるよ。途中で休んだり、列車を乗り換えたりすることもあるからね」
「まあ、そんなに長いのね」
「うん。でも、アメリカ大陸を横断するんだからね。景色を眺めていたら、案外あっという間かもしれないよ」
「ふふ、それなら退屈しないようにしなくちゃね」
列車は広大な平原を進み、時には川を渡り、いくつもの町を通り過ぎていった。
窓から見える景色は刻々と変化し、イザベラはそのたびに興味深そうに外を眺めた。
どこまでも続く草原に、遠くで草を食む家畜の群れ。見慣れない町では、建物の造りや人々の服装にも目が向いた。
久遠はそんなイザベラの様子を楽しそうに眺めながら、気になったことがあれば説明してくれた。
「久遠、あの遠くに見える山は何という名前なの?」
「ええと……ごめん。私もあの山の名前までは知らないや」
「あら、あなたにも分からないことがあるのね」
「そりゃあるよー。アメリカは広いもの。私だって知らないところばかりだよ」
「ふふ、そうね。それなら二人で少しずつ覚えていきましょうか」
「うん、それがいいね」
旅の途中では駅に停車するたびに周囲を眺め、食事を取れる場所があれば二人で立ち寄った。
列車の中で軽食を分け合ったり、車窓から見える風景について話したりするうちに、イザベラは慣れない鉄道の旅にもすっかり親しんでいった。
大きな山々が近づいてくると、今度はそれまでとは違う雄大な景色が広がり始めた。
岩肌の露出した山や、深い谷を流れる川。山間を進む列車の窓から見える景色に、イザベラは何度も感嘆の声を上げた。
「まあ、なんて素晴らしい景色なのかしら……」
「綺麗だねぇ。私もこういう景色は好きだなぁ」
「久遠は、こんなところにも来たことがあるの?」
「うーん、アメリカにはいろいろな場所へ行ったけど、ここは初めてかな」
「それなら、あなたにとっても新しい旅なのね」
「そうだね。イザベラと一緒に見られてよかったよ」
その言葉に、イザベラは嬉しそうに微笑んだ。
一人では思いも寄らなかった遠い土地へ、こうして久遠と旅行している。窓の向こうに広がる景色を眺めながら、誰かと感想を言い合うことが、これほど楽しいものだとは思わなかった。
長い鉄道の旅が続いたが、イザベラにとっては見るものすべてが新鮮であり、退屈する暇もなかった。
そして幾日もの旅を経て、二人は西海岸のサンフランシスコへ到着した。
港町の賑わいは、イザベラの想像をはるかに超えていた。
大通りには馬車が行き交い、様々な店が軒を連ね、港へ向かう道には大きな荷物を運ぶ人々の姿が絶えない。
久遠に案内されながら港へ到着すると、イザベラは目の前に停泊している巨大な汽船を見上げた。
「まあ……これに乗るの?」
「うん。日本へ向かう汽船だよ」
「こんなに大きな船が海を渡るのね……」
船の周囲では荷役作業が続いており、大きな木箱や樽が次々と運び込まれていた。乗船を待つ旅行者たちも大勢集まっていて、イザベラが知らない言葉で会話している人々もいる。
「久遠、あの人たちも日本へ行くのかしら?」
「日本へ行く人もいるだろうね。途中の港で降りる人もいると思うよ」
「まあ、そうなのね。いろいろな国の人が乗るのかしら」
「そうだね。船旅も面白そうでしょ?」
「ええ。まだ乗ってもいないのに、もう驚くことばかりだわ」
久遠は笑いながら、乗船の手続きを進めていった。
やがて二人は船へ乗り込み、案内された船室に荷物を置いた。イザベラは船内の廊下や階段を見渡し、その広さにまた驚かされた。
「まるで建物の中にいるみたいね。これが海の上を進むなんて、不思議な気分だわ」
「揺れることもあるから、あまり油断しないでね」
「あら、船酔いするかもしれないってこと?」
「うん。まあ、そうなったら私が面倒を見るから大丈夫だよ」
「ふふ……それは頼もしいわね」
出港までにはまだ時間があったため、二人は甲板へ出ることにした。
海から吹きつける風には独特の潮の香りがあり、港の喧騒に混じって海鳥の鳴き声が聞こえてくる。
イザベラは手すりに近づき、どこまでも広がる海を見つめた。
これから、この大海原を越えて日本へ向かうのである。
やがて汽船の汽笛が港に響き渡り、船体がゆっくりと動き始めた。
港の建物が遠ざかり、陸地の景色が少しずつ小さくなっていく。
イザベラはしばらく黙って、その様子を眺めていた。
「……本当に、この海の向こうに日本があるのね」
「うん。日本まではまだまだ遠いけどね」
「こんな大きな船に乗るのも初めてだし、何もかも新鮮だわ」
「船旅は長いから、退屈しないようにしないとね」
「あら、あなたがいるんだから退屈なんてしないでしょう?」
「あはは、それならよかったよ」
二人は笑い合い、しばらく海を眺めていた。
やがてイザベラは、ふと思いついたように久遠へ顔を向けた。
「ねえ、久遠。日本って、どんなところなの?」
「そうだねぇ。山も多いし、綺麗な海もあるよ。食べ物もいろいろあるしね」
「食べ物といえば、あなたが時々話してくれた日本の料理も、一度食べてみたかったのよ」
「それなら美味しいお店に案内するよ。あ、温泉にも行ってみようか」
「温泉?」
「うん。温かいお湯に浸かるんだ。とても気持ちいいよー」
「お風呂のことかしら?」
「そうそう。でも、アメリカのお風呂とはちょっと違うかな」
「あら、どう違うの?」
「うーん、それは着いてからのお楽しみだね」
「もう、意地悪ね。そこまで話したなら教えてくれてもいいじゃない」
「実際に入った方が分かりやすいと思うよ。きっと気に入ってくれるんじゃないかなぁ」
久遠は楽しそうに笑いながら、日本で案内したい場所について話し始めた。
イザベラはその話を聞くたびに、知らない国への興味が膨らんでいくのを感じていた。
日本にはどんな町があり、どんな人々が暮らしているのだろう。久遠が生まれ育った土地はどのようなところで、彼はどんな人々と親しくしているのだろうか。
聞いてみたいことは山ほどあったが、それは旅の途中で少しずつ尋ねればよい。
何しろ日本までは長い船旅になるのだから、時間はいくらでもある。
「ねえ、久遠」
「ん? どうしたの?」
「私、今回の旅行がとても楽しみになってきたわ」
「そう? それならよかった」
「ええ。こんなに遠くまで旅行するなんて、以前の私なら考えもしなかったでしょうね」
イザベラはそう言って微笑むと、再び海へ目を向けた。
七十二歳になって、初めてアメリカ大陸を横断し、今度は太平洋を越えて異国へ向かおうとしている。
自分の知らない世界が、こんなにも広がっているとは思わなかった。
そして今は、これからどんな景色を見られるのか、どんな経験が待っているのかを考えるだけで、胸が高鳴ってくる。
久遠がなぜ自分を日本へ誘ったのか、その本当の理由をイザベラはまだ知らない。
ただ、今は彼と一緒に旅をすることが楽しくて仕方なかった。
明日はどんな景色が見られるだろう。
明後日はどんな話を聞けるだろう。
まだ見ぬ日本では、どのような出来事が待っているのだろうか。
イザベラは隣に立つ久遠に微笑みかけると、水平線の彼方へ目を向けた。
二人を乗せた汽船は、穏やかな波をかき分けながら太平洋へと進んでいく。
その先に待つ新しい出会いを、イザベラはまだ知らなかった。




