3話 あなたの帰りが待ち遠しくて
西暦1874年(明治7年)、アメリカ合衆国。
久遠がイザベラの農場にやってきて、間もなく一年が経とうとしていた。
かつて雑草に覆われていた畑は耕され、傷んでいた柵や納屋も修繕が進み、農場は少しずつ以前の姿を取り戻していた。
長らく手入れされていなかった家屋も、雨漏りや隙間風に悩まされることが少なくなり、今では不自由なく暮らせるようになっている。
それらのほとんどを、一人の東洋人の若者が手掛けていた。
久遠は彼女の身の上を無理に尋ねることなく、毎日農場で働いてくれた。そんな生活の中でイザベラも少しずつ元気を取り戻していたが、亡くした家族を思い出して涙が止まらなくなる夜もあった。
前夜もそうだった。
寝室で聖書を読んでいた時、かつて夫が好んでいた一節に目が留まり、突然涙があふれて止まらなくなった。
あの人はもういない。
息子たちも帰ってこない。
どれほど神に祈っても、その事実だけは変わらなかった。
イザベラは今も熱心なクリスチャンだった。朝晩の家庭礼拝を欠かさず、聖書を朗読し、亡くなった家族の魂の安らぎと、自分自身が今日を生きるための力を神に求めていた。
信仰を捨てようと思ったことはない。ただ、祈りを終えた後にも胸の痛みが残る夜はあった。
それでも、久遠が来てから体調を崩す日は少なくなっていた。
食事を抜くことも減り、眠れない夜があっても、以前のように一日中寝床から起き上がれないことはなくなった。
その翌朝も、イザベラは台所から聞こえる物音で目を覚ました。
何かを刻む小気味よい音に続き、食器の触れ合う音がする。窓からは朝の光が差し込み、家の中に温かな料理の香りが漂っていた。
身支度を整えて台所へ向かうと、久遠が朝食の支度をしていた。
「おはよう、イザベラ。もうすぐ朝食ができるよー」
振り返った久遠は、いつもと変わらない笑顔を向けてきた。
「おはよう、久遠。今日も早いのね」
「今日は畑の仕事が多いからねぇ。しっかり食べておかないと」
「そう。無理はしないでちょうだいね」
「大丈夫だよ。あ、そこのお皿を取ってくれる?」
イザベラが食器を渡すと、久遠は礼を言って料理を盛り付けた。
以前なら、朝になっても起き上がる理由を見つけられず、何時間も寝床で過ごしていたかもしれない。今では、こうして台所に来れば朝食が用意され、他愛もない会話を交わす相手がいる。
イザベラは食卓に着く前に、いつものように聖書を開いた。
短い朗読を終え、静かに祈りを捧げる。
久遠はその間、食事に手をつけずに待っていた。
初めて一緒に食事をした時、宗教が違うから祈りには参加しなくてもよいかと尋ねられ、イザベラはもちろん構わないと答えていた。
それ以来、久遠はイザベラが祈りを終えるまで黙って待つようになっている。
祈りが終わると、久遠は胸の前で両手を合わせた。
「いただきます」
「そういえば、久遠の宗教では祈らないの?」
以前から気になっていたことを、イザベラは尋ねてみた。
「んー、私はほら、食事の時に手を合わせるでしょ」
「そういえば変わった方法よね」
「私の宗教はさりげなく感謝するんだ」
「祈りはしないのかしら」
「あー、祈りなのか願いなのか、どっちだろうねー。こちらでいう教会的なものはあるんだよ。でも教会の礼拝とはずいぶん違うんだよ」
「聖書はないの?」
「日本ではね、山にも川にも木にも神様がいるって考えるんだ。八百万の神々っていうんだけど」
「そんなにたくさんの神様がいるの?」
イザベラは思わず聞き返した。
彼女にとって神とは唯一の存在であり、世界を創造し、人々を導く存在だった。山や川、それどころか木にまで神がいるという考え方は、あまりにも馴染みがなかった。
「うん。自然の恵みに感謝したり、災いが起こらないようお願いしたりするんだよ」
「あなたもその神様たちを信じているの?」
「んー、私はそういう考え方が好きなんだよねぇ」
「よくわからないわ」
「そっかぁ。まあ、私もこちらの宗教については、まだ知らないことが多いからね」
久遠は困った様子もなく笑い、朝食を口に運んだ。
イザベラはしばらく彼の顔を眺めていた。
神がいくつも存在するなど、自分には理解できそうもない。けれど、久遠が自然の恵みについて語る時、その言葉にはどこか実感がこもっているように思えた。
畑を耕す時も、雨が降った時も、彼は時折、空や大地を眺めて嬉しそうにしていることがある。
作物が育てば喜び、枯れた木を見つければ残念そうにする。そうした様子を見ていると、久遠自身が自然を敬い、その中で生きることを大切にしているように感じられるのだった。
不思議な青年だと思う。
ただ、それ以上は尋ねなかった。
宗教についての話が一段落すると、久遠は思い出したように顔を上げた。
「ねえー、今日はジェネラル・ストアに行きたいんだ。調味料の在庫がなくなったら辛いからぁ」
「あら、素材のままでもいいものよ」
「それはそうなんだけどねぇ……」
久遠は少し考え込んでから、照れくさそうに付け加えた。
「……あと、最近コーヒーにハマってて……」
「それが本音なのね」
イザベラが笑うと、久遠もつられて笑った。
「いいわ。ちゃんと買ってきてあげるから、畑に行ってていいわよ」
「ホント! ありがとう、イザベラ! 大好きだよ!」
「あらあら。いいのよ、いつもよく働いてくれるんだもの」
久遠は嬉しそうに残りの朝食を平らげると、早速農作業の準備を始めた。
その姿を見送りながら、イザベラは今日の買い物について考えた。
夫を亡くして以来、必要なものを買いに出かけることすら億劫になっていた。久遠が来てからは、買い物のほとんどを任せきりにしている。
たまには自分で行かなければ。
そんな気持ちになったのも、久しぶりのことだった。
朝食の片付けを済ませると、イザベラは外出の支度を整えた。
家の戸締まりを確かめ、買い物に必要な金を用意して外へ出る。
見慣れた農場の風景だったが、今日はいつもと違うように感じられた。
久遠が直してくれた柵の向こうには、手入れされた畑が広がっている。以前なら目を背けたくなるほど荒れていた場所も、今では農場としての姿を取り戻していた。
自分たちが暮らしてきた家が、再び息を吹き返している。
そんなことを思いながら、イザベラはジェネラル・ストアへ向かった。
店に到着すると、顔なじみの店主が彼女を見つけて声を上げた。
「おや、イザベラじゃないか! 今日はあの坊やじゃないんだね」
「あら、こんにちは。今日は畑よ。なんでもあの子にやらせてしまっているから、私もいつまでも家に引き籠もっていては仕方ないもの」
「こうしてあんたの顔を見られてよかったよ。ずいぶん久しぶりだからな」
店主は少し安心したような表情を浮かべた。
イザベラが夫を亡くしてから、ほとんど人前に姿を見せなくなったことは、近隣の者たちも知っていた。
時折、様子を見に来てくれる者もいたが、イザベラは誰かと顔を合わせることさえ辛い時期があった。
そんな彼女が、今日は自分から買い物に来ている。
店主にとっても、それは喜ばしいことだった。
「そうね。ご心配をおかけしたわ」
「いや、元気そうで何よりだ。それで、今日は何を買いに?」
店主はそれ以上、過去の話を持ち出さなかった。
「そうねー、砂糖と塩と、コーヒー豆も欲しいわね」
「コーヒーか。あの坊やがよく買っていくやつだな」
「ええ、最近すっかり気に入ってしまったみたいなの」
「そうかそうか。ああ、胡椒も入っているぞ」
「それも貰うわ。久遠が喜びそう」
イザベラは棚に並んだ品物を眺め、必要なものを選んでいった。
久遠が普段使っている調味料を思い出しながら、足りなくなりそうなものも買い足していく。
すると、棚の端に置かれた見慣れない容器が目に留まった。
「あら、これは何かしら?」
「あー、これはカレー粉という品だ。珍しいものでな、滅多に入らないんだ。美味いぞ。少し味見するか?」
「いいの?」
店主が容器を開けると、独特な香りが漂ってきた。
イザベラは指先に少量を乗せ、口に含んでみる。
「……まあ、なんて独特な味なのかしら。それに、この香り」
普段使っている塩や胡椒とは、まるで違っていた。
最初は少し驚いたものの、口の中に残る風味が気になり、もう一度容器に目を向ける。
「美味いだろ。結構なんにでも合うんだぜ」
「そうなの……」
イザベラはしばらく考えた。
これを使って料理を作ったら、久遠はどんな顔をするだろう。
彼は珍しいものを見つけると、子供のように目を輝かせることがある。食事についても、初めて口にする料理には興味津々で、作り方を尋ねてくることがあった。
今日もきっと、喜んでくれるに違いない。
「なら……それもいただこうかしら」
「毎度あり。あの坊やも喜ぶといいな」
「ええ。そうだといいのだけれど」
イザベラは買い物を終えると、品物を受け取って店を後にした。
帰り道、彼女の頭の中は夕食のことでいっぱいだった。
どの食材と合わせようか。いつもの料理に加えるだけでよいのだろうか。それとも、少し違ったものを作った方がよいだろうか。
久遠は何でも美味しそうに食べてくれるけれど、せっかくなら心から喜んでほしい。
そう考えていると、自然と足取りが軽くなった。
家に戻ったイザベラは、買ってきた品物を台所に並べた。
砂糖と塩を所定の場所にしまい、コーヒー豆も久遠が使いやすいところに置いておく。
そして、最後にカレー粉を取り出した。
「さて、どうしましょうか……」
イザベラは台所にある食材を確かめながら、夕食の献立を考え始めた。
今日の夕食も、久遠に頼まれたわけではない。
ただ、あの子に美味しいものを食べさせてあげたい。
それだけの理由で、イザベラは台所に立っていた。
調理を始めると、思っていた以上に手間がかかった。
普段とは異なる香りに戸惑いながら、少しずつ味を確かめていく。最初は納得できず、食材を足したり、調味料の量を変えたりしているうちに、予定より時間が過ぎてしまった。
「……これなら、いいかしら」
ようやく満足のいく仕上がりになった頃には、窓から差し込む陽光が傾き始めていた。
イザベラは料理を食卓に並べ、食器を揃える。
あとは久遠が帰ってくるのを待つだけだった。
ところが、いつもの時刻になっても久遠は戻ってこなかった。
農作業が長引いているのだろうか。
イザベラは窓から畑の方を眺めたが、久遠の姿は見えない。
農場の仕事をしていれば、予定どおりに終わらないこともある。特に今日は作業が多いと言っていたのだから、多少遅くなっても不思議ではなかった。
それでも、せっかく作った料理を早く食べてもらいたいという気持ちは抑えられなかった。
もう少ししたら帰ってくるかしら。
そう思いながら台所の片付けを始めた、その時だった。
「ただいまぁー」
玄関の方から、聞き慣れた声がした。
「あら、帰ってきたわ」
イザベラは手を拭き、久遠を迎えに向かった。
「おかえりなさい。今日は遅かったのね……うわっ、どうしたの、その格好!」
思わず声を上げてしまった。
帰ってきた久遠は、服も手足も泥だらけだった。髪にも草が絡まり、いつも以上にひどい有様である。
「あはは……ちょっと大変なことになっちゃってねぇ」
「ちょっとどころではないでしょう。いったい何があったの?」
「オリバーのところの羊が大量にこっちに逃げてきてさー。みんなで捕まえるのに大変だったんだよー。うちには牧羊犬がいないから大変だったよー」
「まあ、羊が?」
「うん。あっちに逃げたり、こっちに逃げたりで、なかなか言うことを聞いてくれなくてねぇ。追いかけてたら泥の中に足を取られちゃったんだ」
久遠は困ったように笑いながら、泥のついた服を見下ろした。
「それでこんな格好になっちゃった」
「もう……。そんなに汚れて。身体を洗いましょ、服も着替えて」
「あ、うん。ありがとう。先に身体を洗って着替えてくるよー」
「汚れた服はそこに置いておいてね。あとで洗うから」
「わかったー」
久遠は素直に頷き、身体を洗うために奥へ向かった。
その後ろ姿を見送りながら、イザベラは小さく息をついた。
まったく、何をしているのやら。
いつも一生懸命に働いてくれるのはありがたいが、時々、思いもよらない騒動に巻き込まれて帰ってくることがある。
それでも、無事に帰ってきてくれてよかった。
そう思ってから、イザベラは食卓へ戻った。
久遠が身体を洗って着替えている間、料理が冷めないように気を配りながら、食器の位置を少し直す。
もう十分に整っているはずなのに、何となく気になってしまうのだった。
今日買ってきた珍しい調味料を使った料理。
久遠は気に入ってくれるだろうか。
見慣れない料理を前にして、きっと不思議そうな顔をするだろう。
それとも、香りだけで何か分かってしまうのかしら。
イザベラは、そんなことを考えながら椅子に腰を下ろした。
久遠はいつも、料理を美味しいと言って食べてくれる。時には少し大げさなくらい褒めてくれることもあり、こちらが照れくさくなってしまうほどだった。
今日も、あの笑顔が見られるかもしれない。
そう考えると、自然と頬が緩んでいた。
イザベラは食卓に並ぶ二人分の料理を見つめた。
以前は、この場所に座ることさえ辛かった。
家族がいた頃の賑やかな食卓を思い出し、誰もいない椅子を眺めては涙を流していた。
けれど、今は向かい側に久遠の席がある。
朝になれば挨拶を交わし、昼には農場の仕事について話し、夕方になれば帰ってきた久遠と食事をする。
そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていた。
イザベラは台所の方へ目を向けた。
まだ着替えが終わらないのかしら。
早く今日の料理を食べてもらいたい。
美味しいと言ってくれたら、どんな料理に使ったのか教えてあげよう。気に入ってくれたのなら、また別の料理にも挑戦してみたい。
そんなことを考えている自分が、少しおかしくなった。
イザベラは微笑みながら、久遠が食卓に着くのを待っていた。
――早く来ないかしら。




