2話 住み込みの少年
西暦1873年(明治6年)、アメリカ南部。
久遠が農場に住み込みで働くようになった翌朝、イザベラは台所から聞こえてくる物音で目を覚ました。
何かを刻む音に、食器が触れ合う音。誰かが台所に立っていることを思い出し、イザベラは寝床から起き上がった。
台所を覗くと、久遠が朝食の準備をしていた。
「おはよう、イザベラ。もうすぐ朝食ができるよー」
「あら、おはよう、久遠。ごめんなさいね。朝食は私が作るつもりだったのに」
「早く目が覚めたから作っていたんだよ。座ってていいよー」
「でも、あなたは農場で働くために来たのでしょう? 食事くらい私が……」
「私も食べるんだから気にしなくていいよ。それより、農場のことを教えてほしいんだ」
久遠は料理を皿に盛りつけると、食卓へ運んできた。
イザベラが食前の祈りを捧げている間、久遠は静かに待っていた。祈りが終わると、二人は一緒に朝食を食べ始めた。
「それでイザベラ、畑なんだけど、どこから手をつけたらいいかなぁ?」
「好きにしてくれていいのよ。もう長いこと手入れもしていないから」
「そう言われてもなぁ。何を植えていたのかも分からないし、井戸や農具の場所も知らないからさー」
「そうね……それなら食事の後で案内するわ」
「ありがとう。助かるよ」
朝食を終えたイザベラは帽子をかぶり、久遠と一緒に家を出た。
夫が亡くなってから、農場の様子を見に行くことさえ億劫になっていた。しかし、働いてもらう以上は、何をどこで育てていたのか教えなければならない。
久遠はイザベラの説明を聞きながら、広い農場を見渡した。
かつて綿花やトウモロコシ、じゃがいもなどを育てていた畑には雑草が生い茂り、壊れた柵もそのままになっていた。農具を保管している小屋も傷みが目立ち、家の屋根にも修理の必要な場所がある。
「うーん……結構やることが多そうだねぇ」
「ごめんなさいね。こんなに荒らしてしまって」
「大丈夫だよ。少しずつ直していけばいいんだから」
久遠はそう言って笑うと、まず畑の雑草を取り除くことから始めた。
朝から夕方まで黙々と働き、傷んだ柵を直し、使える畑を整えていく。翌日も、その翌日も、久遠は変わらず農場へ出ていった。
最初の一週間が過ぎても、久遠が仕事をやめたいと言い出すことはなかった。それどころか、毎日のように新しい仕事を見つけては、嬉しそうに取り組んでいる。
そんな彼を見ているうちに、イザベラは申し訳なくなってきた。
「久遠、やっぱり悪いわ。農作業は重労働なのに、お給料も出せないなんて」
「ここの農場が儲かりだしたらいただくことにするよ」
「いつになるか分からないわよ?」
「あはは、それなら気長に待つよー」
久遠は気にも留めず、再び作業へ戻っていった。
そんなある日のことだった。
久遠が家の裏手にある小さな畑を見つけ、イザベラを呼んだ。
「イザベラー、ちょっと教えてほしいことがあるんだけどー」
「あら、何かしら?」
「裏の小さな畑なんだけど、あそこも使っていいかな?」
イザベラは久遠が指さす先を見て、少し表情を曇らせた。
「あそこは……主人が使っていた畑なの」
「そうなんだ。何を育てていたの?」
「いろいろよ。毎年違う作物を植えてみたがってね。失敗しては困った顔をしていたわ」
夫は新しい作物を育てることが好きだった。うまくいく年もあれば、ほとんど収穫できずに終わる年もあったが、それでも翌年になると懲りずに別の作物を試そうとするのである。
「私が教えてあげても、自分で育てるんだと言って聞かなかったのよ」
「へえ、楽しそうな人だねぇ」
「ええ……本当に楽しそうだったわ」
イザベラは昔のことを思い出し、しばらく畑を眺めていた。
久遠はそれ以上尋ねず、しばらくしてから声をかけた。
「それなら、今年は何を植えようか?」
「……そうね。あの人が好きだったものを植えてあげて」
「わかった。じゃあ、植え方を教えてくれる?」
「いいわよ。ちょっと待って、着替えてくるわ」
「あー、作業はいいから帽子だけでいいよ」
「え?」
「教えてくれたら後は私がするから、見ててー」
「……分かったわ」
イザベラは帽子をかぶり直し、久遠と一緒に畑へ向かった。
久遠には農業の経験があるらしかったが、アメリカ南部の作物や土地の扱いについては分からないことも多いようだった。土の状態を確かめたり、植える間隔について尋ねたりと、何かにつけてイザベラの意見を求めてくる。
「イザベラ、これくらいの深さでいいかな?」
「もう少し浅い方がいいわね。その作物は深く植えすぎない方が育ちやすいのよ」
「なるほどねぇ。じゃあ、こっちは?」
「そちらは少し間隔を広げましょう。育つと葉が大きくなるから」
「うん、分かったよー」
久遠は教わったとおりに作業を進め、時折、イザベラに確認してもらった。
作業を手伝おうとしても、久遠は自分がやるからと譲らない。結局、イザベラは畑のそばで指示を出すだけになったが、土の状態を見ているうちに、ほかの畑のことも気になるようになっていた。
それからというもの、久遠は分からないことがあれば必ずイザベラを呼ぶようになった。
綿花の手入れ、トウモロコシの栽培、農具の使い方。イザベラが教えると、久遠は嬉しそうに礼を言い、すぐに作業を進めていく。
彼女も次第に、久遠がどこまで仕事を進めたのか気になり、畑へ顔を出すことが増えていった。
久遠が来てから、近所の農夫たちも時折、農場の様子を見に訪れるようになった。
ある日、隣人のクリスが畑を見渡しながら感心したように言った。
「ずいぶん畑が綺麗になったな。あんたが来るまでは、どうなることかと思っていたよ」
「まだまだだよー。分からないことが多くてさ」
「困ったことがあれば言ってくれ。イザベラのところには昔から世話になっているからな」
「それなら、屋根の修理の仕方も教えてもらえるかな?」
「屋根か? そりゃ大工に頼んだ方が早いぞ」
「でも、お金もかかるでしょ。できることは自分でしたいんだ」
「ははは、働き者だな。分かった、今度見てやるよ」
久遠はクリスだけでなく、近所の農夫たちとも親しくなっていった。
必要な資材を譲ってもらったり、農具の修理について相談したり、余った作物を分け合ったりするようになった。
以前、食べきれなかったガチョウの肉を久遠がクリスの家へ届けたことがあった。そのお礼として、今度はクリスがウサギの肉を持ってきてくれたのである。
ある日の夕方、農作業を終えた久遠が家へ戻ってきた。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい、久遠。あ……ごめんなさい、食事の準備がまだなの……」
その日のイザベラは、朝からどうしても身体が動かなかった。久遠が働いているのは分かっていたが、食事の用意に取りかかることさえできずにいた。
「いいよ。そこに座ってて。何を作ろうか?」
「何でもいいわ」
「でも何でも作れる感じじゃないなぁ。コーンブレッドとブランズウィック・シチューにしよう」
「そんなに食べられないわよ」
「大丈夫、明日の朝まで食べればいいし」
「でも肉が余っていたかしら?」
「さっき、隣のクリスからウサギの肉をもらってきたよー」
「あら」
「この前、ガチョウの肉を分けてあげたでしょ。そのお返しみたい」
久遠は嬉しそうにウサギの肉を取り出し、台所に材料を並べ始めた。
ところが、しばらくすると手を止め、考え込んでしまった。
「ところでイザベラ……レシピとかない?」
「ないわよ。覚えているもの」
「なら、そこに座って教えてくれー。動かなくてもいいよ」
「そんな、悪いわ」
「体調が悪そうだし、無理しなくていいよ。教えてくれるだけで助かるから」
イザベラは椅子に腰を下ろし、久遠が用意した材料を確かめた。
彼には料理の経験があったが、アメリカ南部の郷土料理については詳しくないらしい。イザベラが手順を教えると、すぐに理解して調理を進めていった。
「久遠、最初に野菜を炒めてちょうだい。肉はその後でいいわ」
「うん。これくらいの大きさに切ればいいかな?」
「そうね。それで大丈夫よ」
久遠は教わったとおりに野菜と肉を鍋へ入れ、煮込み始めた。
「塩はこれくらいかな?」
「もう少し多くてもいいわ。主人は味が濃い方が好きだったの」
そう口にしたところで、イザベラは夫が食卓でシチューを食べていた姿を思い出した。
「息子たちも同じだったわ。いつもたくさん食べるものだから、料理するのも大変だったのよ」
「そうなんだ。じゃあ、いつもたくさん作っていたんだね」
「ええ……毎日、あの子たちのお腹を満たすので精一杯だったわ」
久遠は静かに頷き、イザベラから教わったとおりに味を整えた。
やがて鍋から美味しそうな香りが漂い始め、コーンブレッドも焼き上がった。
「うん、できたよー。イザベラ、食べようか」
「ええ。ありがとう、久遠」
二人は食卓につき、いつものように食前の祈りを済ませた。
久遠がシチューを一口食べると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「うん、美味しいねぇ。今度は別の肉でも作れるかな?」
「もちろんよ。鶏肉でもいいし、いろいろな野菜を入れても美味しいわ」
「そうなんだ。じゃあ、また教えてね」
「……ええ。いつでも教えてあげるわ」
イザベラもシチューを口に運んだ。
昔から何度も作ってきた料理だったが、久しぶりに美味しいと思えた。久遠が料理を作りながら何度も尋ねてきたことを思い出すと、自然と笑みがこぼれた。
それから久遠は、教わった南部料理を自分でも作るようになった。
ときには材料を変えたり、新しい味付けを試したりするため、イザベラも料理の出来上がりを楽しみにするようになっていた。
食事の支度が難しい日には久遠が代わり、何を作るか分からない時にはイザベラに尋ねる。二人で献立を相談することも、いつしか日常になっていった。
季節が進み、ある日、まとまった雨が降った。
久しぶりの雨に畑は潤ったが、古くなった家の屋根から雨漏りが始まってしまった。
「まあ、また雨漏りしているわ……」
「えっ、どこどこ?」
「そこの天井よ。前から修理しないといけないと思っていたのだけど……」
「ありゃー、結構ひどいねぇ」
天井から落ちる水滴を受けるため、二人は慌てて器を用意した。
しばらくすると別の場所からも水が落ち始め、床が濡れないよう、さらに器を並べなければならなくなった。
「ごめんなさいね。こんな家に住まわせてしまって」
「気にしなくていいよ。雨が止んだら直そう」
「でも、修理にはお金がかかるわ」
「クリスが屋根の直し方を教えてくれるって言っていたから、相談してみるよ」
翌日、雨が上がると、久遠は早速クリスのところへ出かけた。
屋根の修理に必要な道具や材料について教わり、傷んでいる場所を一緒に確認してもらう。
ところが、久遠は大工仕事があまり得意ではなかった。
教えられたとおりに作業を進めるものの、なかなか思うようにいかない。木材の寸法を間違えたり、取りつける場所がずれてしまったりと、何度もやり直していた。
イザベラは窓からその様子を眺めていた。
「久遠、大丈夫なの?」
「うーん……たぶんねー。でも、ちょっと自信ないや」
「それなら無理しないで。怪我でもしたら大変よ」
「大丈夫だよ。もう少しで終わりそうだから」
そう言いながらも、久遠はしばらく屋根の上で考え込んでしまった。
結局、一人では難しい部分もあり、クリスに手伝ってもらいながら修理を終えることになった。
「よし、これで次の雨は大丈夫かなぁ」
地面へ降りてきた久遠は、満足そうに屋根を見上げた。
「ありがとう、久遠。本当に助かるわ」
「次に降った時、また漏れたら直すよー」
「ふふ……そうね。でも、今度はクリスに最初から手伝ってもらった方がよさそうね」
「あはは。そうかもしれないねぇ」
その後も久遠は、傷んだ扉や窓、柵などを少しずつ修理していった。
失敗することもあったが、分からないことは近所の人々に教わりながら、一つずつ仕事を進めていく。
イザベラは修理が終わるたびに嬉しそうに報告してくれる久遠を眺め、時には道具の片づけを手伝うようになった。
こうして久遠が農場で働き始めてから、数か月が過ぎた。
畑には作物が育ち始め、傷んでいた家や柵も少しずつ以前の姿を取り戻していた。
久遠は相変わらず毎日、朝から夕方まで働いている。
農場について分からないことがあればイザベラに尋ね、料理についても教えを請う。修理の必要な場所を見つければ、クリスたちに相談しながら直していった。
イザベラも朝食の準備を手伝うようになり、久遠が農作業をしている間に家事を済ませる日が増えていた。
それでも、時にはどうしても動けなくなることがあった。
そんな日でも久遠は無理に働くよう求めなかった。食事を用意し、普段どおりに農場へ出かけ、夕方になるといつものように帰ってくる。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい、久遠」
この短い挨拶を交わすことも、二人の日常になっていた。
その夜も、イザベラは寝室で聖書を開き、亡くなった家族のために祈りを捧げた。
やがて聖書を閉じると、ふと今日の出来事が頭に浮かんだ。
久遠が畑の作物について尋ねてきたこと。料理を美味しそうに食べてくれたこと。屋根の修理がうまくいかず、困った顔をしていたこと。
そして、何度も自分に礼を言ってくれたこと。
気がつけば、久遠のことを思い出す時間が増えていた。
明日も彼は畑へ出るだろう。
また何かを尋ねてくるかもしれないし、料理の作り方を教えてほしいと言うかもしれない。
その時には、自分も答えてあげられる。
イザベラは聖書を閉じて棚に置くと、灯りを消して寝床に入った。
家族を失った悲しみが消えたわけではない。それでも、以前のように明日が来ることだけを恐れてはいなかった。
この家には今、もう一人暮らしている。
朝になれば、また久遠が挨拶してくれるだろう。
そんなことを考えながら、イザベラは穏やかな気持ちで眠りにつくのだった。




