1話 荒れた家に少年がくる
西暦1873年(明治6年)、アメリカ南部の農村。朝日が窓から差し込む頃、イザベラは居間の十字架の前に跪いていた。
「神様……どうか、あの人たちが安らかに眠れますように……」
いつもと同じ祈りを終えても、すぐには立ち上がれなかった。
床板のきしむ音も、壁時計の針が進む音も、誰もいなくなった家ではやけに大きく聞こえる。
イザベラは今年で70歳になった。しかし、鏡に映るのは若い頃とほとんど変わらない顔だった。
彼女は月読という遠い祖先の血を引き、人並み外れた長寿を受け継いでいる。
幼い頃から一族の話は聞かされていたが、まさか自分がこれほど年を取らずに生きるとは思っていなかった。
開拓民としてこの地に暮らし、夫と農場を切り開いて、二人の息子を育てた。
裕福ではなかったものの、四人で囲む食卓にはいつも話し声があった。
兄弟が農作業の手柄を言い争い、夫が笑って仲裁し、イザベラが温かい料理を取り分ける。そんな騒がしさを、当時は当たり前のものだと思っていた。
その息子たちは南北戦争に出征し、二人とも帰らなかった。
残された夫婦は、互いに支え合って暮らした。畑に立つ夫の背が以前より曲がり、黒かった髪が白くなっても、イザベラの容姿は変わらなかった。
夫はその不思議を口にすることもあったが、彼女に向ける眼差しまで変わることはなかった。
やがて夫も病に倒れた。夜通し看病し、回復を願って祈り続けたが、1873年、最後の家族は静かに息を引き取った。
イザベラは食卓へ歩み寄り、夫がいつも座っていた椅子の背に手を置いた。
「あなた……私を置いていってしまったのね……」
四脚の椅子は今も揃っている。けれど、食事の支度をしても、座るのは彼女一人だけだった。
夫の死後、農場は少しずつ荒れていった。綿花の畝には雑草が入り込み、トウモロコシ畑の手入れも滞り、じゃがいもを植える場所さえ整えていない。
壊れた柵を直す木材は納屋にあるし、屋根の雨漏りにも気づいていた。それでも、道具を手に取る気力が湧かなかった。
以前なら夫と仕事を分担し、収穫の時期を相談しながら忙しく働いていた。
栽培の知識は今でもある。何をすべきか分からないのではない。分かっているのに、始められないのだった。
ある日の昼下がり、近所の農夫クリスが柵越しに声を掛けてきた。
「イザベラ、畑は大丈夫かい? 手が足りないなら、うちの仕事が片づいたときにでも手伝うぞ」
「ありがとう。でも大丈夫よ。今は少し休みたいだけなの」
「そうか……困ったら遠慮するなよ」
気遣いはありがたかった。けれど、クリスには家族も仕事もある。
いつまでも自分のために時間を使わせるわけにはいかない。イザベラは作り笑いで見送ると、また薄暗い家に戻った。
食事は保存してあるパンや残り物で済ませることが増えた。腹が空いているはずなのに、何を作るか考えるのさえ億劫だった。
日が沈めば寝床に入り、朝になれば起きる。それだけで一日が過ぎていく。
ある朝、身支度のため鏡の前に立った彼女は、しばらく自分の顔を見つめた。皺のない頬も、白くならない髪も、夫が若かった頃のままだ。
土地を離れ、名前を変えれば、新しい暮らしを始められるのかもしれない。
今の容姿なら、再婚して家庭を持つことすら不可能ではないだろう。
だが、そんな未来を思い描いても、心は少しも動かなかった。
欲しいのは別の家族ではない。亡くなった三人と、もう一度食卓を囲む時間だった。
「どうして……私だけが残ってしまったのかしら」
いつまでこの姿で生きるのだろう。眠ったまま目を覚まさずに済めば、あの人たちのところへ行けるのだろうか。
そんな考えが浮かぶたび、イザベラは十字架に向き直った。
「神様……私はこれから、どうして生きていけばよいのでしょう……」
答えはなく、窓の外では風が伸び放題の草を揺らしていた。
それから幾日か過ぎた午後のことだった。イザベラは食べかけの皿を片づけようとして、窓の向こうに見知らぬ人影を見つけた。
東洋人らしい若者が、農場と家を交互に眺めている。
まだ少年と呼んでもおかしくないほど若く見えたが、道に迷っているというより、目的の家を確かめているようだった。
イザベラが戸口から出ると、若者は彼女に気づいて顔を上げた。
「こんにちは。人を探しているの?」
「はい、イザベラという女性を探しています」
「あら、イザベラは私よ」
「やっぱりあなたでしたかぁ」
若者は安心したように微笑んだ。その言い方が少し気になったが、イザベラは先を促した。
「それで、私に何か御用で?」
「私は伊奈久遠といいます。こちらで人手が足りないと聞いて、ここに住み込みで働かせてください」
「え? でも、うちでは大して給料を出せないわ」
「大丈夫ですよ。ご飯だけでも食べさせていただけるなら」
「ご飯だけ?」
「はい。あと、寝る場所も貸していただけたら助かるんですけどねぇ」
あまりに気軽な申し出で、かえって疑わしく思えた。農場の荒れ具合は一目で分かる。働き口を探すなら、もっと条件のよい家があるはずだった。
「どうしてうちなの? ほかにも農場はあるでしょう?」
「住み込みで働けるところを探していたんです。私は農作業が好きですし、ここなら人手も必要そうだから」
「経験はあるの?」
「ありますよ。ただ、こちらの作物には慣れていないものもあるので、教えてくれると嬉しいなぁ」
ふざけている様子はない。久遠と名乗った若者は、荒れた畑にも古い家にも嫌な顔をせず、彼女の返事を待っている。
見知らぬ男性を家に置くことへの不安はあった。けれど、誰かとこんなに言葉を交わしたのは久しぶりだった。
近所の人々が訪ねてきても、やがて皆それぞれの家へ帰っていく。この若者が働いてくれれば、少なくとも朝と夕方には誰かの声がするだろう。
イザベラは迷った末、ひとまず期限を決めることにした。
「それなら……まずは一週間だけ、働いてもらおうかしら」
「本当ですか?」
「ええ。見てのとおり、畑も家もこんな状態よ。あなたに合わなければ、無理に続けなくていいわ」
「ありがとう。少しずつ直していけばいいんだし、私は大丈夫だよ」
久遠は嬉しそうに笑った。給料の見込みもない仕事を喜ぶ理由は分からなかったが、イザベラは家の中へ案内することにした。
廊下を進み、空いている部屋の扉に手を掛ける。そこで彼女の足が止まった。
亡くなった息子の部屋だった。室内には今も使っていた頃の品が残されている。
扉を開ければ、もう帰らない息子が本当にいないのだと、突きつけられる気がした。
「イザベラ?」
「あ……ごめんなさい。ここは、ちょっと……」
言葉に詰まる彼女を見ても、久遠は理由を尋ねなかった。
「ほかの部屋でも大丈夫だよ。物置だって、寝られれば十分だからね」
「物置なんて駄目よ。客間があるから、そちらを使ってちょうだい」
案内された部屋に久遠は小さな荷物を置き、窓から外を眺めた。
「うん、いい部屋だね。ありがとう」
「それじゃあ、少し休んでいて。夕食になったら呼ぶわ」
「ありがとう、イザベラ。これからよろしくね」
「ええ。こちらこそ、よろしくね。久遠」
久しぶりに、挨拶を返しながら自然と笑みがこぼれた。
台所へ戻ると、イザベラは棚の中を確かめた。パンは残っているが、それだけでは若い男の人には足りないだろう。
肉を少し焼こうか。野菜も煮込めば、温かい夕食になる。
食材を取り出しているうちに、ふと手が止まった。誰かが食べるものを考えて台所に立つのは、いつ以来だろう。
夫と息子たちがいた頃は、ごく当たり前にしていたことだった。今夜、彼らが戻ってくるわけではない。
それでも、この家にもう一人、食卓を囲む相手ができた。
イザベラは食器棚から皿を一枚取り、いつもの席に置いた。それからもう一枚を取り出し、向かい側に並べる。
「……そうね。今日は二人分、作らないとね」
失ったものが戻ったわけではない。明日のことを考えれば、まだ心は重かった。
それでも彼女は、冷めた残り物ではなく、誰かと一緒に食べるための夕食を作り始めた。




