2.
プライベートで特段親しい友人がいるわけでもなく、アクティヴな趣味を持っているわけでもない。
……要は、そんな私には、時間なら有る、ということ。
そして、連休初日のこの日、私は、いつもなら家でだらだらしている時間を、別のことに使おうとしていた。
開店は十九時から。既に少し過ぎている。割とラフな格好も許される職場へ向かうよりも、多少フォーマルな服装での出陣。とはいえ、せいぜいスマートカジュアルといったレベルだけど、久しぶりに袖を通したジャケットは私の背筋をぴんと伸ばしてくれている気がする。
背筋が伸びる気がするのは、初めての場所への緊張感もあるのだろう。自分は“異物”なのではないか、という不安も無いではない。ただ、ちょっとした昂揚感みたいなものも感じている。期待……があるのだろうか? それよりは、純粋な好奇心の方が強い気がする。
そんな気持ちで階段を降りた先には、重厚感のある黒い扉が待ち受けていた。『営業中』の側に掲示されている注意書きも確認。ふう、と一息ついてから、見た目ほどには重くない扉を押し開けた。
天井は高く、照明は少し落とされているが十分明るいといえる。落ち着いた感じのBGMも、よく聞けばジャズやクラシックではなく、耳にしたことのあるJ-POPのインストゥルメンタルだ。昼間はカフェとして営業している店舗ということもあるのだろうか、店内は想像していた『バー』とは全然違う、開放的でカジュアルな印象だった。
今はブラインドが降りているが、道路側の壁の高い位置に窓が並んでいる。半地下、というやつだろうか。まだ開店から一時間も経っていないが、席の半分近くが埋まっている。“当然”全員が女性だ。
そんな風に店内を見回していると、控えていた店員さんが近づいてきて声を掛けてくれた。
「あのっ、初めましてっ、じゃなっ、いらっしゃいませ! 初めてのご来店ですかっ? ご、御一名様ですかっ!?」
その声は少し早口で、少し上擦っていて、私の中にあったそれを忘れさせるほどの、彼女の強い緊張感や昂揚感がひしひしと伝わってくる。
そんな様子からふいに連想されたのは、必死に餌を頬張るハムスタ。
――かわいいな。
私より十センチほどは小柄で、健康的な肉付き。おそらくは二十代前半から半ばくらいだろうけど、まだ十代と言っても通用しそうな雰囲気がある。そんな彼女の、一生懸命な感じのする振る舞いが、私にそんなことを思わせた。
案内されたカウンタ席に着き、ジントニックとミニサンドを注文したタイミングで、隣の女性二人組に声を掛けられた。たぶん、私がこういう場所は初めてだと店員さんに伝えたのを耳に挟んで、私を気遣ってくれたのだろう。最初こそ、場所が場所なので少し身構えてしまったけど、話してみれば、二人ともとても人当たりが良かった。聞けば、彼女たちは付き合っているカップルだという。
新たな出会いを求める女性たちばかりが集まる場所だと思っていた、そう包み隠さず伝えると、そういった側面ももちろん無いわけじゃない、という答えが返ってきた。だけど、それだけでもない、とも。
一般には『レズビアンバー』と呼ばれていても、そこを訪れるのはレズビアンに限らない。それは私も事前に調べて知っていたし、だからこそこうして訪れてみようという気にもなったのだけど、それでも心のどこかに、肉食獣の檻に自ら飛び込むウサギのようなものではないか、という不安が全く無かったと言ったら嘘になる。そんな内心をやんわりと伝えると、少なくともこの店ではそういった心配はまず無い、と教えてくれた。
店員さんたちが気を配ってくれていることもさることながら、この店の“特別に過ぎない雰囲気”がそうさせているのではないか、というのが彼女たちの意見だった。そしてその、私が第一印象で“カジュアル”だと感じたこの店の雰囲気が、彼女たちにとっては、とても安らぐものなのだという。
どれだけ世の中が理解する風を装っても、彼女たちの立場は、周囲に気を張り、気を遣わざるを得ない(少なくとも彼女たちの“体感”では)。その点、理解者の集まる特別な場所では気は休まるが、その場が“特別”であることに、寂しさのような気持ちを覚えることがある。
――この店の“特別だけど特別すぎない”空気は、より自然な自分たちのままで過ごすことを許してくれる。だから、好んでこの場を訪れるのだ。
そんな思いを口にした彼女たちに、ありがとうございます、と微笑んでから、バーテンダさんが私に注文の品を提供した。彼女が私に、ごゆっくり、と告げて下がったタイミングで、隣のカップルも、あなたも楽しんでね、と話を切り上げる。
私には、彼女たちが感じているであろう“生きづらさ”のようなものは、きっと、ちゃんとは理解できないのだろうな――お酒と軽食を楽しみながら、ぼんやりとそう思った。別に、確たる根拠があってのことじゃなくて、ただ漠然と、そう感じられただけ。
あるいは、私も実際に女性を好きになれば、自ずと理解せざるを得ないものなのだろうか。だけど、そうなる未来を考えてみても、上手く想像できない。それが、そういう経験が無いからなのか、そもそもそういう資質が無いからなのか、やはり考えてみただけで解るものではない。
ただ――少しずつお互いの方へ身体を傾けて、静かに穏やかに語り合うカップルの姿は、なんか良いな、と思う。
自分が誰かとそうなりたい、というわけじゃない。恋をしていること、その感情を知っていることを、羨むわけでもない。……たぶん、今の彼女たちの親密な雰囲気を、彼女たち自身が「より自然な自分たち」と口にできる、その“強さ”というか、“矜持”のようなものを、私が二人の姿から感じていて、それが、良いな、という言葉で表現された、……のではないか、という気はする。だけど、そうやって理屈で説明しようとすると、少し核心からズレていくような気もして、それはなんだか“無粋”というものなのではないか、なんて思ったりもする。
なんだろう、きっと、“絵になる”というやつなのだ。それを、彼女たちのことを深く知っているわけではない私が言葉にしようとするから、齟齬が生まれる。それは、素人が芸術を論評しようとする野暮、のようなものなのだろう。
ジントニックが美味しかったので、追加でギムレットをドライフルーツ盛りといっしょに注文した。
待つ間、チェイサとして提供されたレモン水を口に含みつつ、軽く周囲を眺めてみたり、聞こえてくる声を聞くともなしに聞いていた。隣のカップルほど親密な雰囲気の客はいないが、全体的に気安い雰囲気があるように感じられる。それは、馴れ馴れしい、というわけではなく、きちんとした節度の内にある親しさのようなものだ。
私が席について以降も何度か入り口は開閉していたし、「相席」という言葉も聞こえたので、みんながみんな友人ということはないのだろう。顔見知り程度ではあるのかもしれないが、あるいは、先ほどのカップルの言葉を借りれば「より自然な自分」でいることを許される安心感、それを共有できるからこその気安さなのかもしれない。
そんな空気の中で、やっぱり私は異質なのだろうか? なんて思ってしまう。なにせ、店員さんを除けば、最初に話しかけてくれた二人の他には誰も私に声を掛けてくる様子が無い。
別に、ナンパされることを目的にこの店を訪れたわけではないので、声を掛けられないこと自体は構わない。だけど、もし皆が私に“その気”が無いことを見抜いて声を掛けないのなら、異質な私が居ることを迷惑に思われないだろうか、とか、そもそも私が単に声を掛けづらいと思わせるような人間なのだろうか、とか、ネガティヴな考えも浮かんでしまう。
ここにいる人たちの雰囲気を見れば、私が迷惑に思われるかも、というのは杞憂なのだろうとは思える。ただ、私に声を掛けづらいのでは、という疑念は、職場でも気さくに話しかけられるようなことが“あまり”無い(そう、決してゼロではない)ので、信憑性が高いように思えてしまう。
そんな事を考えてちょっぴりへこんでいると、ひとりの店員さんがわざわざカウンタを迂回して私の注文を届けてくれた。入店時に私に対応してくれた子だ。
彼女は、少し“しかつめらしい”表情で私の前にカクテルとつまみを並べると、意を決したように口を開く。
「あのっ! お隣に座らせていただいても宜しいですか!?」
その、彼女の、気迫さえ感じさせる真剣さを前に、私は断る言葉を持たなかった。




