第8話 初仕事
今日から早速、能力統括機構での仕事が始まった。
割り当てられたデスクで、職員から書類の仕分けやシステムへの入力方法など、基本業務の説明を受けていると、不意にバタバタと騒がしい足音が近付いてきた。
顔を上げると、颯斗の幼馴染である尚人が、髪を少し乱して部屋に駆け込んできたところだった。
彼も、ここでバイトしているらしい。
「あ、悪い、ちょっとそこ失礼!」
尚人は悠に気安く手を振ると、壁際の備品棚をガラリと開けて、中を熱心に覗き込んだ。だが、数秒もしないうちに「あれ……?」と首を傾げる。
「おかしいな。予備のモニターがないぞ……」
困り果てた顔で呟く尚人。
けれど、悠の位置からは、その棚の上段に梱包された液晶モニターの端がしっかりと見えていた。
ほぼ、尚人の目の前と言っていい位置だ。
悠はそっと席を立ち、棚を指差した。
「尚人さん、それ……これじゃないですか?」
「お! 本当だ! あったあった、誰だよ。こんなわかりにくいとこに入れるなよな」
尚人はパッと顔を輝かせ、嬉しそうにモニターを抱えてそのままバタバタと部屋を飛び出していった。
疾風のように去っていった尚人の背中を見送りながら、悠はふっと口元を緩める。
困っていた彼を手助けできたことが、ほんの少し嬉しかった。
この場所で、自分にも何かできる気がした。
どうやら当面の間は、こうした機構内の雑用や、各部署への手配といった細々とした業務を任されることになるらしい。
デスクに戻り、画面の端を指先でトントンと叩く。
「マザー、俺、頑張るよ」
傍らのフェザーから、いつもの優しい声が滑り込んできた。
『ええ。その意気です、悠。あなたならきっと、すぐに立派にこなせるようになりますよ』
その言葉通り、実務で分からないことがあっても、マザーが手元の端末に即座に手順を表示してくれるため悠はすぐに業務に馴染んでいくことができた。
「悠くん、ちょっといいかな」
午後、先輩の職員から一つの小さなアタッシュケースを差し出された。
「これ、隣の区画の出張所まで急ぎで届けてほしいんだ。そんなに遠くないからさ。もし道が分からなければ、マザーに聞いてくれ」
「分かりました、行ってきます」
ずっしりとした重みのあるケースを受け取り、悠は外へと出た。
「マザー、配送先の場所、わかる?」
『もちろんです、悠。最短かつ最も混雑の少ないルートを割り出しました。早速案内しますね』
「うん、お願い」
マザーのナビゲーションに従って、綺麗に区画整理された舗装路を歩いていく。
風が心地よく通り抜ける中、ふと、前方のバスの停留所に、一人の少年がポツンと佇んでいるのが目に入った。
――あの子は。
なんとなく気になって足を止めると、マザーの音声が囁いた。
『――先日、悠さんが街角で出会った少年ですね。』
その時、少年がふと顔を上げた。悠と視線がぶつかる。少年は驚いたように少し目を見開き、やがて悠のことを思い出したのか、小さく頭を下げた。
悠はバス停へ歩み寄り、少年に目線を合わせてゆっくりと腰を落とした。
「この間の……受験生の子だよね。あの時、怪我はなかった?」
「はい、大丈夫です」
「そっか。来月受験って言ってたから、怪我してないといいなと思ってたんだ。なんともなくて良かったよ」
「ありがとうございます……」
少年は小さく微笑んだ。けれど、その表情は先日母親と並んで歩いていた時とはどこか違い、ひどく暗く沈んでいるように見えた。
しばらくの間、二人の間に吹き抜ける風の音だけが流れた。
少年は抱えたカバンのストラップをぎちぎちと強く握り締め、地面を見つめたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……もし、落ちたら、どうなるんですかね」
「え?」
「マザーのプログラム通りにやってるのに、もし、試験に落ちちゃったら……。僕は、どうなっちゃうんだろう」
記憶を持たない悠には、受験の重みも、この街のシステムが持つ本当の意味も正確には分からない。
けれど、目の前にいる小さな肩が微かに震えていることだけは、ハッキリと分かった。
「……そっか。試験のこと、不安なんだね。でもマザーがいれば大丈夫だよ」
悠は、できるだけ声を柔らかくして言った。
少年が不思議そうに顔を上げる。
「実はね、俺は記憶喪失なんだ。自分が誰なのかも、どこから来たのかも何も分からない。それでも、こうして周りの人に助けられて、なんとかやっていけてる。この街にはマザーもいるしね。だから……きっと、大丈夫だよ」
少年は、悠の言葉を咀嚼するようにしばらくじっと見つめていた。
だが、その瞳の奥にある怯えが、完全に消え去ることはなかった。
「そう……ですね」
少年は短く呟いた。
「あ、これに乗らなきゃ」
タイミングを合わせたように、バスが滑り込んできて、プシューと音を立ててドアが開いた。
少年は吸い込まれるように車内へと乗り込み、そのまま奥の席へと進んでいく。
一度も、悠の方を振り返ることはなかった。
ドアが閉まり、滑らかにバスが加速していく。
窓ガラスの向こうに消えていく少年の表情は、もう読み取れなかった。
悠は一人、静まり返ったバス停に取り残された。
胸の奥に、冷たいトゲのような何かが引っかかったまま。
少年を乗せた白い車体が、すべてが整えられた街の景色の中へと音もなく溶けて消えていくのを、悠はただしばらく見つめていた。




