第5話 管理された街
カーテンが自動で開く音で目が覚めた。
『おはようございます、悠』
「おはようマザー」
『本日の気温は二十三度。晴れのち曇り。栄養バランスを考慮し、早めの朝食を推奨します』
悠はベッドに横たわったまま、小型浮遊端末に向けて少しだけ目を細めた。毎朝、狂いなく響くこの声で目が覚める。
記憶を失ってから数日。
颯斗さんたちの宿舎で与えられた自分の部屋は、静かすぎるくらいだったけれど。そのルーティンは、すでに悠の日常に溶け込んでいた。
「……わかった。」
『昨日より睡眠時間が三十分長くなりました。バイタルも安定しています。非常に良い傾向です』
「ありがとう」
ベッドからおりて、窓の外を見上げると澄み渡る青空が見えた。
「良い天気だねマザー。」
『本当ですね』
「こういう朝は気持ちいいね」
『今日もいい日だといいですね』
「うん、マザーもね」
悠は部屋を出てリビングに向かった。
ドアを開けると、そこはすでにいつもの賑やかな騒がしさに満ちていた。
「やばいやばい、遅刻するってば!」
彩乃が片手にトーストを咥えたまま、廊下をドタバタと走り抜けていく。
跳ねた髪は半分しか結べていない。
「毎日同じことで慌ててるな、お前は」
颯斗がリビングのカウンターでコーヒーをすすりながら、眉一つ動かさずに言った。
「あ、悠! おはよう! ごめん、今日ちょっと急いでて!」
すれ違いざま、彩乃が笑顔で手を振っていく。
「おはようございます、彩乃さん」
悠が声をかけると、カウンターの颯斗もこちらを振り返った。
「悠、起きたか。おはよう」
「おはようございます、颯斗さん」
「俺は今日、休みたい……」
こたつで泥のように身を沈めている蒼紫が、うわ言のように呟く。
「蒼紫さん、おはようございます」
「ん……悠……おはよう……。今日も世界が平和でありますように……」
「お前は毎日それ言ってるだろ」
颯斗が呆れたようにツッコミを入れる。
「毎日、本気でそう願ってるからね」
「出動したくないだけだろ」
そんなやり取りを聞きながら、悠は自分の朝食を用意した。
昨日も、一昨日も、似たような朝だった。
けれど、なぜか不思議と飽きることがなかった。
『颯斗さん、本日は大学はなく、戦術訓練は午後からです。遅れないように』
「わかってる」
『彩乃さん、現在の移動速度だと朝の講習に三分遅刻します。駆け足を推奨します』
「もう走ってるよ!」
『蒼紫さん。心拍数が低下しています。体調不良ですか?』
「……ただの五月病。五月じゃないけど」
「ふふっ」
思わず小さな笑みがこぼれ、悠は静かに朝食を口に運んだ。
その日の午前中、悠は颯斗に連れられ、街の案内を兼ねた散策に出た。
交差点に立つと、巨大なホログラム案内板がマザーの声で滑らかに喋りかけてくる。
目の前を歩く人々は、財布どころかスマホすら取り出さない。
自販機でジュースを買うのも、ショップで買い物をするのも、端末の前に一瞬立つだけ。
うなじに埋め込まれたチップが自動で認証し、一瞬で決済が終わっていく。
さらに驚いたのは、歩道で躓きそうになったお年寄りがいた瞬間だった。
転ぶより早く、近くの街頭案内端末から『足元にご注意ください』とマザーの声が響き、同時に街路のお掃除ロボットがお年寄りを支える。
信号待ちをすれば悠たちの歩調や混雑状況に合わせて信号の変化が変わる。
知識も、案内も、安全管理も。
マザーはこの街のすべてを把握し、先回りして手回しをしてくれていた。
「すごいな……マザーは、ここまで何でもしてくれるんだ」
思わず口から漏れた感嘆に、隣を歩く颯斗はどこか冷めた様子で「まあな」と短く返した。
マザーのおかげで人混みを掻き分ける必要もない。
淡々と歩きながら颯斗が続ける。
「大抵のことはマザーが教えてくれるし、トラブルが起きても警察より早くドローンが飛んでくる。腹が減れば栄養バランスを計算したメニューを提案してくれるし、体調が悪くなれば病院の予約まで入る」
「……至れり尽くせりだね」
「そうだな。頭を使う必要も、迷う必要もない」
淡々と説明する颯斗の声には、それを特別なこととして語っている様子はなかった。
まるで『雨が降れば濡れる』という当たり前の事実を口にしているだけだった。
この街の人々にとって、マザーの恩恵は「ありがたいもの」というより、息をするのと同じ「当たり前のインフラ」なのだろう。
悠は改めて街を見渡した。
交差点の端で、一人の女性が立ち止まっていた。道に迷ったらしい。すると、足元にすっと青い光のラインが浮かび上がる。
『目的地までは、こちらのルートが最短です』
「うん」
女性は何事もなかったように、その道を辿って歩き出した。
困る人がいないわけではない。
困ったままでいる時間が、ほとんどないのだ。
――便利だ。
悠は心から、そう思った。
『悠。この先の交差点は、配送ドローンの通過により混雑が予想されます。一本隣の路地へ迂回することを推奨します』
小型浮遊端末に響く声に、悠は小さく頷いた。
「ありがとう」
『どういたしまして。あなたの快適な移動をサポートできて光栄です』
隣を歩く颯斗が、ふっと小さく吹き出した。
「マザーにお礼を言う奴なんて、初めて見た」
「……言わない方が、おかしい気がする」
颯斗はそれ以上何も言わなかった、けれど、ポケットに手を突っ込んで歩くその横顔は、決して呆れている風ではなかった。
『悠。右前方から自動走行車が接近しています。白線の内側へ下がってくださいね』
「あ、うん」
フェザーからの声に促され、悠が慌てて歩道の白線の内側へ一歩下がると、隣の颯斗が視線を車道に向けたまま呟いた。
「マザーのおかげで、この街の交通事故発生率は数年間『ゼロ』だからな」
颯斗の言葉通り、近づいてきた自動走行車は悠たちの手前で滑らかに減速し、エンジン音すらほとんど立てずに静かに通り過ぎていった。
車内にドライバーの姿はない。自動運転による、完璧な制御。完璧な安全。
「事故が、ゼロ……」
「そうだ。飛び出しも、操作ミスも、マザーの管理下じゃ起こり得ない」
通り過ぎていく車のリアランプを見送りながら、悠は改めてこの、すべてが当たり前のように整っている街を実感していた。
「そろそろいい時間だな。昼飯食ったら、午後の訓練に行くか」
颯斗が時計に視線をやりながら歩調を緩めた、その時だった。
駅前の広場で不意に大きな声が上がった。
「あ、颯斗! ちょうどよかった、頼むから助けてくれぇぇぇ!」
振り返ると、いかにも人の良さそうな丸顔の青年が、両手にコンビニの重そうなレジ袋をいくつもぶら下げて駆け寄ってくるところだった。
額には滝のような汗を浮かべ、完全にキャパシティをオーバーしてパニックになっている。立ち止まった拍子にレジ袋のジュースがカサコソと嫌な音を立て、今にも地面に崩れ落ちそうだ。
どうやら颯斗の知り合いらしく、尚人と呼ばれた青年はなりふり構わず助けを求めてきている。
「尚人。またお前か……。落ち着け、今度は何があった」
「落ち着いてられるかよ! 買い出し頼まれたらこのザマだし、なぜか端末が動かなくなってさ! 挙句の果てに市民IDすら認識されないから、宿舎の鍵も開かなくて部屋に入れないんだよ!」
「一個ずつ言え、ほら袋落とすぞ」
あまりの焦り様に呆れつつも、慣れた手つきで尚人の手からレジ袋をいくつか取り上げてやる颯斗。二人のやり取りからは、昔からの気置けない関係性が察せられた。
悠は困り果てて半泣きになっている尚人を見て、自分の傍らに浮かぶフェザーへ視線をやった。
「あの……これ、機構から借りてる端末なんで。ここからなら、マザーに繋がるんじゃないですか?」
「え……!」
尚人はようやく悠の存在に気づいたようで、目を丸くした後、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、見ない顔だね! 新しい寮生? 俺は倉前尚人。颯斗とは幼馴染なんだ!よろしく!」
「刀根崎悠です。よろしくお願いします」
「悠ね!本当にそれ、俺からでもマザーと繋がるの?」
「たぶん、試してみる価値はあるかと……」
尚人は救いの神を見つけたような目で悠とフェザーを交互に見つめ、身を乗り出してきた。
「じゃあマザー、ちょっと聞いていい?」
『はい。どうしましたか?』
「マザーとの同期がしなくなってさ!決済もできないし、鍵も開かないんだよ!」
『倉前尚人さんですね。本人認証との同期エラーを確認しました。音声および生体情報による本人確認を行います』
「はいはい、俺です」
『本人確認が完了しました。再接続を行います』
一拍置いて、尚人が端末を見る。
『再接続が完了しました』
「お、動いた!」
『居室の電子錠も通常通り利用できます』
「マジで? 助かったー! やっぱマザーいないと無理だわ」
颯斗はため息をつきながらも、尚人の荷物を持ったまま歩き出した。




