第4話 マザーの街
目を覚ましたあの日から、数日が経過した。
必要な検査も一通り終わり、体の傷もだいぶ癒えてきたけれど……それでも、失われた記憶が戻ることはなかった。
思い出だけがすっぽりと抜け落ちているのに、体はお箸の持ち方すら当たり前に覚えている。
それがどこか、他人事のように不思議で仕方がなかった。
けれど、颯斗さんたちは毎日のようにお見舞いに来てくれた。
美味しそうな食べ物を差し入れてくれたり、その日にあった何気ない出来事を教えてくれたり。
そんな温かい優しさに触れるたび、最初はガチガチだった俺の緊張も、少しずつほどけていった。
三人とも大学に通いながら、能力者を管理する『統括機構』で働いているそうだ。
それぞれの能力を生かして人命救助に向かったり、警察と協力して危険な事件の解決に当たったりもするという。
俺と同世代のはずなのに、そんな大きなものを背負って戦っているなんて、純粋にすごいなと思った。
能力者――。
数年前から、突然人々の間に現れ始めた特別な力を持つ存在。
俺が巻き込まれた事故も、初めて能力が発現した人が暴走を起こした結果だったらしい。
そんな折、機構の担当者が再び病室を訪れ、これからの生活について説明してくれた。
なんと、俺を助けてくれた颯斗さんたちの宿舎に同居する許可が降りたという。
自分がこの先どうなってしまうのかという漠然とした不安が消えたこと。そして何より、あの温かい颯斗さんたちと一緒にいられると知って、胸の奥がじんわりと安堵で満たされていくのを感じた。
「……さん」
「とねさ…さん」
「刀根崎さん!」
ハッとする。
刀根崎!そうだ、俺の名前。
声がした扉のほうを見ると、一人の男性が立っていた。
「失礼するよ」
そう言いながら入ってきた男性は、着古した白衣をまとい、腰には工具を収めたケースをぶら下げていた。
年齢は二十代の後半といったところか、颯斗たちより少し年上に見える。
いかにも技術者、といった風貌だった。
男性は病室に入るなり、ベッドに座る悠と手に持った機械の表示をまじまじと観察した。
「へぇ……」
「どなた……ですか?」
悠は、その遠慮のない視線に戸惑いながら尋ねた。
「本当にないんだな。識別チップ」
男は工具ケースを床に置くと、近くの丸椅子を引き寄せてドカリと腰掛けた。その気安すぎる態度には、どこか憎めない愛嬌がある。
「俺は宗像大地。
マザーの通信網の整備をしてる。珍しい人間が運ばれてきたって聞いてな。端末の設定ついでに顔を見にきた」
「珍しい……?」
「ああ。少なくともこの国じゃ、チップのない人間なんて初めて見たよ。普通は生まれた瞬間に、うなじの裏へ埋め込まれるからな」
悠は自分の左手で、うなじの皮膚をそっと触った。滑らかな肌があるだけで、何も埋め込まれてはいない。
それがこの街では『普通ではない』のだと、悠は初めて知った。
「チップがないとぶっちゃけ、かなり不便だぞ」
大地は首の後ろを掻きながら続けた。
「この街じゃ、買い物も、通信も、市民IDの証明も、すべてがチップ連動だ。マザーとのやりとりだってそうだ。それがなきゃ、生きていることすら証明できない」
「そうなんですね……」
「『そうなんですね』じゃないって。一大事だよ」
大地は困ったように苦笑した。だが、その瞳には純粋な好奇心と温かさがあった。
しばらくして、先ほどの機構の職員が戻ってきた。
「身元不明個体への特例措置として、仮設の識別チップを埋め込みますか? 通常、身分を一時的に保証する場合はそうしていますが」
『チップ』『埋め込む』という奇妙な単語が、悠の頭の中で冷たく転がった。
「この国に住むなら普通は入れる。その方が便利だからな。チップがないと決済やら立ち入りやら、かなり制限が入るんだよ」
大地が職員と悠を交互に見ながら言った。
「でも、記憶が戻るまで入れないでおく、って選択肢もある。とりあえずその横に飛んでる小型浮遊端末でも少しは代用できるからな」
「……」
いろいろな情報が一度に入ってきて、考えがまとまらず、返事できずにいると、
『無理に今決めなくてもいいですよ』
マザーがそう言ってくれた。
皆が自分を見つめている。けれど、誰一人として決断を急かしてはこなかった。
「……わからない」
悠は小さく首を振った。
「すみません。今は、まだ、決められない」
「承知しました。保留とします」
職員は感情の欠片も見せず、事務的な手つきでタブレットにペンを走らせると、手早く手続きを終えて、部屋を出て行った。
「じゃ、俺も帰るわ」
宗像は手をひらひらとさせながら出口へと向かっていった。
皆が帰ってガランとなった病室。
ホッとしたと同時に、やけに静かに感じる。
『やっと検査は終わりましたね。体の方はもう大丈夫そうです』
「うん。ありがとう」
『何か気になることや、思い出せそうな感覚はありましたか?』
「……何も」
思わず視線を落とす。頭の中を探ろうとすると、霧がかかったみたいに視界が白くなるだけだった。
「何も……分からないんだ。自分のことなのに」
『不安ですよね。……でも、急に全部思い出そうとしなくて大丈夫です。私で良ければ、いつでも話を聞きますからね』
「……わかった。ありがとう」
◇
宿舎への移動が決まったのは、陽が高く昇った昼過ぎのことだった。
三人がわざわざ迎えにきてくれた。
「身軽でいいよね! 荷物がないって、引っ越しが楽ちんで最高じゃん!」
道中、彩乃が弾むような声で言った。
「お前、それはフォローになってないぞ」
隣を歩く蒼紫が、やれやれと肩をすくめる。
病院の自動扉が開いた瞬間、悠は足を止めた。
眩しい。
思わず目を細める。
窓越しに眺めていた街が、今はすぐ目の前にあった。
頭上を白い配送ドローンが音もなく横切っていく。道路脇では無人車両が人の流れに合わせて速度を落とし、横断歩道へ足を踏み出した途端、信号が悠たちの歩調に合わせるように切り替わった。
「……」
すれ違う人々は迷うことなく歩いていく。
誰かが立ち止まれば案内板が点灯し、道を示す。
幼い子どもが母親の手を離して駆け出せば、頭上の端末からすぐに穏やかな声が降ってきた。
『足元に気をつけてくださいね』
「あ」
悠は空を見上げた。
マザーだ。
横にいるフェザーと、同じ声だった。
けれどここでは、自分だけに話しかけているのではない。
右からも、左からも。
建物からも、端末からも。
街のあちこちで、同じ声が誰かに語りかけている。
『本日も安全で、調和に満ちた一日をお過ごしください』
「どうした、悠」
先を歩いていた颯斗が振り返る。
「……いや」
悠はもう一度、街を見渡した。
「マザーなんだけど、みんなは首のチップから聞こえてるんだよね?」
「ああ。個人に関わることは基本チップだな。決済とか、本人確認とか、個人的な案内とか」
「じゃあ、あれは?」
悠は通りの案内端末に目を向けた。
「ああいうのは公共用。道案内とか、天気とか、誰でも使う情報は街中の端末からでもマザーに聞ける」
悠は改めて街を見渡した。
「行くぞ」
「あ…はい」
悠は三人の後を追った。
まだ、何も知らない。
この街のことも、自分が何者なのかも。
ただ一歩ずつ。悠は自分を呼ぶ三人の後ろを追いかけ、知らない街を踏みしめていった。
『悠さん、退院できててよかったですね』
「そうだな」
悠は歩きながら、ふと空を見上げた。
「……マザーは」
『はい?』
「マザーは、いろんな所にいるんだな」
少しだけ間があった。
『はい。さまざまな場所に、私はいますよ』
「そっか」
悠は少しだけ笑った。
「心強いね。じゃあ、これからもよろしく」
『――はい』
返事は、ほんの少し遅れて返ってきた。
『よろしくお願いします、悠』




