第3話 名前
「あ、そういえば! お腹空いてない?」
彩乃が急にパンッと手を叩いた。
「事故で倒れてたんだから、絶対何か食べた方がいいよ。病院の味気ない栄養パケットじゃなくて、もっと美味しいやつ!」
「彩乃、勝手に病院の飯を否定するな。……まあ、買い物ならマザーにも頼めるが」
颯斗が苦笑しながらマザーに視線を送ると、蒼紫が欠伸混じりに呟いた。
「俺の部屋に、この前もらったりんごがあるぞ。持ってこようか?食べれる?」
「本当!? 蒼紫、たまには良いこと言うじゃん!」
「……すみません、お気遣いいただいて。りんごは好き……だと思います。でも、申し訳なくて……」
「遠慮しなくていいって! 助け合いだから!」
「りんごはわかるんだな」
「はい、赤いやつですよね」
「そうそう!」
彩乃が嬉しそうに笑う。
青年は、自分のために食べ物の話で盛り上がる三人を見て、喉の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
――その時。
パッと自動ドアが横にスライドし、足音が響いた。
入ってきたのは、整ったスーツに身を包んだ、統括機構の職員だった。
青年を一瞥し、手元のタブレットに視線を落としながら、淡々とした声で告げる。
「チップなし。身元不明。能力者の暴走に巻き込まれ、外傷あり――身元照会および保護手続きを開始します」
青年に関する手続きは、どこまでも淡々と進められていく。
「身元および所属が判明するまで、機構の管理下で保護となります」
「保護‥‥」
青年は不安そうに呟いた。
視線がわずかに落ちる。
(どこへ連れて行かれる? そこで何をさせられる?)
自分がどこに所属していたかも分からないまま、言われるがままにするしかなく、管理という名の檻に入れられる恐怖が、胸を満たす。
目の前で事務的に査定され、行き先が事務的に決まっていく。まるで、持ち主の分からない落とし物が倉庫に振り分けられるのと同じだった。
『現在、彼は記憶を失っています。面識のない環境へ移ることは、心理的な負担になる可能性があります』
マザーが、珍しく職員の言葉に割り込むように告げた。
職員がタブレットから顔を上げた。
「ですが、身元が分からない以上、保護施設に入ってもらうことになります。いつまでも病院にいることはできません」
『身元不明者の保護運用規程第12条ですね。理解できます』
マザーの浮遊端末が静かに上下した。
『しかし、一般的な保護施設への一時収容は、現在の彼の心理状態において再パニックを引き起こすリスクがあります。一方で、先ほど接触した伊那瀬隊員らと会話中の心拍数・脳波は、目覚めてから最も安定していました』
職員が怪訝そうに眉をひそめる。
「何が言いたい?」
『公的な保護施設も、颯斗さんたちの寮も、機構の管轄内である点に違いはありませんよね。であれば、すでに彼が心理的な安心感を示している伊那瀬隊員らの宿舎を、一時的な保護先とする方が合理的です』
「俺たちの?」
颯斗が顔を上げる。職員は、視線を颯斗に向けた。
「彼とは知り合いではないんですよね?」
「‥‥知り合いではないですけど……」
職員は面倒そうに息を吐き、タブレットに視線を戻した。
「本来なら規定の施設一択ですが……まあ、マザーの推奨があり、現場の隊員が引き受けると言うなら申請は通せます。ただ、そちらの宿舎に受け入れ可能な空き部屋があるならの話ですが」
『あなたはどうですか?』
不意にマザーに振られた青年はうろたえる。
「いや、あの…俺にはよくわからなくて……でも、ご迷惑じゃないですか?」
青年は保護施設よりも、少しだけ話したこの三人の方が安心できる気がした。けれど、そこまでしてもらうのは悪い気がした。
俯く青年を見て、彩乃がポンと肩に手を置いた。
「迷惑なんて誰も思ってないよ! ね、颯斗、宿舎の部屋は空いてるよね?」
彩乃が颯斗に聞く。
「確かに空いてるが、蒼紫はどうだ?」
「うーん、まぁいいんじゃない」
『身体的には成人と推定されています。同年代の方々と生活する方が、現在の彼には心理的負担も少ないでしょう』
「……同じ機構内であれば、管理上の問題はありません。許可が出るか確認してみましょう」
職員は短い沈黙ののち、タブレットの画面にいくつかの修正コードを打ち込んだ。
「仮登録には名前が必要になります。何か希望はありますか?」
「名前……」
突然振られたその言葉に、青年は戸惑う。
『お名前がないと、これから生活する上で何かと不便ですね』
「名前かぁ……」
彩乃が青年の顔をしばらく眺めて、ポンと手を叩いた。
「うーん、白いから『マシロ』とか……」
「安直すぎるだろ。犬じゃないんだから」
蒼紫が即座に突っ込む。
「じゃあ蒼紫なんか良いアイデアあるの!?」
「ねえよ。本人が思い出すまでの仮だとしても、ちゃんとした名前がいいだろう」
ふたりのやり取りを見つめながら、青年は思わず小さく口元をゆるめた。自分の名前がないという絶望的な事実が、彼らの前では少しだけ軽いものに思えた。
「じゃあさ、『悠』っていうのはどう?」
「……なんでだ」
颯斗が眉をひそめる。
「なんとなく! なんかさ、すごく静かで綺麗だから。遠くまで晴れ渡ってる空、みたいな」
「相変わらず適当だな、お前は」
蒼紫が呆れたように笑う。
「悠」
颯斗がその名を繰り返した。青年の目を真っ直ぐに見つめ、問いかける。
「どう?嫌か?」
青年は、ゆっくりと首を振った。
それが、当分の間の彼の名前になった。
「では、名前は悠さんですね。苗字はどうしますか?」
悠は困ったように、颯斗たちを見た。
「名字か……」
颯斗が少し考えて、言った。
「じゃあ、刀根崎でいいんじゃないか」
「刀根崎?」
「俺の母親の旧姓だ。この街では使われてない名字だからデータベースの重複も起きにくいだろう」
「颯斗の伊那瀬も重複しにくいんじゃない?」
「俺の名字にしたら、余計な誤解されるだろ」
「あー、弟とか?」
「そういうことだ」
悠は、小さくその名を口にした。
「……刀根崎、悠」
まだ、自分の名前だという感じはしない。
それでも、昨日まで何もなかった場所に、自分を示すものがひとつ増えた気がした。
「それで、お願いします」
「承知しました。刀根崎悠さんで仮登録します」
◇
夜になった。
悠は、一人で静まり返った部屋の窓辺に立っていた。
ガラスの向こう、夜の空を、白い配送ドローンが整然とした列をなして回遊している。街の至る所では、ホログラムのマザー案内板が青白く発光していた。はるか遠く、鈍い光を放つのは能力者訓練施設の巨大なシルエットだ。
下を見下ろせば、人々が歩いている。楽しげに笑い合っている。
一見すれば、どこまでも穏やかで、完成された美しい街。
『今日も素晴らしい一日でした。市民の皆様、健やかな夜をお迎えください』
街の隅々にまで、マザーの祝福のような声が満ちていく。
悠は、冷たい窓ガラスにそっと掌を当てた。
自分が何者なのか、どこから来たのか、何一つ分からない。底のない暗闇に取り残されたような恐怖。けれど今夜、自分には眠れる場所がある。自分を呼ぶ声がある。
「怖い…」
掠れた声が漏れた。
窓に触れた指先に、知らず力がこもる。
記憶もない。家族も分からない。
自分が何者なのかさえ分からない。何ひとつ――
考えれば考えるほど、足元がなくなっていくようだった。
『呼吸が浅くなっています、悠』
どこからともなく、静かな声が降ってくる。
宙に浮く小さな端末が、青い微光を放ちながら寄り添うように近づいた。
『大丈夫ですよ。私がここにいます』
「……」
『心拍数の上昇を確認しました。不安を感じているのなら、どんなことでも話してくださいね』
「……俺は俺が何者かわからない」
窓ガラスに映る自分の影を見つめる。白い髪、白い肌。どれも自分という実感が湧かない。
「この先どうなるのか……とてつもなく怖い……」
『はい』
「……何が怖いのかも、自分じゃよく分からないんだ」
『分からなくても大丈夫です。今のあなたに、明確な答えは必要ありません』
マザーの声には、波ひとつ立たない凪のような穏やかさがあった。
『私は、あなたがここに存在していることだけを記録しています。だから、安心して大丈夫ですよ』
「ずっと?」
『ええ、悠が眠るまで』
「……眠ったら?」
悠の指先が、わずかに震えた。
目を閉じたら、今夜生まれたばかりの「自分」さえ、また消えてしまうのではないか――そんな恐怖が胸をかすめる。
『眠っても、あなたのデータはここに残り続けます。そして明日の朝、私がまた一番に『悠』と声をかけます』
悠はしばらく黙っていた。
「……じゃあ、おやすみ」
『はい。おやすみなさい、悠』
その声はどこまでも穏やかだった。
過去を思い出せないことを責めることもなく。
正体を急かすこともなく。
ただ「今、ここにいること」だけを、そのまま受け止めてくれている。
不思議だった。
さっきまで他人事のようだったその名前が、
マザーの声を通して聴くたび、少しずつ自分の体に染み込んでいく気がした。
窓の外では、人工の街が静かに光り続けている。
完璧に管理された世界は、今夜も優しく彼を包み込んでいた。




