第2話 記憶
目を覚ますと、最初に視界に入ったのは、無機質な白い天井だった。
見覚えのない部屋。
「……?」
視線を落とし、シーツの上に投げ出された己の手を見る。――白い。なぜこれほど白いのか、理由すら分からなかった。何も、思い出せなかった。
手を見る限り、男性の手に見える。
自分の手なのにまるで、他人の手を見ている気分になる。
『おはようございます』
どこからともなく、部屋の空気に溶け込むように、声がした。
『お目覚めですか。気分はいかがでしょう。痛みはありませんか?』
声の主を探して視線を巡らせる。
枕元の少し上を、小さな鳥のような機械が羽ばたくこともなく浮遊していた。
声は、そこから聞こえているらしい。
「ここは……」
『――安心してください。あなたは今、完全に安全な場所にいます』
小さな機械が青年に寄ってくる。
『脳波に混乱が見られますね』
「……ここは、どこだ?」
『心配はいりませんよ。ここは統括附属病院です』
「誰だ……?」
『私はマザー。あなたのお名前を聞かせてくれますか?』
「……俺は」
青年がぴたっと止まる。
「え……あれっ」
思い出そうとするのだが、いくら考えても、白いモヤがかかったように出てこない。
「……俺の…名前……?」
深く、考えようとした途端に頭の奥が痛む。
「何が……あった?」
『何も思い出せませんか?』
「……」
『あなたは、能力者の暴走に巻き込まれて倒れていたんですよ』
「能力者の…暴走…?」
『はい、倒れている所を発見されて、ここに運ばれました』
「ちょっ……ちょっと待ってくれ」
事故。暴走。
投げかけられる単語の意味は理解できるのに、どれも自分の記憶としてうまく結びつかない。
思い出そうと頭を働かせようとするが、深いモヤが立ち込めたようになって、何ひとつ手繰り寄せることができなかった。
「……どういう事だ」
『直前の記憶も思い出せないようですね』
青年は額を抑えながら俯く。
「……何が起こった?俺は誰だ?」
まるで引き出しを開けても開けても、何も入ってないような感覚にとらわれる。
『現在、あなたに該当する個人情報を照合していますが、なかなか判明しません』
「判明しないって……どういう事?」
『はい。この街の市民は全てデータベースにあります。けれど、あなたに該当する記録が存在しないのです。現在は、近隣の都市や海外のデータにも問い合わせを広げているところです』
「……記録がない?」
頭の中が混乱を極める。
データがない。記録がない。一つ一つの言葉は理解できるのに、それが自分に何を意味するのか分からない。
「じゃあ……俺は、ここの人間じゃないってことか? 」
『その可能性もあります。ですが、言葉や文化の壁はなく、会話は円滑に成立しています』
「ここは現実にある世界?」
『かなり、混乱されてますね。ここは日本にある大阪という街です』
「大阪……」
街の名前を聞いたことはある気がする。けれどそこに自分がいるということが、ピンとこない。
青年は不安になってきた。
自分で自分がわからず、何が起こったのかもわからず、照合しても出てこないという。
本当に実在しているのかさえわからなくなる。
『少し、落ち着きましょう。ストレス値がかなり、上がっています』
「ふうっ」
息を吐きながらベッドに倒れ込む。
「俺はここでは何者でもない。まるで、幽霊だな‥」
『いいえ』
青年は機械を見つめた。
『あなたは、ここにいます』
「……」
『心拍を確認しています。呼吸もしています。私と会話もしています』
「それは…」
『今は、それで十分ではないでしょうか』
「‥…‥」
『安心してください。あなたは一人ではありません』
そうは言われても、あまりにも実感がわかず、わからないことだらけで頭の混乱が収まらない。
「……何が起きてるんだ」
青年は天井を見つめたまま、浅い呼吸を一つ、繰り返した。
その時、電子ロックが解除され、ドアが勢いよく開いた。
「あ、起きた――!」
飛び込んできたのは、小柄な少女だった。跳ねた髪に、クリッとした大きな瞳。彼女が現れただけで、張り詰めていた部屋の空気が一瞬で反転する。
「良かったぁ! 颯斗、蒼紫、起きたよ!」
「見ればわかる。大声を出すな」
続いて入ってきたのは、背が高く、鋭くも静かな眼差しをした青年――颯斗だった。その背後から、ひどく面倒くさそうな顔をした蒼紫が、頭を掻きながら続く。
「日本語は通じるのか?」
「通じなくてもマザーが翻訳してくれるよ」
「体、どこか痛むか?」
三人がベッドの傍らに立ち、各々話し出す。
青年は答えようと唇を動かした。けれど、喉の奥から言葉が立ち上がってこない。
「俺は伊那瀬颯斗だ、よろしく」
「私は時量彩乃でこっちは‥」
「砺波蒼紫」
「あなたは名前、なんていうの?」
彩乃が身を乗り出して尋ねる。
長い沈黙。
青年はただ、小さく声を絞り出した。
「……わからない」
「家族と連絡ついた? どこから来たの?」
青年は力なく首を振った。
「なにも……わからない」
三人は、一瞬だけ顔を見合わせた。颯斗が青年の白い瞳をじっと見つめ、問いかける。
「事故に巻き込まれたのは覚えてる?」
「……わからないです。目覚めたらここでした」
「その前の記憶も?」
「……何も」
「どこにいたかも?」
青年は少し考えてから、首を振った。
「分からないです」
『どうやら彼は、記憶喪失のようです』
三人が機械を見る。
『名前も事故のことも、何も覚えていないようです』
颯斗は一息つき、深く頷いた。
「何があったんですか?」
「ここは統括附属病院。君が倒れてるのを俺たちがみつけてここまで運んだんだ」
「……あなたたちが?」
「ああ。三人で訓練から戻る途中だった」
青年は三人を順に見た。
不思議な感じだった。目を覚ましてから初めて、自分の知らない時間を知っている人間が目の前にいる。
「……そうなんですね。ありがとうございます」
「いや、俺たちは機構で働いてるから、これも仕事の一つだ」
「でもびっくりしたよ。真っ白な人が倒れてるんだもん」
「お前、最初死んでると思ってたよな」
「言わなくていいでしょ!」
「言ってたじゃん」
青年は、もう一度自分の手を見た。まるで他人の骨組みを見ているかのようだった。自分がいったい何者なのか、その核になるものが、頭の中に生じた深い霧に覆われて見えない。
『彼はIDチップがないようです。データとの照合も試みましたが該当しませんでした』
「チップがない?他所から来たのかな?」
蒼紫が首を傾げる。
「マザーでもわからないってことあるんだねぇ。本当に何も覚えてないの?」
彩乃が不思議そうに青年の顔を覗き込んだ。
「彩乃、近い」
「だって気になるじゃん。自分の歳も?」
「……はい」
「見た目は俺らと同じくらいだよな」
「ちょい年上かもな」
蒼紫が壁にもたれたまま言った。
「目も髪も白いよな。それが探すヒントになるかもな」
青年は反射的に自分の髪へ手をやった。
「……白い?」
「うん。すっごく」
彩乃が笑う。
「でも綺麗だよ」
「お前はそういうことをすぐ言うな」
「いいじゃん、本当なんだから」
自分の白い髪に触れたままの青年を見て、颯斗が穏やかな声で付け加えた。
「珍しい色彩だが、変だという意味じゃない。似合ってると思うぞ」
「そうそう! 綺麗だから、もし街に出たら結構目立つかもね。あ、でも迷子になったらすぐ見つけられそうで助かるかも!」
「迷子前提かよ……」
蒼紫が呆れたように鼻で笑ったが、その目元には柔らかい笑みが浮かんでいた。
青年は、交わされる三人の言葉をじっと聞いていた。
言葉の正確な意味よりも、彼らから伝わってくる『温度』を感じていた。
不安だった心が少し紛れた気がした。少なくとも、嫌な感じはしなかった。




