第21話 一変
「な、なんで……なんでこんなことに……っ」
尚人は、手元のスマホを握りしめたまま、彫刻のように硬直していた。
画面の数字が、常軌を逸したスピードで増え続けている。リポスト、インプレッション、果てのない批判コメントの山。濁流のような拡散は、一秒たりとも止まらない。
自分の何気ない一言が、見たこともない巨大な怪物となって膨れ上がり、社会全体を呑み込んでいく。
悪いことを書いたつもりなんて、本当に、これっぽっちもなかった。
あの夜、みんなで話したことから思ったことを書いただけだ。嘘を書いたわけじゃない。
でも、もう、誰の力でも止められなかった。
リビングの大型モニターでは、連日、ヒステリックなトーンで同じ話題が報道され続けていた。
『――現在、マザーシステムに対する大規模な反対運動が各地で同時多発的に発生しています』
『市民からは不安の声が殺到していますが、果たして、一度埋め込んだチップを取り出すことは可能なのでしょうか? 専門家に話を伺いました』
『――生まれたばかりの乳幼児ならまだしも、ある程度骨格が成長した成人の場合、神経が密集する首の後ろからの外科的摘出は極めてリスクが高いと言わざるを得ません。最悪の場合、全身麻痺を引き起こす可能性があり、実質、現実的ではないでしょう』
『では、チップの一部機能だけを遠隔で停止させることは……』
『それも極めて困難です。理由は大きく二つあります』
モニターに、二つの項目が表示された。
①個々のチップは都市インフラと常時連携しているため、単体停止を前提に設計されていない。
② マザーには、人間の身体に埋め込まれたチップを強制的に停止・書き換える権限が最初から与えられていない。
『――以上の二点です』
画面の隅では、怒りと恐怖に満ちた視聴者コメントが、読む隙もないほどのスピードで絶え間なく流れ続けていた。
『外せない』『止められない』
その二つの言葉だけが、破滅の呪文のように画面上で何度も何度も繰り返されていた。
この報道を境に、街の空気は一変した。
底のない不安に押しつぶされた人々が暴徒化し、駅前の店舗のガラスを叩き割る。各地のサテライトオフィスの前には何千人もの群衆が押し寄せ、地鳴りのような怒鳴り声を上げた。
街のあちこちで、マザーのシステムが発するけたたましい警告音が鳴り響いている。
――けれど。
その警告に従う者は、もうほとんどいなかった。
静まり返った談話室。
ソファに座る颯斗が、尚人をじっと見つめていた。
「尚人。なんで、あんなことを書いた」
「いや、だって……みんなで話してたじゃん。実際、本当のことだろ……っ?」
尚人は必死に弁明するように声を裏返した。
「本当のことなら、何を書いたっていいのか」
颯斗の静かな問いに、尚人は喉を詰まらせた。
「で。今、外がどうなってる」
「それは……俺は、こんな大事になるなんて思ってなくて……っ」
「だろうな。知ってるよ」
颯斗の声は、決して怒鳴っていなかった。どこまでも低く、淡々としていた。それが、尚人の胸に余計に重く、深くのしかかる。
「……っ」
尚人はガタガタと震える手で頭を抱えた。
「……じゃあ、俺が間違ってたのかよ。本当のこと言った俺が、全部悪いって言うのかよ」
「知らん。お前が正しいかどうかなんて俺には関係ない。ただ、自分の投げた言葉の重さから逃げようとするな。こうなったのは、動かせない事実だ」
部屋の空気が、完全に凍りついた。誰も何も言えなかった。
『尚人さん、そんなつもりじゃ――』
「マザー、ストップだ」
颯斗が、マザーの言葉を鋭く遮った。
尚人はもう、二人を見ることもできず、液晶画面の中で増え続ける数字をただ見つめていた。
その時、リビングのモニターの画面が、強制的に緊急生中継へと切り替わった。
画面に映し出されたのは、大阪湾に浮かぶ人工島――「夢洲」のサテライト施設の映像だった。そこにも狂乱した群衆が押し寄せ、過激な言葉の書かれたプラカードと怒号が飛び交っている。カメラのレンズは、避難する人々の混乱で激しく揺れていた。
『――現在、夢洲サテライト前では、市民による過去最大規模のデモが……。あ、お待ちください! 現場の上空に、何か……!』
アナウンサーの悲鳴のような声が響く。
カメラが急激に上空へと振り仰がれた。
画面の奥。夢洲の中央にそびえ立つ基幹施設の方向から、黒い「何か」が、無数に飛来してくるのが見えた。
一つや二つではない。
空を黒く塗りつぶすほどの、夥しい数の影が、まるで歪んだ意思を持った鳥の群れのように――。
『――何かが、こちらへ向かって飛んで――引き返してくださ――うわあああああッ!!』
アナウンサーの絶叫が響いた直後。
バリバリッ、という耳を刺す激しいノイズと共に、モニターの画面が一瞬でザラザラとした灰色の砂嵐へと変わった。
談話室の全員が、その砂嵐を呆然と見つめていた。
誰も、動けなかった。呼吸の音さえ、部屋から消え失せていた。
『――悠』
フェザーから、マザーの声が響いた。
それは、いつもの優しい声よりも、ほんの少しだけ低く、冷たく、静かだった。
『夢洲基幹セクターにて、致命的な暴走を検知しました。……いよいよ、始まります』




