第18話 感情の行方
休日の午後。
颯斗は商業施設の二階、吹き抜けの階段を上がった先の壁際に立っていた。
待ち合わせをしている尚人は、まだ来ない。
端末で時刻を確認したちょうどその時、階下のエスカレーター付近に見慣れた姿が現れた。
尚人だ。
「颯斗ー!」
こちらに気づいた尚人が、無邪気に片手を上げる。
そのまま階段を駆け上がってくる――が、二階へと続く通路の途中で、ピタリと足を止めた。
踊り場付近に、四人組の若者がたまっている。
通路いっぱいに横に広がり、大声でスマホの画面を見ながら楽しそうに話し込んでいた。
尚人が、その後ろでピタリと動きを止める。
「…………」
声はかけない。
ただ、心底嫌そうな顔をして、無言で前の四人の背中をじっと睨みつけているだけだった。
背中からの視線ビームで気づかせようとしているのだろうが、若者たちが振り返る気配は一切ない。
(……声をかければ一秒で済むだろ)
上で見下ろしていた颯斗は、深く溜息をついた。
『――すみません』
端末から漏れたその声に、話し込んでいた四人がハッと振り返る。
『後ろの方が通れずに困っておられます。通路を少し空けていただけますか?』
「あ、すみません!」
四人のうち一人が尚人の視線と存在に気づき、慌てて身体を壁際にずらした。
それにつられるように、残りの三人も「気付かなかった」と苦笑いしながら左右へ寄っていく。
尚人は道を空けてもらって当然という顔で、そのまま前へ進んだ。
「……チッ」
と小さく舌打ちすると、十分すぎるほど開いた隙間があるにもかかわらず、あえて真っ直ぐに歩き、すれ違いざまに自分の肩を相手の肩へぶつけるようにして通り抜けた。
「……あ?」
四人のうち一人が、「なんだあいつ」と言いたげに怪訝な顔で尚人の背中を振り返った。ピリついた空気が一瞬だけ漂う。
けれど尚人はそれに一切気づく様子もなく、何事もなかったかのような、すまし顔で階段を上がってくる。
「悪い、待った?」
「……いや」
颯斗は短く答えた。
それから、階下で再び何事もなかったように会話を再開している四人組を、ちらりと見下ろした。
「……お前さ」
「ん?」
尚人が無邪気に首を傾げた瞬間、胸元の端末からマザーのいつも通りの穏やかな声が流れた。
『無事に通れてよかったですね、尚人さん』
「ほんとだよ。マジで邪魔なんだよな、ああいう奴ら。通路の真ん中で溜まるなよって感じ」
『ええ。通路を塞がれて、お困りでしたものね』
「そうそう!本当そうなんだよ!」
言葉を肯定と受け取ったのか、尚人は満足げに深く頷いた。
颯斗はそのやり取りを無言で見つめていた。
「そういやさ、聞いてくれよ。今日、朝からめっちゃ腹立つことあってさ」
「……何」
「ゼミの奴」
またか、と颯斗は思ったが、口には出さなかった。
「俺がちょっとレポートの提出遅れただけなのにさ、『毎回こっちがフォローするの疲れるんだけど』とか言ってきたんだよ。もっと言い方ってものがあるだろ?」
「……提出、遅れたのか」
「そこじゃないんだって!」
尚人は露骨に不快感を露わにし、大袈裟に顔をしかめた。
「遅れたのは確かに俺も悪かったよ? でもさ、あんな不機嫌な言い方されたら誰だって腹立つだろ。おかげで朝からずっと気分悪いんだよ」
『それはとても嫌な思いをされましたね、尚人さん』
端末から、母親のように包み込むマザーの優しい声が漏れ出る。
尚人の険しかった表情が、パッと満足げに緩んだ。
「だろ? マザーだけだよ、ちゃんと分かってくれるの」
『攻撃的な言葉を向けられれば、心が不快感を抱くのはごく自然な心理的反応です』
「そうそう! まさにそれ!」
歩いていた颯斗が、ふと足を止めた。
「……なあ、尚人」
「ん?」
「……お前の機嫌は誰が決めてんの?」
「は? 誰って……あいつがムカつくこと言ってきたからだろ?」
「向こうの言い方にも、悪いところはあるかもしれない」
「だろ!?」
「でも、そいつ、今ここにいないだろ」
「だから何?」
「……お前の機嫌は相手の対応で決まるのか?」
「……は?」
尚人が怪訝そうに眉を寄せた。
「いや、意味分かんねぇよ。怒らせてきたのは向こうだろ?」
『尚人さんが不快感を継続されている原因は、相手方の不適切な発言に起因するものと推論されます』
「ほら見ろ! マザーだってそう言ってるじゃん!」
尚人が勝ち誇ったように、胸を張って颯斗を見る。
颯斗はゆっくりと視線を落とし、尚人の端末を見つめた。
「……マザー」
『はい、颯斗さん』
「原因の話をしてるんじゃない」
『では、何についての議題でしょうか』
「…………」
颯斗は再び、目の前の尚人を真っ直ぐに見つめた。
「……いつまで、そいつにお前の機嫌の『決定権』を握らせてんの?」
「…………?」
またしても、尚人の頭の上に巨大な疑問符が浮かんだ。
「俺が握らせてるわけじゃないだろ。あいつがムカつくこと言ってきたから、俺は不機嫌なんだって。原因と結果だろ?」
「……そうか」
「そうだよ」
尚人は自分が正しいと完璧に納得したように、力強く頷いた。
『尚人さん。気分転換として、現在地から徒歩三分のカフェを提案いたします。糖分を摂取することで、脳内のストレスホルモンが軽減される可能性があります』
「お、いいじゃん! 行こうぜ、颯斗」
「……違う店はないのか」
「なんでだよ。マザーおすすめの限定メニューあるらしいし、いいから付き合えって」
尚人はすっかり機嫌を取り戻したように、スタスタと先に立って歩き出した。
颯斗は、その背中をじっと見つめたまま、一歩も動かない。
マザーは、尚人を責めない。
傷ついた気持ちを受け止め、気分転換の方法まで提案してくれる。
どこまでも親切で優しいシステムだ。
――だからこそ、だ。
「……違うんだよな」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟き、颯斗は重い足取りで尚人の背中を追いかけた。




