第17話 戻って
街の喧騒から遠く離れた、廃ビルの屋上。
冷たい風が吹き抜ける縁に、ひとりの少年が立っていた。
数日前、能力の制御を失い、意図せず街の設備を壊してしまった少年だ。
ニュースでは「危険な能力者」「野放しにされた脅威」と連日報道され、SNSには少年を罵倒し排除を叫ぶ言葉が溢れかえっていた。
誰も味方がいない。誰も自分の本当の恐怖を分かってくれない。
世界のすべてから拒絶された少年の背中は、今にも冷たい風に吹き飛ばされそうに揺れている。
『――彩乃さん。対象者の精神状態が極めて危険な領域に達しています。即座の自傷・飛び降り行動の確率が八十%を超えました。現在地から最も近いのは貴女です』
「分かってる……っ!」
彩乃は息を乱しながら、薄暗い非常階段を駆け上がっていた。
手すりを掴む指に力がこもる。
(待ってて……! お願いだから、間に合って……!!)
誰よりも自分が一番怖かったはずなのに。
勝手な言葉で傷つけ、追い詰めた世間への憤りと、目の前で失われようとしている命への切実な祈りを胸に、彩乃は屋上へと続く重い扉を全力で押し開けた。
屋上の重い鉄扉を蹴開けると、縁に立つ少年がガバッと振り返った。
その瞳には、すでに光がなかった。
「来ないで……!」
「待って! 早まらないで!」
「無理だよ……! だってみんな、俺を怖がってる! 悪者扱いするんだ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした少年が、絞り出すように叫ぶ。
「もう疲れたんだよ……っ! ニュースも見ただろ!? 俺みたいなのがいなくなった方が、みんな安心するんだろ!?」
悲痛な叫びが、冷たい上空の風に吸い込まれていく。
「そんなことない! 私は――」
「嘘だ!!」
少年が悲鳴のように叫んだ、その瞬間。
「あ――」
風に煽られ、大きくバランスを崩した身体が、そのまま浮遊感を伴って真っ逆さまに宙へ投げ出される。
引きちぎられるように離れていく少年の手と、恐怖に引きつる顔。
「――っ!!」
彩乃は思考より先に駆け出していた。
コンクリートの縁から身を乗り出し、叫ぶ。
『止まれ――っ!!』
――キィン……。
世界のすべてから音が消え去った。
風の揺らめきも、街の喧騒も、一瞬で色を失っていく。
宙へと投げ出された少年と、共に落ちていたコンクリートの瓦礫が灰色に染まり、まるで時間が凍りついたかのように空中で完全に静止した。
彩乃の能力、【時間停止】。
だが――次の瞬間、彩乃は息を呑んだ。
少年はすでに屋上の縁から数メートル下、宙に投げ出された姿勢のまま固まっている。
ビルと少年の間には、もう手の届かない空間が広がっていた。
届かない。手も、足も、何ひとつ届かない。
時間を止めても、重力を無視して空中を歩いていくことなんてできない。
ここで私の限界がくれば、時間が再び動き出し、彼はそのまま地面へ激突する。
「嫌……嫌だ……っ!」
ただ時間を止めるだけじゃ、救えない。
色彩を失った静寂の世界の中で、彩乃は泣きそうになりながら、届くはずのない空へ向かって必死に手を伸ばした。
「戻って……」
手を伸ばす。
届かない。
「お願い……」
いつもそうだった。
あと五分。
あと一分。
ちょっと待って。
すぐ行くから。
いつだって、時間なんて止められると思っていた。
本当に止められるようになってからも。
でも――
止めるだけじゃ、間に合わない。
「戻ってよ……!」
初めてだった。
彩乃が時間に願ったのは、止まって、ではなかった。
「戻って――――――!!」
――カチ。
脳裏の奥底で、重く不快な耳鳴りが弾けた。
視界がグニャリと歪み、失われていた世界の色彩が濁流のように猛烈な勢いで逆流していく。
「――え?」
彩乃がハッと目を開けた時。
静寂に包まれていた世界に、一気に冷たい風の音が戻っていた。
目の前には、屋上の縁に立ち、「嘘だ!!」と叫ぼうとして口を開かけたままの少年の姿。
落ちていない。
彼はまだ、バランスを崩して宙へ投げ出される「一秒前」の場所に立っていた。
(……え? 今の……なに……?)
頭が真っ白になる。
時間が、わずか一秒だけ――巻き戻った……?
だが、思考を巡らせる暇はなかった。
彩乃は躊躇なく身体を乗り出し、その手を伸ばすと、少年の胸倉を掴んで屋上側へ思い切り引きずり倒した。
ドサリ、とふたりで固いコンクリートの上に倒れ込む。
直後、彼が先ほどまで立っていた老朽化した足場の縁が、ガラガラと音を立てて暗闇の底へ崩れ落ちていった。
「……あ……え……?」
助かった少年が、呆然と彩乃を見つめている。
彩乃は荒い息を吐きながら、自分の手のひらを見つめた。
冷や汗が吹き出し、指先が痺れるように熱い。
(気のせい……? 私、時間を……戻したの……?)
『――対象者の確保を確認。見事な判断でした、彩乃さん』
マザーの静かな声が耳元で鳴る。
「……マザー?」
『はい』
「今……何か変じゃなかった?」
『何のことでしょうか』
彩乃は自分の手を見る。
「……今……」
まだ、指先が震えていた。
「戻った……?」
『彩乃さん?』
「……ううん。なんでもない」
崩れた屋上の縁を見つめる。
そこに少年が立っていたことを、彩乃は確かに覚えている。
そして――
彼が宙へ投げ出され、手の届かない場所まで落ちたあの瞬間の光景も。
(……私は、本当に……)
手のひらに残る痺れるような熱さだけが、今起きたことが幻ではなかったと告げるように、いつまでも冷めずに残っていた。




