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ZERO  作者: 楓シロ
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第16話 氷の階段

 数日前から、蒼紫は訓練室に一切姿を見せなくなっていた。

 もともと訓練が好きな人間ではない。「寒い」「面倒くさい」「今日は調子が悪い」。何かと理由をつけて休むことは、以前から日常茶飯事だった。

 けれど、三日経っても、四日経っても、蒼紫は訓練室へ来なかった。

 大学の講義さえオンライン受講に切り替え、部屋から出てこない。

 リビングに這い出てくるのは食事の時だけで、食べ終われば逃げるように自室かこたつの中へ潜り込む。


「蒼紫、今日も訓練行かないの?」

 リビングで彩乃が尋ねても、

「……うん」

 ボソリと返ってくるのは、それだけだった。

「最近ずっと休んでるじゃん」

「そうだね」

「……何かあったの?」

「別に」

 それ以上聞くなと言わんばかりに、蒼紫はこたつ布団を鼻の上まで深く引き上げた。

 そのまま顔をうずめ、まるで外界との境界線を物理的に断ち切ってしまうみたいに。

 悠は少し離れた場所から、その丸まった背中を黙って見つめていた。


 以前から蒼紫はこたつが好きだった。けれど、今の潜り方は少し違う。

 寒いから入っているというより、外の世界のあらゆる視線から、自分を隠すために深く潜り込んでいるように見えた。


『――蒼紫さん。本日の訓練開始時刻を十五分過ぎています』

 天井から、マザーの静かなアナウンスが響く。

 彩乃も、食器を拭く手をぴたりと止める。

「今日は休む」

『数日連続の欠席となりますが、体調に問題はありませんか?』

「……ない」

『では、精神的な負荷が蓄積しているのでしょうか。先週からの生体ログの変動値から見ても、一度カウンセリングを受けることを――』

「……マザー」

『はい』

「ほっといて」

 わずかなタメがあった。

『……承知いたしました』

 それきり、マザーも何も言わなくなった。

 リビングの空気が、凍りついたように重く重く沈み込んでいく。


 蒼紫はこたつの中で、ゆっくりと目を閉じた。

 期待されなければ、応えなくていい。

 外に出なければ、誰にも見られない。

 氷の能力を使わなければ、誰にも気味悪がられない、恐れられない。

 ――だったら、ずっとこのままでいる方が、ずっと楽だ。

 本気で、そう思っていた。


 その日の午後。

 突然、部屋のスピーカーからマザーの緊張を帯びた緊急アナウンスが響き渡った。

『――緊急救助情報。阿倍野区のあべのハルカスにて、能力の初発現に伴う事故が発生しました』

 悠が即座に顔を上げた。

 リビングでは、彩乃と颯斗がすでに装備を整え、出かける準備を始めている。

 蒼紫だけは、こたつの中から微動だにしなかった。


『対象は十二歳。能力特性は【重力干渉系】と推定。自身に作用する重力を制御できず、現在、地上約100メートルの外壁部に取り残されています』

「重力……?」

 悠が窓の外を見上げる。

『消防および機構救助班が現場へ急行中。周辺住民は救助活動の妨げにならないよう――』

「俺たちも行くぞ」

 颯斗が上着を羽織り、短く言った。

「……蒼紫は?」

 彩乃が振り返る。

 こたつ布団は、ピクリとも動かない。

「……行かない」

「でも――」

「救助隊、行ってるんだろ」

「うん……」

「じゃあ、俺いらないじゃん。どうせ怖がられるし」

 彩乃が何かを言いかけようとした。

 颯斗が静かに手を出してそれを制した。

 その瞳には責める色も、怒りもなく、ただ今の蒼紫の頑なな心をすべて見透かしているような静けさがあった。


「分かった。行くぞ、彩乃」

「……うん」

 重い扉の音が響き、二人が出ていく。

 悠も避難誘導の応援要員として呼ばれ、玄関へ向かった。

 靴を履きながら、ちらりとリビングへ視線をやる。

 こたつから、蒼紫の頭の先だけがぽつんと見えていた。

 悠は何も言わず、静かにドアを閉めた。


 部屋の中に、ぽっかりと静寂が訪れた。

 蒼紫はこたつの中で、鬱陶しさを払うように面倒くさそうに寝返りを打った。

 つけっぱなしのテレビからは、アナウンサーの緊迫した声が響いている。


『現在、対象の少女は建物上部の外壁に設置された、細いメンテナンス用フレームにしがみついています!』

「……」

『消防の梯子車では到達できない高さに加え、屋上からの接近、中層部からの降下救助も困難な位置に取り残されています。現場の風も強く、いつ落下してもおかしくありません! 現在、救助隊が別の方法を試みていますが――』


 能力者は怖い。近づくな。

 そう言ったのは、世間の方だ。


 だったら最初っから近づかない。

 能力だって二度と使わない。


 必要ないと言うなら、何もしない。


 ――それでいいはずだった。


 蒼紫は、こたつの端から顔を覗かせ、画面の中の少女を見た。

 画質越しにも伝わってくる、白く強張った顔。

 突然自分の体から溢れ出た訳の分からぬ力に怯え、街中の好奇と恐怖の視線に晒されながら、高所で孤独に震えている幼い姿。


(……あんなの、どうしろって言うんだよ)


 こたつの中の暖かさが、急にうっとうしく、生ぬるく感じられた。

 蒼紫はリモコンを引き寄せ、無感情にテレビの電源を切った。

 画面が黒く消え、部屋に静寂が戻る。


「…………」

 深く目を閉じる。


 これでいい。

 自分が行かなくても、プロの救助隊がいる。

 颯斗も、彩乃も現場に向かった。

 そのために作られた機構なのだから、自分がわざわざ出て行く理由なんて、どこにもない。


(……そうだろ。俺が行ったって、冷ややかな目で見られるだけだ)

 静まり返った部屋の中で、自分の脈打つ音だけが重く響いていた。

 無意識に固く握りしめた拳の隙間から、わずかに冷たい気配が漏れ出していることにも、蒼紫自身、気づかないフリをしていた。


 ……しばらくして。

「……マザー」

『はい、蒼紫さん』

「……まだいる?」

『何がでしょうか』

「……その、子ども」

『はい。現在も同じ場所に取り残されています』

「…………」

『生命反応は安定していますが、救助隊が降下アプローチをしている模様です』

「なら……大丈夫じゃん」

『対象者がパニックにより、無意識に全方位へ不規則な重力変動を発生させているため、近づいたレスキュー隊員が吹き飛ばされる事態が発生しています。通常の救助アプローチでは接触自体が困難な状況です』

「ふぅん、救助隊も大変そうだね」

『そうですね』

 再び静寂が部屋を包む。

 蒼紫はこたつの中へ深く顔を埋めた。


 数分が、静かに過ぎた。

「……マザー」

『はい』

「まだ、かかってんの?」

『はい』

「……何やってんだよ、プロの癖に……」

『現場は強風も吹き始めて、救助は難航してるようです』


 行ったってバケモノ扱いされるし

 自分が行く必要なんてない。


 ――必要とされていないなら、何もしなくていい。


「…………」


 蒼紫は、こたつの中で丸くなった。

 膝を抱え、目を閉じる。


 それでいいはずだった。


「……俺、それでいいのかな」


 ぽつりと漏れた小さな呟きは、誰に聞かせるでもなく部屋の空気に溶けていく。

 蒼紫はゆっくりとこたつから顔を上げると、力なく尋ねた。


「……今、どこにいるんだっけ」

『対象者は現在、地上約百メートル。あべのハルカス外壁の設備部に取り残されています』

「そこより下で、外に出られる場所は?」

『最も近いのは、地上約八十メートルの低層部屋上です』

「……ってことは、そこから二十メートルか」

『はい』

「外壁は?」

『低層部屋上から対象地点までは、ほぼ垂直です』


「…………」


 蒼紫はこたつの中で、薄く目を開けた。


 二十メートル。

 垂直の壁。

 低層部屋上までは普通に上がれる。


 暗闇の中、頭の中にだけはっきりと、壁面を這うように伸びていく氷の階段が浮かんでいた。


「…………作れるな」

『何をでしょうか』


 蒼紫は答えなかった。


 また、数秒の沈黙。


 やがて――。


 ずり、とこたつ布団が動いた。


「……あー、もうっ」


 バサッと布団が勢いよくめくられる。

「ほんっと……めんどくさい」 

 立ち上がり、床に雑に脱ぎ捨てていた上着を拾い上げると、乱暴に袖を通す。

 ポケットの奥で固く握りしめた指先から、ほんのわずかに冷たい白気が立ち上った。


「マザー」

『はい』

「現場までの最短ルート」

『徒歩および公共交通機関を利用した場合、十二分です』

「遅い」

『能力を使用した移動経路を算出しますか?』

 蒼紫は玄関のドアノブに手をかけ、ぐっと引き寄せた。

「頼む」


 ◇


 現場の周囲は、押し寄せた野次馬と報道陣で騒然としていた。

 無数のスマートフォンのカメラが、一斉に天空へと向けられている。


 高層ビルの遥か上空。

 少女が、今にも折れそうな細いメンテナンス用フレームにしがみついていた。


 その小さな身体は時折、重力を失ったようにふわりと宙に浮き上がり、次の瞬間ガクンと落ちる。

「怖い……!怖いよぉ……っ!ママ……っ!」


 悲鳴混じりの幼い泣き声が、強い上空の風に乗って地上まで途切れ途切れに落ちてくる。

「動いちゃダメだ! すぐ助けるから、そこから手を離すな!」

 地上からメガホンをとった救助隊員が必死に声を張り上げているが、消防の梯子車は到底届かない。屋上から垂らされた救助ロープも、少女が無意識に放出する不規則な重力場に弾かれ、近づくことすらできずに大きく揺れていた。


 その時――。


「……え?」

 地上で人だかりの整理にあたっていた悠が、人混みの向こうに見覚えのある姿を見つけた。


 スマートフォンを掲げる群衆の隙間を押し分けるようにして、心底面倒くさそうな、不機嫌な顔をした蒼紫が歩いてくるところだった。


「蒼紫……!?お前、来ないんじゃ――」

「うるさい。低層部屋上まであがる」 

 蒼紫は悠の言葉を素っ気なく制すると、悠とともに低層部屋上へと向かった。


 低層部屋上へ出ると、強い風が一気に吹きつけた。

 見上げれば、少女はさらに二十メートルほど上。

 ガラス張りの窓の向こうでは、避難させられた人々が不安そうにこちらを見ていた。


 呼吸をひとつ整え、蒼紫が右手をスッと真っ直ぐ壁面へ掲げる。


 パキパキパキパキ――ッ!!


 爆発的な凍結の波が、音を立ててコンクリートの壁面を一気に駆け上がっていく。

 陽光を反射して白銀に輝く氷の道が、垂直の壁に力強く立ち現れていった。


 分厚い結晶の塊が外壁からせり出し、足場となり、一段。

 さらに、一段。

 もう一段。

 低層部屋上から上空へ向かって、光を乱反射する「氷の階段」が、螺旋を描いて一瞬にして形成されていった。


 ガラス越しに見守る人々の間から、「なんだあれ……!?」「氷……作ったのか!?」と、どよめきが漏れる。

「……すごい」

 驚きに目を見開く悠を尻目に、蒼紫は面倒くさそうに首をぽりぽりと掻いた。

「このくらいなら、余裕でいける」


 そして、自分が空中に作り出した氷の階段へ、迷いなく足を掛けた。

 一段。また一段。

 冷たい強風が吹き荒れる中、蒼紫はゆっくりと、しかし確実な足取りで、泣き叫ぶ少女の元へと登っていく。


「来ないで……!」

 迫ってくる蒼紫を見て、少女が泣き叫んだ。

「私、また急に浮くかもしれない! 近づいたら危ないよ!」

「じゃあ、動くな」

「落ちちゃうかもしれない……!」

「落とさない」

「でも……っ!」


 蒼紫は少女の数メートル下で、氷の足場の上に立ち止まった。

 少女の身体が、またフワリと浮き上がる。

 同時に蒼紫の身体も大きく揺れた。

「……っと」

 足元の氷が瞬時に厚みを増し、蒼紫の靴を階段へ固定する。


「私……へんてこな力が出て、変になっちゃったの……!」

「うん」

「こんな力、いらない……!!」

「うん」

 蒼紫は、寒さで少し赤くなった自分の指先をじっと見つめた。

「俺も」

 少女が涙で濡れた目で、ぽかんと蒼紫を見下ろす。

「……え?」

「俺も、この能力嫌い」

「……」

「寒いし」


 少女が、呆気にとられたように泣きやんだ。

 それと同時に、周囲を乱していた重力の揺らぎも、わずかに弱まった。


「だから、早く降りよう。俺も早くこたつに帰りたい」

 蒼紫は、氷の階段の上から静かに手を伸ばした。

 数秒の躊躇いのあと、小さな温かい手が、蒼紫の冷たい手をギュッと強く握り返した。


 地上へ降り立つと、少女の家族が泣き叫んで駆け寄ってきた。

 蒼紫はその感動の輪を横目に、興味なさそうにその場からすっと離れる。


 人混みの影で、悠が待っていた。

「……早く帰るぞ。寒くて死にそう」

「お疲れ、蒼紫」


 悠が静かに差し出した温かい缶コーヒーを受け取り、蒼紫はフンと鼻を鳴らした。

 缶コーヒーを握るその指先は、さっきより少しだけ力が抜けているように見えた。

 悠はその丸まった背中を、しばらく黙って見送っていた。

 蒼紫は一度も振り返らなかった。




「お兄ちゃん、名前なんていうの?」

「砺波蒼紫」

「彼女いる?」

「……は?」

「ねえ、いる?」


階段降りながらこんな会話があったかもですねぇ。

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