第12話 正しさとは
朝の談話室だった。
「やばいやばいやばい、完全に遅刻するーーっ!」
彩乃がトーストを口にくわえたまま、髪を振り乱してドタバタと廊下を駆け抜けていく。もはや毎朝お約束の光景だった。
「ねぇ、マザーは彩乃さんに時間のアナウンスしてないの?」
悠が呆れたように見送ると、マザーの落ち着いた声が返ってきた。
『彩乃さんには十分前からアナウンスを行っておりますが、すべて無視されております』
「あはは……毎朝、ちゃんと間に合ってるのかな」
『彩乃さんは最終的に毎回ギリギリで滑り込んでいまますが、廊下で転倒事故を起こさないかと懸念しております』
一方、蒼紫はこたつから一歩も出ていなかった。すでにこたつが不要な季節だというのに、中に入り浸っている。
『蒼紫さん、本日の講義は二限目からです。そろそろ起き上がって準備をされた方がよろしいかと』
「わかったー」
そう返事だけは良いものの、蒼紫はこたつの中で丸くなったまま微動だにしなかった。
キッチンでは、颯斗がマグカップでココアを作っていた。よく見ると、すでに甘そうなココアへさらに砂糖をたっぷり投入している。
「マジで間に合わないーーっ!」
彩乃が慌てて談話室に戻ってきて、鞄を引っ掴んだ。
「悠、今日仕事?」
「そう、11時から」
「そっか、頑張ってね! 行ってきます!」
嵐のように、彩乃は再び玄関へと走っていった。
『彩乃さん、現在の移動ペースでは講義開始に間に合いません。移動速度を上げることを推奨します』
遠ざかっていくマザーの声をBGMに、颯斗が静かにマグカップをテーブルに置いた。
いつもと変わらない、平和な朝のはずだった。
悠は機構の受付カウンターに座っていた。
窓口に、一人のスーツを着た中年男性がやってきた。悠が淡々と手続きを進めようとすると、男性がふと周囲を気にするように見回し、小声で言った。
「……今日は、いつもの人じゃないんですね」
「ええ、今日は私が担当させていただきます」
悠が静かに応えると、男性はあからさまにホッとした表情になった。
「なら、良かった……」
悠の指先が、端末の上でピタリと止まった。
「……何か、あちらの対応で不都合でもございましたか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
男性は気まずそうに目を逸らすと、それ以上は何も言わなかった。悠も察して、あえてそれ以上深くは尋ねなかった。
手続きは滞りなく終わった。けれど、男性が見せたあの安堵の表情が、胸に小さなトゲとなって刺さる。
あの事件以来、一般市民にとって「能力を持つ職員」が窓口に立つこと自体が、目に見えない恐怖と不信の対象になっているのだ。
昼過ぎ、上司から声をかけられた。
「刀根崎くん、急で悪いんだが、あっちの窓口の交代に入ってやってくれ」
「あ、はい。わかりました」
悠が指定された窓口に向かうと、それまで対応していた能力者の職員が、待ってましたとばかりに黙って席を立った。悠が代わりに椅子に座る。
席を譲った能力者の職員は、逃げるように廊下へ出ると、壁にぐったりと背中を預けた。
何も言わず、ただ自身の前髪を強く握り締めて俯いている。その強張った背中は、窓口で周囲からの「怯えの視線」に晒され続けた限界を物語っていた。
悠は声をかけようとしたが、できなかった。
何を言っても、今は薄っぺらく聞こえる気がした。
夕方、業務を終えた悠が端末を開くと、訓練生たちのグループメッセージに彩乃からの連絡が届いていた。
『なんか最近、街の人から声かけられなくなったよね』
悠は足を止め、夕闇に包まれ始めた街の中で画面を見つめた。
『気のせいかなぁ。前は「いつもお疲れ様!」って名前呼んでくれてたのに。今日も近所の人三人に、目だけ合わせてサッと通り過ぎられちゃった』
『なんか変な気分』
メッセージの最後には、無理に明るく振る舞うような、小さな笑顔の絵文字が一つ添えられていた。
悠は返信欄を開いたまま、しばらく指を動かせなかった。
帰り道は、大学終わりの蒼紫と一緒になった。
二人は駅前のコンビニに寄り、レジに並んだ。蒼紫が支払いのために決済用リーダーに手をかざそうとした、その瞬間だった。
若い店員がビクリと身体を震わせ、無意識に半歩、後ずさった。
蒼紫が身に着けている機構の制服――能力者であることを示すその装いに、店員の視線が露骨な恐怖を帯びて張り付いている。
蒼紫は、その過剰な反応に完全に気づいていた。
「……別に、凍らせたりしねーよ」
ぼそりと、小声で呟く。店員には聞こえないほどの、かすかな音量だった。
『決済が完了しました』
無機質な機械音が、レジカウンターに漂う重い静寂を切り裂くように響いた。
悠は何も言えなかった。
安易な慰めの言葉など、今の蒼紫には届かない。どんな言葉をかければいいのか、分からなかった。
寮に戻ると、リビングには颯斗だけでなく、宗像大地も来ていた。
「能力者の『登録希望者』が今週はゼロなんだ」
大地がホログラム端末のグラフを見せながら、重い口調で言った。
「あの田中さんの事件を境にして、数字が明らかに落ち込んでいる。能力が初発現しても、機構に届け出を出さない人間が急増しているんだよ」
「……みんな、隠してるのか」
颯斗が腕を組み、冷ややかに呟く。
「そう考えるのが自然だろうな。……だが、それが一番マズいんだ。能力の扱いも制御も知らんまま街に放置されれば、第二、第三の暴走事故が起きる」
大地は疲れたように眉間を揉みながら、ホログラム画面をスクロールさせた。
「それと、ここ数ヶ月の能力発現の『増加率』自体、どう考えても異常だ。まるで何かが裏で起きているような……」
大地の独り言のような呟きに、誰も答えることはできなかった。
そこへ、電子ロックが軽く鳴って扉が解錠された。
「お、みんないるじゃん」
ひょっこりと顔を出したのは尚人だった。最近では、もはや誰も彼が勝手に入ってくることを気にしなくなっていた。
「はい、差し入れ。新商品のポテチ買ってきた」
袋からスナック菓子を取り出し、バリッと派手な音を立てて袋を開ける尚人。
重く沈み込んでいたリビングの空気と、彼の呑気な振る舞いが決定的に噛み合っていない。
大地は困ったように苦笑いを浮かべ、ホログラム画面をそっと消した。
「……尚人、お前は本当に呑気だな」
颯斗が呆れたように息を吐く。
「えー、だって外、なんかギスギスしてて嫌じゃん。街歩いててもさ、みんな能力者の噂ばっかだし」
尚人はポテチを口に放り込みながら、何気ないトーンで言葉を続けた。
「……まあでも、そうなるのも分かるけどさ。俺、暴走の直前まであの田中さんと喋ってたじゃん? 普通に会話してたのに、あんな風に急に暴走するって……普通に怖くね?」
談話室の空気が、一瞬で凍りついた。
バリバリと尚人がスナックを噛み砕く音だけが、不気味に響く。
「……あれ?いや、俺だけ? そう思うの」
尚人はキョトンとして周囲を見回す。
颯斗が、冷ややかな視線をスナックの袋に向けたまま静かに言った。
「――じゃあ、俺たちもいつ暴走してもおかしくないってことだな」
「いや、颯斗たちは違うじゃん」
悪気のないその一言に、リビングの温度がさらにスッと下がった。
誰も、それには答えなかった。
「……え、何?」
尚人が三人の顔を順番に見やる。
「なんでみんな黙るんだよ」
彩乃は手元の端末に目を落とし、蒼紫は不機嫌そうに窓の外へ視線を逸らした。
颯斗も、それ以上何も言わなかった。
「俺、なんか変なこと言った?」
尚人は、本当に分かっていない顔をしていた。
悠は、黙り込んだ三人の表情を見つめることしかできなかった。
夜。自室のベッドに横たわった悠は、静かに天井を見つめながら話しかけた。
「マザー」
『はい、悠。何でしょう』
「最近……街の空気が、変わった気がするんだ」
『そうですか。何か気になることがありましたか?』
「能力者への見方が変わってる。みんな、怯えてるんだ。……颯斗たちも、それを肌で感じて、すごく傷ついてると思う」
悠の言葉に、いつもより少しだけ長い沈黙があった。
『……そのようですね』
「……やっぱり」
『ですが、データとこれまでの観察から、私は颯斗さんも彩乃さんも蒼紫さんも、社会を脅かす危険な存在だとは判定していません』
「そうだよね。みんなが危ないわけではないよね」
『颯斗さん、彩乃さん、蒼紫さんも、今日も一日それぞれの場所でとても頑張っていました。もちろん、悠もお疲れ様でしたね』
マザーの声は、どこまでも優しかった。
「マザーは……変わらないな」
『私には、変わる必要も、理由もありませんから。私はこれまでと同じように、皆さんを支援し続けますよ』
悠はゆっくりと身体を起こし、自室の窓辺へと歩み寄った。
窓の外に広がるのは、完璧な規則性を持って灯る夜の街の明かり。整然と並ぶ案内板の光が、静かにまたたいている。
怖がる人が間違っているとも思えなかった。
かといって、何もしていない能力者が避けられることが正しいとも思えなかった。
マザーは、どちらの立場に対しても変わらず淡々と接している。
なら、一体――誰が正しいのだろう。
悠には分からなかった。
ただ一つだけ――昨日までの「当たり前」が、今日はもう当たり前ではないという事実だけが、冷たく重く胸に残っていた。
こんなにも簡単に、人の関係も、街の空気も変わってしまうものなのだろうか。
「……難しいな」
『何がですか?』
「ううん。まだ、分からない」
『そうですか』
マザーは、それ以上詮索してこなかった。
ただ――
すべてが変わりゆく中で、マザーだけが変わらないことに、悠はかすかな安心感を覚えてしまっていた。
悠は静かに目を閉じる。
だが、その胸の奥で小さく疼く違和感の正体が、一体何に向けられたものなのか、その答えが分からないまま、悠は冷たい静寂の中へと落ちていった。




