第11話 わかってくれない
昨日はログインできなかった…
なので、朝に続き今日の分。
能力統括機構の受付カウンター。
田中真琴の目の前には、すでにうずたかく積まれた書類の山があった。
5日連続の残業で、視界の端がちかちかと点滅している気がする。
「あ、田中さん。ついでにこれも急ぎで処理しといてくれる?」
先輩職員が、確認もせずに新しい資料をドサッと重ねた。
「あ……」
一瞬、言葉が詰まる。今抱えている分だけでも定時を超えている。
けれど、断り方がわからない。「無理です」と言った後の、あの嫌な空気に耐えられる気がしない。結局、笑顔とも言えない表情で小さく頷いてしまう。
「……はい、大丈夫です」
大丈夫なわけがないのに、自分から「大丈夫」と言ってしまうのが、真琴の昔からの悪い癖だった。
『真琴さん。本日の業務時間が推奨上限を超えています』
耳の奥で、マザーの声が静かに告げた。
「……わかってます」
『休憩を強く推奨します』
「後で……後でまとめて取るから」
首筋のかすかな発熱とともに、視界の端で警告表示が明滅して消えた。
真琴の疲労を客観的な数値として拾ってくれるのは、首の後ろに居座るマザーだけだった。
誰かに「大丈夫?」と聞かれれば、口元だけで「大丈夫です」と完璧な笑顔を作ってしまう。
――本当は、言わなくても誰かに気づいてほしかった。
『もう無理しないで』と、誰かに引き留めてほしかった。
けれど、自分の頭の中にしか届かないマザーのアラートを、周りの人間が知る由もなかった。
夕方、また声がかかった。
「田中さん、明日の研修のまとめ資料、今日中に作ってもらうことってできる?」
同僚の女性だった。申し訳なさそうな笑顔を浮かべている。悪い人ではないのは分かっていた。
真琴は一瞬、喉まで出かかった「無理です」という言葉を飲み込んだ。言えば、相手を困らせてしまう。
「……やってみます」
『真琴さん、現在のストレス値が許容基準を超えています。これ以上の受託は危険です。断ることを推奨します』
(断れないよ……)
心の中で呟いた真琴に、マザーの声が淡々と返ってきた。
『では、私が代わりに断ります』
マザーの音声コードが、真琴の端末を通じてスピーカーから優しく響いた。
『——一課より通知。田中真琴は現在業務過多のため、新規タスクの受託を制限されています。恐れ入りますが、別の方への割り振りを推奨します』
同僚は少し驚いた顔をした。
「あ、そうなの? ごめんね、マザーに止められてるなら無理言えないね」
彼女は資料を引き抜くと、すぐに去っていった。
真琴はカウンターに力なく手をついた。
また、マザーに断ってもらった。これで何度目だろう。
ありがたかった。助かったはずだった。
けれど、胸の奥に澱のような、小さなざらつきが残った。それが何なのか、今の真琴には分からなかった。
翌週も同じだった。翌々週も。
真琴の代わりにマザーが壁になり、真琴はただ頷く。それがいつしか日常になった。
自分が言葉を発することすら放棄していくことが、いつしか当たり前の日常になっていた。
ある夜、残業を終えた真琴は、静まり返った廊下を歩いていた。
角の向こうから、談笑する声が聞こえてきた。
同じ課の上司と、先日の同僚の声だった。
「田中さんさ、最近マザーが仕事止めるだろ。だったら本人から一言言ってくれたらいいんだけどな」
「ああ、分かります。頼んでいいのか悪いのか、こっちも判断できなくて」
「そうなんだよ。本人に聞いても『大丈夫です』って言うし、マザーは止めるし。正直、どう接したらいいのか分からんよね」
真琴は角の手前で足を止め、その場に凍りついた。
胸の中で、何かが音を立てて爆ぜた。
――断ったのはマザーだ。私じゃない。
私は、ただ頑張って、断れなくて、全部受けていたのに。
断れない私が悪いから、マザーに守ってもらうしかなかったのに……!
喉の奥が熱くなり、指先が激しく震えた。
「大丈夫です」と言っていた自分の言葉も、マザーが代わりに立てた拒絶の壁も、すべてが自分を追い詰める刃になって突き刺さる。
『ま、こ、と、さ、ん。スト、レ、スが、きじゅんを、こえて、い、ま、す』
マザーの声が、途切れ途切れに聞こえた。
『かんじょうの、ふり、はばが、きけんです。ひといき、つきに、きゅうけい、しつへ、いきましょう』
視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りが混ざる。
真琴は壁に手をつきながら、ふらふらと足を引きずるように休憩室へ向かった。
冷たい水を飲んで、この胸の焼き付くような熱さを静めたかった。落ち着きたかった。
けれど、激しく波打つ動悸は、一向に収まってはくれなかった。
だが、休憩室のドアを開けると、そこには備え付けの冷蔵庫からジュースを出して、喉を鳴らして飲んでいる尚人がいた。
真琴はその手元を見て、息を詰まらせた。
「それ……私の……」
「え?」
尚人は悪気のない、純粋にキョトンとした顔でジュースの缶を見つめた。
「あ、田中さんの? そこにあったからてっきり共有のストックかと思って飲んじゃったわ」
「……っ」
「今度からさ、分かりにくいから名前書いといてね。じゃ」
尚人は悪びれる様子もなく、残りのジュースを飲み干すと、空き缶をゴミ箱に適当に放り投げて部屋を出て行った。
カコン、と虚しい音を立てて缶は床に転がったが、尚人は振り返りもしなかった。
パチン、と廊下の灯が一つ、明滅した。
首の後ろでマザーが何度も警告を繰り返しているが、真琴の耳にはもう何も届かなかった。
――どうして。
どうして誰も、私のことを見てくれないの?
どうして私ばっかり、我慢しなきゃいけないの?
どうして、みんな自分勝手なの?
真琴は、自身の激しく震える両手を見つめた。
その指先から、バチバチと――禍々しいほどの眩い光が溢れ出していた。
「あ……ああ、あああッ!!」
——ドガァァァァァァァン!!
激しい爆音と共に、衝撃波が駆け抜け休憩室の壁や窓ガラスが外側へ吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
談話室のソファをひっくり返すほどの凄まじい揺れが、機構の建物全体を激しく揺さぶる。
『――緊急警告。館内にて能力の突発的な暴走事故が発生しました。二次災害の危険があります。職員、および訓練生は、ただちに指定の避難経路から館外へ退避してください』
赤く反転したディスプレイから、マザーの緊迫したアナウンスが響き渡る。
「機構の中でか……!」
颯斗が即座に立ち上がり、険しい表情で廊下の様子を伺う。
「訓練生かな……? 訓練室の外で爆発なんて……」
彩乃が突然の事態に身をすくめ、動揺を隠せない様子で小さく呟く。
蒼紫は何も言わず、ただ静かにこたつから這い出ると、窓の外へ立ち上る黒煙を見つめていた。
「とりあえず、外に出るぞ」
颯斗の強い一言に、悠も強く頷いた。
「そうだな、急ごう……!」
這うような黒煙を避けながら非常階段を駆け下り、四人はマザーの指示に従って機構の敷地外へと飛び出した。
外の広場に出ると、すでに避難してきた職員や、近くを通りかかった一般の市民たちが大勢集まり、現場は騒然とした人だかりができていた。
街頭の大型モニターには、早くも緊急ニュースのテロップが流れている。
『緊急速報。先ほど、市内の能力統括機構内にて、職員による能力の暴走が発生しました。壁面が損壊、近くにいた職員数名が軽傷。暴走した能力者は、ただちに機構の医療班によって保護されました――』
淡々としたアナウンスが、煙の上がるビルの下で流れ続けている。
「一般職員の発現だったなんて……」
彩乃が蒼ざめた顔でモニターを見上げ、小さく声を振るわせた。
颯斗は言葉を失ったまま歯を食いしばり、煙の立ち上る建物をじっと睨みつけている。
蒼紫だけは、何も言わなかった。
「おい、機構の中でも暴走が起きるなんて……」
「訓練を受けてる人間でもこんな事になるのかよ…意味ないじゃないか」
ざわざわと、周囲に集まった人々の間に急激な不安と不信の声が広がっていく。
そして、崩れた建物から避難してきた悠たち機構関係者の姿に、周囲の市民が気づいた、その時だった。
――あ。
集団の空気が、一瞬で変わった。
一緒に避難してきた悠たちへ、周囲の視線が一斉に向く。
それは保護や安否を気遣うものではなく、明らかに怯えを含んだ、遠巻きの警戒だった。
ふいっとそちらへ視線を向けると、目が合った人々は弾かれたように一瞬で目を逸らした。
小さな子どもが、母親の服の裾を掴んで後ろへ隠れる。
母親は顔を蒼ざめさせ、慌てたように我が子の肩をきつく抱き寄せた。
何気ないその仕草が、冷たい針のように悠の胸を小さく刺した。
「……っ」
これまで穏やかに見えていた街の人々との間に、いつの間にか目に見えない「壁」がそびえ立っている。
悠は、急速に冷え込んでいく街の空気を肌で感じながら、ただその場に立ち尽くしていた。
『悠。バイタルが乱れています。何か、気になることがありましたか?』
マザーがいつもと変わらない、穏やかで優しい声で問いかけてくる。
「……いや…」
『そうですか。話したいことがあれば、いつでも聞きますよ』
悠は、それには答えなかった。
見上げる空は、吸い込まれそうなほど青く晴れ渡っている。
けれど、さっきまで見ていたはずのその青さは――もう、どこにも見えなかった。




