若狭再入国
永禄5年7月、西暦で言えば1564年7月に六角軍は観音寺城を発し、高島郡船木城へ入る。前回の若狭入り以降、高島党に街道の整備を命じていた。命じるだけではなく資金の援助も行っている。高島郡の農閑期の民達の稼ぎとしてはとても良いものであったようで、多くの者達が集まり、六角家からの資金を人足の手当てに充てている為、民達からの受けも良かった。
後世で鯖街道の名を持つ街道を整備し、沼田領である熊川までを繋げている。勿論、沼田家当主である沼田統兼の了承も得ている。熊川から朽木近くまでは未だ敵領であるため、道幅を大きくする事はなく、単純に歩き易くしただけだが。
今後は六角領になると考えれば、この道もしっかりと広げ、固めて行かなければならないだろう。
「御屋形様、朽木弥五郎殿が参られております」
「通せ」
高島郡から野尻坂に入った辺りで、朽木家三百の兵が合流する。朽木弥五郎が当主となり、領地の改革を始めてからまだ二年強。それでも朽木は民部少輔稙綱が当主であった時代よりも、そして今は亡き宮内少輔晴綱が当主であった時よりも遥かに豊かになっていた。
米の植え方、収穫の仕方、肥料の作り方。六角領で行っている事を真似、そしてそこから試行錯誤を加えて、朽木領の領民は増えて行った。
飢える事がなければ人は増える。特に京から逃げ出して来た民達を匿った事で朽木が出せる兵力も一万石の所領を持つ豪族と同数になっていた。
「御屋形様、ご無沙汰しております。弥五郎元綱でございます」
「久しいの、弥五郎。息災であったか?此度の参陣、真に大儀である」
俺の前に出て来た朽木弥五郎元綱も、元服より三年が経過して顔に精悍さが出て来ている。俺の前で膝を着く彼の後ろで朽木家譜代の家臣達もまた膝を着いて顔を伏せていた。今回の出兵に祖父朽木民部少輔稙綱は同道していない。民部少輔も年齢が七十に手が届きそうな人間だ。無理をさせないためにも朽木城の留守居としたのだろう。願わくば、俺達の出兵中に足利一行を受け入れない事を願うばかりだ。
「祖父民部少輔は体調を崩し、此度の参陣が叶いませぬ。御屋形様にお目通りが出来ぬ事を誠に残念に思うておりました」
「民部少輔もよい歳だ。今は其方が力を尽くし豊かになった朽木を見て嬉しく思っている事だろう。これからも豊かになって行く朽木を見守って欲しいものよ」
朽木軍を入れて総勢一万二千程の大所帯となった六角本隊が山を越えて行く。北近江から深坂峠に向かった軍は約一万。疋檀城を目指して出陣はさせているが『無理をして落とす必要はない』と伝えてもいる。
朝倉とて若狭を欲してはいても越前国に六角軍を入れる事を望んでいる訳ではない。それ故に疋檀城を取ろうとすれば、可能な限りの兵数を金ヶ崎へ集め、六角軍に向ける可能性は高い。
流石に越前一国の軍である為、田植えも終えたこの時期であれば二万近くは動員出来るだろう。それとまともにぶつかれば壊滅も有り得る。
街道とはまだ呼ぶ事の出来ない道を横長に伸びながら一万二千の軍が進む。この場所で横から強襲されれば、この軍も壊滅は必至。それ故に周囲には甲賀者を配置し、警戒を続けていた。越前攻めの江北軍には伊賀者を貸し出してはいるが、大将を任じた中務大夫賢永は六角一門の誇りが高く、伊賀者を使い切れるか若干不安だ。
俺が重用している為、六角家中でも甲賀者や伊賀者への偏見は少しずつ小さくはなっている。元々甲賀者の出である三雲対馬守定持が宿老の地位に就く家である為、基本的に透波、乱波の類を蔑むような者はいなかったが、甲賀者だけではなく、伊賀者も家中を出入りするようになり、果ては伊賀国に城を与えられて国営を任せられているとなれば、やはり妬みが出て来るのだろう。それは、近江統一後に新たに六角家中に組み込まれた江北衆に多く見られた。
最近では塩津浜城を与えた中務大夫賢永が一門衆筆頭のような扱いになっており、伊賀者の扱いに不満を持つ者達がそれを中務大夫へ進言しているという。
伊賀者達の注進を妨げるような事がなければ良いのだが。
「御屋形様、先触れが熊川より戻りましてございます。熊川の沼田弥七郎殿から六角軍の受け入れの準備が整ったとの回答にございます」
「うむ」
当たり前であるが、若狭出兵を決めてすぐに熊川へ使者を走らせた。丹波内藤家及び、逸見家が若狭へ軍を進めている事、そしてそれを防ぐ為に六角軍一万二千が若狭に入る事。その際に熊川沼田氏の今後を話したいとの事を伝えている。
要は、若狭武田家に属したままなのか、それとも幕臣としての立ち位置を貫くのか、はたまた六角家に臣従するのか決めておけという事だ。
上から目線の圧力外交のように思われるかもしれないが、沼田氏には多くの貢物を送っており、他国の豪族への配慮を行っている。そして、史実よりも早くに熊川郷は若狭国人衆に目を付けられていた。史実とは異なり、近江を統一した六角家の差配で若狭からの海産物、俵物が多く京へ運ばれる事になり、その道を俺が整備し始めた事によって出入り口となる熊川には多くの銭が落ちたのだ。
国人や豪族達の中には、日本海の港を領している者達もおり、その恩恵を受けてはいるが、今までそれ程恩恵を受けていなかった熊川の宿場程急激な潤いはなかった。それが更なる欲を呼び、熊川には何度か軽い略奪の魔の手が伸びて来ていたようだ。
「沼田家が六角へ臣従する事になれば、今の陣屋のような館ではなく、山城として城の縄張りをしてやろう。若狭への入り口の拠点だ。堅牢にせねばな」
「はぁ…」
俺の言葉を聞いた家臣達は総じて同じような表情を浮かべる。『また始まったか』とでも言いたげな呆れ顔を見せる者達も多い中、同道している大原次郎左衛門、朽木弥五郎、浅井与次郎の三人は俺の近くで固まって頷いていた。
この戦には今浜城主となった弟大原次郎左衛門高定が同道している。本来彼も江北衆の一員ではあるが、彼が江北衆に入ると大将となっている中務大夫賢永との間で命令系統が可笑しくなる可能性もあるとして本隊と合流させた。
中務大夫賢永は一門衆ではあるが、俺との血の繋がりは薄い。腹違いではあるが次郎左衛門は俺の弟となり、どちらかと言えば次郎の方が格は上となる。だが、年齢や経験を考えても直々に大将を拝命している事を考えても次郎が中務大夫の下に付く事は不思議ではないのだ。
ただ、最近の江北旧浅井派の豪族達の動きと中務大夫の立ち位置を考えるとその傍に次郎を置きたくないというのが俺の希望であった。
「若狭と近江を繋ぐ道の根幹である熊川に城を築けば、商人達も安心して熊川を通る事が出来ましょう。それに道の整備や警備の拠点としても熊川は最適であり、若狭への荷止めも容易くなりますね」
「次郎、よく気付いた。褒めて遣わす。その通りだ。若狭国は日本海に面していて交易は盛んであるが、海産物以外の物資は外から入る物も多い。若狭一国でも石高は八万石に届くかどうかだ。高島郡全体の石高とあまり変わらん。米や農産物は外からの物に頼らざるを得ず、それを止められれば干上がるのは必定。後は国内での醜い奪い合いとなろう」
最近は城を築くと口にすれば『またか』という否定的な顔をする者が多くなっている中、腹違いではあるが弟に肯定されると嬉しくなる。熊川は重要な場所だ。この時代では他国に入る道というのはある程度限定されている。若狭に入るのも同様で、近江から敵国に接しない道となればこの熊川から通るこの道しかないのだ。
実際に今回の出兵で越前敦賀などを領有する事が出来れば話は別だが、いくら何でもそれは望み過ぎという物だろう。
「熊川から後瀬山を目指す」
「はっ」
熊川は良い所だが一万二千もの大軍が逗留出来る場所ではない。そのまま後瀬山城へ行った後、逸見氏の居城であった砕導山城に向かい、そこを占拠する。確か史実では日本海に面した高浜城を逸見昌経が築いたのだったか…。
この時代では完全に若狭から追放された逸見氏が戻った事はない為、築かれてはいないのだろう。そこに城を築くのも一つの手だな。いや、あの場所は本当に海のそば過ぎる。塩害なども強そうだし、何より寒そうだ。
熊川で沼田氏の歓迎を受ける。沼田氏は今回の六角の勧誘を受け、臣従する事を決めたようだった。前回の若狭出兵後から沼田氏とは誼を通じており、やり取りを行って来ている。六角は信じるに値すると判断したのだろう。
若狭国主である武田伊豆守義統の討ち死を受け、若狭武田家は先代の治部少輔信豊が当主として返り咲くか、遺児である孫犬丸(後の武田元明)を擁立するかの二択になっている。だが、どちらを選択しても良い結果を生む事はないだろう。
先代である治部少輔は国人衆からの反発は強く、逸見氏だけではなく数多くの離反者が出るだろう。対して幼年の孫犬丸を武田家当主に据えても、粟屋氏や武藤氏などの有力国人達が実権を握り、専横政治になる可能性が高い。沼田氏のような弱小豪族からすれば頼るに値しないという事なのだろう。
沼田一族の中には上野介光兼という男が居り、その男の娘が幕臣細川兵部大輔藤孝に嫁いでいると紹介を受ける。俺は苦虫を噛み潰したような顔になっていたかもしれない。確かにそんな話を知っていたような気もする。だが、完全に忘れ去っていた。
これで俺は細川藤孝を見捨てるという選択肢を取る事が出来なくなった。重要視するほど沼田氏は大きな勢力ではないが、曖昧な回答ではなく、臣従という選択を早急に決断した一族を冷遇したくはない。如何に嫁げば嫁ぎ先の家の者と考える時代だと言えども、親族を見殺しにされれば恨みを覚える事だろう。
話は変わるが、後世で毎年のように論議が勃発する『明智光秀謀反の理由』という謎だが、個人的な意見だが、丹波攻めの際に人質として出していた明智光秀の母親を見殺しにするような命令を織田信長が下した事をずっと恨みに思っていたのではないかとも思っている。恨みが積もれば些細な事で爆発する。それを行使できる力を持っていれば尚更だろう。
明智光秀には天下人を誅した後での展望がなかったとか、誅した後の計画が杜撰だという事を言われるが、彼の目的が織田信長に恨みを晴らす事という只一点であれば、本能寺で信長を亡き者にするまでの計画さえあればそれで良かったのかもしれない。
余談が過ぎた。
「御屋形様、この者は上野介光兼の嫡子にて松之助と申します。齢十の童ではございますが、一族の童の中でも頭一つ抜けた利発さを持っております。何卒、御屋形様の側に置いては頂けませぬでしょうか」
沼田一族の惣領となっている弥七郎統兼が一人の少年を紹介して来る。一段と幼い少年が顔を出すが、その目は何か挑むような光を宿していた。
ああ、これが後の世の沼田祐光なのだろうか。陰陽道や易学なども修めたと云われ、陸奥津軽家の軍師となった奇人。どのような男であったのか、何を残したのかは分からないが、何故か名前が後世に残っている人物なのだ。
「其方はそれで良いのか?」
「はい。未だ世の理も知らぬ若輩者でございますが、何卒お引き回しの程、宜しくお願い申し上げます」
静かに頭を下げる姿はとても十歳の子供の姿ではない。言葉こそ言わされている感があり、昨夜覚えさせられたのだと解るが、それでもしっかりとした子供である事は解る。奇人変人の類だと言っても過言ではないだろう。
「解った。側仕えを許す。職務内容などは徐々に憶えよ」
「ありがとうございます」
側近であった者達は、先日の北伊勢攻めの折、桑名で城代を任じた。初めての城代としての仕事に戸惑いと焦りがあったものの、今では立派に領地を治めている。元々俺の周囲で切磋琢磨し、助け合いながら働いて来た者達であり、互いに好敵手という認識は有ってもいがみ合う事なく、競い合っている。
おそらく伊藤氏が治めていた頃よりも桑名は豊かになっており、今では長島方面から流民も見られる事があると報告があった。
それ故に、俺の側仕えが不足しているのも事実なのだ。基本的に一人で何でもする為、過剰な身の回りの世話はいらない。だが、必要な時に必要な人間がいないのはかなり不便であり、家臣達の子供達の中で有能そうな者達を選ぶ予定ではあったが、中々良い人材がいなかったのだ。
沼田氏の歓迎を受けた後、そのまま後瀬山城へと直進する。基本、北川に沿って日本海へ向かうだけの道ではあるが、途中にある瓜生を領している松宮玄蕃允清長が居城であるから出て瓜生砦に入っており、六角軍に向かって矢を放つという愚行を行った。
一万二千の行軍に恐れを為した兵が思わず放ってしまった矢だとは思うが、それでも宣戦布告と捉えても良い物である。名分は『武田信豊の妻である伯母の救出と保護』の為に出陣している六角軍に弓矢を放ったのだ。松宮氏は逸見氏と同様に若狭を荒らす賊徒となる。
「砦の人数は?」
「およそ二百程かと」
よくその少人数で戦を仕掛けたな。松宮氏の所領は瓜生、井ノ口、天徳寺周辺の一万石にも届かない。全勢力に近い人数をこの砦に入れているようではあるが、とてもではないが六角軍と戦える人数ではない。
確かに当主討ち死に後に他家が国内に入ってくれば警戒するのは当たり前なのだが、それでも使者なりを送って来るのが先である。何もなく突然攻撃されては、開戦となるのは致し方ないだろう。
同道していた目賀田摂津守率いる二千に幾らか寄騎を付けて瓜生砦を攻めさせる。一刻ほどで砦は落ち、城に籠っていた当主松宮玄蕃允とその子左馬亮の両名が自刃。松宮家は滅びる事になる。
松宮領には周囲の山々に漏れなく砦が築かれてはいるが、既にその中にいる兵数はほとんどなく、全てを開城させながら進んだ。
松宮親子の首は丁重に膳部山城に降伏の使者と共に送り、六角軍神谷城、天徳寺城を落とす頃には松宮家の降伏の使者が届いた。
「お初にお目に掛かります。某、若狭武田家家臣武藤上野介が臣、伊崎兵衛亮義誠と申します」
「うむ。六角右衛門督弼頼である」
敵対する勢力を打ち倒しながら北側を北上して二日目。ようやく武田氏の居城である後瀬山城から使者が来た。先代の武田治部少輔でも遺児孫犬丸でもなく、留守居役の武藤家の家臣である。
陪臣の身でありながら、六角家当主への使者となるのはかなり厳しいだろう。幕臣達であれば、無礼なと言って口を開く事もしないかもしれない。
「して、如何用か?」
「畏れ入ります。然れば、此度の突然なる六角家大軍の入国、主上野介も青天の霹靂。大殿たる治部少輔様もまたどのような事かと驚愕しております。既に松宮家が領する瓜生なども攻め、接収されたと伺っております。松宮家は若狭武田家の忠臣。如何なるご所存かをお伺いしたく、主上野介が某を遣わせた次第にございます」
この者達には三好家の動向は伝えられていないのかもしれない。加えて主の武藤友益が越前朝倉に援軍を送り、その兵が金ヶ崎に集まっている事も知らない可能性がある。それでなければ、このような悠長な使者を引き受ける訳がない。
「ふむ。兵衛亮殿は聞かされておらぬのかもしれぬな。若狭を追放された逸見駿河守が丹波内藤に兵を借り、若狭に入国しようとしておる。既に武藤殿の城である石山城へ届いておるかもしれぬな。さて、六角家が何故若狭入りしたかとなれば、まずは我が伯母上の保護。治部少輔殿は現在武田氏館におられると聞く。現在の若狭には兵も残っておらず、内藤軍の後ろ盾を持った逸見軍が小浜まで来れば戦う事も逃げる事も危ういと感じた為である」
現状の若狭国高は六、七万石という所だろう。正直若狭一国を総動員しても三千の兵力が限度という所だ。その三千を京へ連れて行き、その場で当主が討ち死したのだ。今の若狭に国内を護る兵力がない。
内藤軍がどこまで出張って来るか分からないが、丹波国全体で約二十五万石、その内の二十万石近くに影響力を持つ内藤軍単体でも約五千強の兵力を持っている。二千の援軍を受けて逸見が若狭入りすれば、自身の旧領を奪還する事は容易いだろう。
「後瀬山にて治部少輔殿にお会いし、これを機に若狭に関しては某にお任せ頂くようにお話をするつもりだ」
「そ、それは若狭を略奪すると…」
「伊崎兵衛亮、詳細は国主代行である治部少輔殿とお話致す。其の方は急ぎ後瀬山に戻り、治部少輔殿にお伝え致せ。もし、会談に応じないというのであれば後瀬山に籠られるが良い。今の若狭は危うく、民達の不満も限界に達しておる。放置し、逸見の侵攻を許せば、若狭の民達は後瀬山に殺到するぞ。それこそ、若狭武田家の存亡に係わる。越前朝倉も動いており、加賀、越前の一向門徒は若狭で陽動を行っている節もある。朝倉に呑み込まれるか、一向門徒の暴動に呑み込まれるか、今の若狭はそれ程までに窮しておるのだ」
若狭の疲弊は今に始まった事ではない。長く続いた家督を巡る若狭国内での内乱。豪族達の反乱などが原因で民達の生活は困窮を極めている。日々の食事もままならず、収穫量も大幅に減り、何とか収穫した農産物は各国人や豪族達に奪われる。賑わっていた港は寂れ、商人達も近づかなくなった事で漁獲量や水揚げ量も減っている。
既に若狭からの流民、難民は近江に流れて来ている。近江各地で城下町の縄張りなどで今の近江は人手を必要としている為に問題は起こっていないが、既に若狭は崩壊寸前なのだ。
その事を理解していない若狭国人達に辟易する。
「其の方の役目は、この六角右衛門督弼頼の入国と治部少輔殿に面会を求めている旨を急ぎ後瀬山に伝える事だ。悠長に構えておれば、若宮、高浜は逸見に奪われるぞ」
「…承知致しました」
伊崎某は、悔し気に唇を噛み締めて六角の陣幕を出て行った。現在六角軍が陣幕を張り小休止している場所は平野。甲斐武田から別れ、安芸武田になる頃からの武田家譜代家臣一族である山県氏の領土である。
現山県家当主の山県下野守秀政もまた、武田伊豆守義統と共に戦死している。その為、居城である賀羅岳城に残っている僅かな家臣と、周辺の支城に残る僅かな兵しか残っていない。接収しても手間なので放置しているが、今後のこの場所をどうするかは後回しだな。
「さて、我らも行動を開始する。陽が落ちる前に小浜に入りたい」
「はっ、承知致しました」
北川を沿うように出ている道を一万の軍勢が歩む。二千の兵は目賀田忠朝に預け、玉置に置いて来ている。玉置城を拠点とし、我ら六角軍の帰路の確保をして貰っているのだ。それに加え、補給路の確保も含んでいる。今回の若狭出兵は時間が掛かると踏んでおり、高新郡からの補給に関しても近江に残っている父承禎入道の采配の元で行われていた。今回は二面行動の為、物資の量も相当な物であるが、築城狂いに鍛えられた勘定方達の奮闘によって、今回の作戦が成立しているのだ。遥か未来の黒い企業にならぬように気を付けながらも六角家を運営して行くのは、正直疲れる。
行軍を進め小浜に入る頃には西に見える大島の山々の向こうに沈む夕日が赤く大地を染めていた。日本海に向かって小浜の港があり、東側の山には茶磨山城があり、西側の山には後瀬山城が見える。茶磨山城は若狭守護代を務めた事もある若狭内藤氏の持つ城の一つであり、まるで後瀬山城にいる武田氏を監視するように相対した山に城を作る程の力を持っていたのだろう。
現当主である内藤重政は今回の援軍に同道しておらず、居城としている天ケ瀬城から後瀬山城の留守居役の武藤氏を牽制していたのだろう。
ただ、この混迷とした若狭の国の中で異様な程の威厳を持っているのが後瀬山城であろう。後瀬山自体が標高の高い山であり、その山の山頂に城を築いている。北側の麓には水堀を巡らせた常在するための館があり、そこが代々の武田家の住まいとなっているのだ。
山麓には寺なども建立されているが、それらが全て砦の役目を果たしており、いざこの城を落とそうとすれば、かなりの戦力差が無ければ難しい事が分かる。
現在であれば、守る人数も足りていない為、六角軍の侵攻を止める事も出来ずに落城となるだろうが、しっかりとした人数を揃えれば、数カ月は持つ城だと思った。
「開門~!」
六宿老以外での評定衆の中で今回同道している田屋石見守明政が城門に向かって大きく声を張り上げる。攻撃に来ている訳ではないが、突如敵勢が襲ってきても良いように、門から離れた場所で六角軍は陣形を組んでいた。
重々しい城門が音を立てて開き始める。田屋石見守も自陣に戻り急襲に備えた。だが、最悪の事態は起きる事無く、開門後には先導役が前に出て来た。
一万の軍勢全てを城内に入れる事は出来ず、田屋石見守を大将として兵を預け、三雲対馬守や永原太郎左衛門を連れ、城内へと入る。警護の兵も入れるが城内に残る兵も少ないだろう故に、そこまで多くはない。それに俺の身に万が一があった時の為に大原次郎左衛門高定を城外に残している。
「しかし、山城は不便だな」
「観音寺よりは…」
この時代は防御の方を重視して山城が多い。観音寺城もそうだが、山城は防御には優れているが日常的な事になれば不便の一言に尽きる。これを登城する為に毎日登らなければならない家臣達の身になれば、具合も悪くなろう。
やはり、安土山や八幡山も良いが、何処かで平城を作りたい。平城で三重ぐらいの水堀を作って、水に浮かぶ城のような…。良いな。観音寺山と安土山と八幡山を三角で結んだど真ん中に平城を建てたい。楽しそうだ。三重、四重で城壁を作り、小田原城のような総構えの城が良いな。楽しくなって来た。
「ここより先は氏館となります」
「ご苦労であった」
武田氏館と呼ばれる北側の麓に立てられた館に案内される。山頂まで登る必要がなかった事に安堵しながら、その中に護衛だけを連れて入る。
正直、本来は俺のような当主が城内に自ら入る事はない。使者を送り、敵勢力を全て城外に出してから俺のような当主が入るのが常識である。今回、家臣達の大半が俺の入城に反対したが、何を言っても聞かない事を理解し、腕よりの護衛達を付ける事で今に至っている。
それに、俺自体は若狭武田家を滅ぼしたい訳ではない。名目とはいえ伯母の救出を掲げているのだ。伯母に会いに行くのが俺以外では話にならないだろう。
下人に足を拭いてもらい、屋敷の中へと入る。護衛を五人連れて廊下を歩き、一つの部屋の前に案内された。豪華ではないが質素でもない。流石は分家とはいえ名門武田家の若狭国主の住居であると思える佇まいであった。
「失礼致します。六角右衛門督様をお連れ致しました」
従者が中に声を掛けると、低い返答が中から帰って来る。襖を空けた瞬間に斬りかかられる事も想定して護衛達も身構える。この状況である為、太刀の預かりは拒否している。その代わり、皆が右の腰に太刀を差し、容易に抜けないようにはしていた。
襖が開けられて中に入ると、一人の老人が静かに座っており、その横には四十を越えた頃合いの女性も座っている。これが武田治部少輔信豊か。若い頃はその武勇を持って丹後にまで領土を拡げ、京から逃げて来た管領細川晴元を匿う程の力を有していた武将。だが、一度の敗戦で求心力を失い、全てを失った愚将としても後世に伝わっている。
元々、分家の分家である若狭武田家は家臣団が緩かったのだろう。地侍や豪族達が己の所領を持ち、独立意識も強かった。俺も元々は家臣一同に呆れられ、諦められていた愚将だ。今は急激に変化する六角家を何とか保ってはいるが、一度の敗戦でそれが崩れればあっという間に六角家も崩壊するだろう。気張らねば。
「義叔父上、お初にお目に掛かります、六角右衛門督弼頼にございます。伯母上に於かれましても、ご壮健であられました事、心よりお喜び申し上げます」
二人の対面に座り、太刀を右側後ろに置く。俺の後ろに護衛二人が座り、その他の護衛は襖の外で待つ事になった。対する二人の顔は強張っていた。特に伯母の方は顔面蒼白と言っても良いような表情であった。
「…右衛門督殿、此度の突然の侵攻、どのようなご了見か?」
「お二人の元気な姿を拝見し、右衛門督、安堵致しました。伊豆守の事、心よりお悔やみ申し上げる。ですが、伊豆守殿亡き今、この若狭には西からも東からも手が伸びて来ております。西は逸見、東は朝倉。今の若狭にはどちらにも抗うだけの力はございませぬ。故に、某が若狭に入りました」
治部少輔から見れば、逸見だけは違うだろうが、朝倉も六角も大差ないだろう。当主を失い、多くの将と兵を失った若狭を手中に収めようと動いているだけに見える筈。後は心情の問題だけだ。
一応俺はこの治部少輔にとって甥にあたり、先だっての伊豆守との和睦にも尽力し、その折には何の報償も要求していない。
「留守居役の武藤殿は朝倉へ援軍を要求しようとされております。ですが、先の六角と浅井との戦の際も結局は浅井を見殺しにしたお家。正直頼むに値はしませぬ。最悪孫犬丸殿を越前に人質として連行される事となりましょう」
「…六角は違うと?」
「正直に申します。武田家では既に若狭は保てぬ所まで来ております。国内の豪族国人の統制は出来ず、民達の不満は限界まで達しております。最悪この後瀬山を一揆勢が覆う事もあり得る程。現に武藤殿は然も武田家の総意のように朝倉へ援軍を要請しようとしておりますが、それは治部少輔殿の御心に叶っておりますか?治部少輔殿程のお人であれば、他国勢力を自国に引き入れた結末を知っておりましょう。また、もしそれが治部少輔の命であったとすれば、それに対し異を唱えるのではなく、武力によって蜂起しようとしている粟屋も守護家に属する国人としてはあってはならぬ姿。このままでは若狭武田の家は時代に埋もれましょう」
最早、この若狭は国としての形を残してはいない。国人領主は勝手を行い、自領を使って好き勝手に動く。そこに国主である武田家の意は届かない。そして民心は離れ、商人達も他国へ流出し始めている。国人領主の誰かが若狭全土を掌握する程の力量を持っていれば良いが、現存の者達ではそれも叶わない。
六角領土と隣接する場所に第二の『百姓の持ちたる国』を作る訳にはいかないのだ。
「右衛門督殿、我々はどうするべきなのでしょう?」
今までただ青い顔をしていた伯母が震える声で問いかける。この方もまた管領代であった六角定頼の娘。武家の娘として、乱世を生きる女として気を張り生きて来たのだろう。
夫と息子の争いに心を痛め、それが収まれば我が子が死に、そして今住処すらも奪われようとしている。哀れには思う。それもこれも祖父が娘の嫁ぎ先を誤ったからであり、これから生まれてくるかもしれない我が娘はやはり嫁には出せぬと改めて思った。
「伯母上、何もご心配はいりませぬ。以後、治部少輔殿と共に近江にて静かにお過ごし下され。孫犬丸は某の小姓として側に置き、元服後には武田家の名跡をしっかりと守れる男に育てまする」
「我らに若狭を捨てよと申すか!?」
「それ以外に方法はござらぬ。六角としても、北の若狭を朝倉に牛耳られる訳には参りませぬ。三好を引き入れるような逸見など以ての外。ならば、我ら六角が領し、若狭国を豊かにし、民の安寧を図ります」
近江の北にあり、小浜を始め多くの港がある若狭を他勢力に取られる訳にはいかない。若狭からの俵物は京へ行くために近江を通り、近江国を潤す大事な資源だ。それを奪われれば、ようやく余裕が出て来た六角財政にも陰りが見えて来る。
特に朝倉となれば、六角の北を朝倉に覆われる形になってしまい、今後の動きがかなり制限されるだろう。絶対に許してはいけないのだ。
「治部少輔殿、いや義叔父上、思う所は多くおありでしょうが、ここは堪えて下され」
「…お華はどうなるのでしょう?」
お華…?
もしかして、武田義統の妻か?
足利義晴の娘であり、現公方の妹。
厄介な人物がここには居たな。
「ご安心下され。子から母を引き離す事はございませぬ。共に近江にお越し頂き、可能であれば義叔父上、伯母上と共に静かにお暮し頂ければと思うております。もしお望みとあれば、室町へお戻りになられる事も許します」
俺には母親がいない。この時代に来る前もいたかどうかが思い出せない。故に親の愛という物に関して余り執着はないつもりだが、親がおり、愛情を受ける事の出来るのならば受けられるだけ受ける方が良いだろう。
母親にしても子に愛情があるのであれば、何年も離れている兄などの場所よりも我が子の傍の方が良いだろう。あの公方の妹という所に引っ掛かりを覚えるが、孫犬丸と共に室町へ送っても都合の良い駒として使われ、六角に若狭を返せという使者を送られるだけだろうからな。
「ここに至っては、是非もなし。右衛門督殿の言葉に従おう」
「祝着至極」
これで名実共に若狭守護武田家は滅びた。以後、六角家臣の武田家となるだろう。孫犬丸に国主たる器量があるのならば、何処かの国で大きな土地を任せる事があるかもしれないが、そうでなければ家中で名は埋もれて行く事だろう。それでも家と血は残る。
「では、治部少輔殿は今しばらくこの氏館にてお過ごし下され。我が弟である大原次郎左衛門に兵を持たせ、後瀬山を護らせます故、ご安心召されよ」
立ち上がった俺はそのまま護衛を引き連れ、館を出る。後ろで呟くような言葉とすすり泣く声が小さく聞こえるが敢えて無視するように歩き続けた。
「石見守、次郎を頼む。次郎を主将としてこの後瀬山の守備を申し渡す。俺はこのまま高浜を目指し、砕導山城を接収する」
「…ご武運を」
城門を出たところで待機していた六角兵の内、大原家で千、田屋家で千の兵を後瀬山に残し、九千強の兵で高浜を目指して出立する。既に日も暮れ始めている為、小浜の町付近で野営を行い、夜明けとともに西進を始めた。
若狭は総石高の割には城の数が多い印象がある。日本海を右手に見ながら西へ進む道中は、近江出身者で形成されている六角軍にとって珍しい景色であり、士気が落ちる事はなかった。俺にとって海を見る事が初めてではない為、周囲の山々に築かれている城の方が気になる。現状捨て城が多く、このまま放置しておけば、賊共の拠点にされる恐れもあり、追っついた後、各城の破却か使用かを決めなければならないと考えていた。




