七 神様の所へ
小山の麓のロシエ村のミリーは、近頃は白燈教会の鐘より前に目が覚める。
空腹のためだ。
ミリーは、左右にいる父と母を起こさないようにそっと寝床から起き上がった。
腹をすぼめて腰の紐を強めに結ぶ。
まだ、冬の冷えが残っている。
家の壁は隙間だらけで、いくら山羊のそばで寝ていても寒い。
足の裏に当たる土間もとても冷たい。
家の真ん中にある炉の前にしゃがみ込む。
灰の中に、まだ熾火が残っているかを確かめる。
もし消えていたら、初めから火を起こさないといけない。大変だ。
暗がりの中、熾火が赤く光っている。
熾火はまだ残っていた。
「よかった」
ミリーはそっと息を吹きかけて、熾火を強く光らせる。
豆殻や藁くずをかけて火種を大きくしていく。
そして、細く割った薪を一本入れる。
薪を使っていいのかなと、ミリーは思ってしまう。
数年前なら、近くの森に行けば、枯れ枝や落ち木を拾ってくればよかった。
ところが、一昨年ぐらいから父が「行くな。国王様に罰せられる」と言うので拾えなくなった。
だから、薪は父が買ってくる。
高いって、いつも父は怒っていた。
ミリーはそんなことを思いながら、水瓶から水をすくい、鉄鍋に水を注ぐ。
鉄鍋には昨日食べた粥の残りが、こびりついていた。
これも今日のご飯のうちだ。
「おはよう」
母が目を覚ました。
母は近頃、具合がよくない。
顔色が悪いし、目元がやつれているし、少し身体を動かすとつらそうに、息を吐いていた。
でも、母は「大丈夫よ」と、いつもと同じように仕事をする。
だから、私が「お母さんの分までしないと!」って思ってる。
「ミリー、悪いね」
「ううん、お母さん、もう少し寝てて。
私がやっておくから」
「……心配かけてすまないね。
でも、私は大丈夫だから」
母はゆっくりと顔を洗った。終わると、また小さく息を吐いた。
ミリーは母の動きをちらちらと見ながら、鍋に雑穀の粉、豆殻を砕いた粉を入れて、塩をほんの少し入れる。
まだ食べ物に困らなかった頃は、大麦や豆、干した山菜や塩漬け肉の欠片が入っていたりしたけど、近頃はそういうものはない。
「おはよう、ハンナ、ミリー」
父が起きてきた。
父も痩せていて顔色が悪いし、よくため息をついている。
父は顔を洗うと、古い上着を羽織り、鍬を持った。
「畑の溝を見てくる。昼には戻る」
「わかりました。
いってらっしゃい」
ミリーは日課の家畜の世話に取りかかる。
去年までは、牛・山羊・豚・鶏がいたが、今は山羊一頭、鶏二羽だけ。
でも、牛の囲いや豚の寝床は空っぽで、それを見ると寂しくなる。
豚を森に連れていき、ドングリを食べさせることもなくなった。
山羊の乳搾りを始めるが、指に上手く力が入らない。
それでもなんとか力を入れて搾ると、木の器の底に、少しだけ白い乳が落ちた。
前はもっと簡単にできたのに。
鶏は今日も卵を産んでいない。
ミリーは卵を想像するとお腹が鳴った。
家畜の糞の掃除をしながら思う。
どうしてこんなに食べ物がないんだろう。
お父さんは、小麦が二年続けて不作だからだって言う。
でも、それだけなんだろうか?
父と母は、お腹を鳴らす自分のために、「もう少し食べなさい」と自分の分を分けてくれる。
でも、あんなに痩せてしまっている父と母を見ると、自分のせいで痩せてしまっているんだって思えて、分けてもらう粥や黒パンの欠片を見ると胸が痛くなってしまう。
ミリーはそんなとき、自分のせいで父と母が死んでしまうんじゃないか、家から出て行った方がいいんじゃないかという考えが頭に浮かぶ。
でも、行くところがなかった。
共同井戸への水くみ、家畜部屋の掃除、母のそばで麻糸を紡いでいる時。
何をしていても、父と母の身体の具合が心配だった。
特に小山を見ると、悲しい、惨めな気持ちになる。
どうして、小山で兎や野ねずみを捕ったら駄目なんだろう。
二年前までは、よかったのに。
ミリーは小山をじっと見た。
昼前、ようやく食事の時間になった。
母が、朝から煮ている粥を木の椀によそってくれる。
父と母の木の椀の粥を見ると、ミリーよりも少なかった。
「こんなにいいよ。
お父さんとお母さん、食べて」
「いいのよ。
私はそんなにお腹がすいていないから」
「ミリー。食べなさい。
ほら、これも」
父が黒パンの小さな欠片をミリーに渡してくれる。
「でも……」
「いいんだ。
お前は大きくなって、お嫁にいかなきゃいけないんだぞ?
小っちゃいままじゃお嫁にいけないぞ?」
父がミリーの頭を撫でてくれる。
頭の上の父の手は軽かった。
父はこけた頬に皺を寄せて、笑ってみせた。
ミリーは泣きながら、食べた。
「山を見ろっ!
何だっ、あれは!」
「ついさっきまでなかったぞ!」
ちょうど、ミリーが粥の最後を呑み込んだ時だった。
家の外から何人もの大声が聞こえた。
「何かあったのかしら?」
「見てこよう」
父が出て行く。
ミリーは父に慌ててついて行った。
外では村人たちが、小山を指さしていた。
小山の頂上には、建物があった。
朝まで、何もなかった。
いつの間にか、白い建物がいくつか建っている。
白い建物は、光を浴びて、輝いていた。
見たことも、聞いたこともない、美しい建物だった。
ミリーは夢を見ているような気がした。
あの建物は神様のものだろうか?
神様があそこに住んでいるんだろうか?
その後、ミリーは菜園で溝の掃除をしていたが、あの小山の上の建物が気になって仕方がなかった。
やっぱり、夢なんじゃないかと思って、何度も見る。
小山の上の白い建物はずっと光っている。
畝の崩れたところを手で直し、炉の灰を撒いている時、ふと思った。
神様が自分を迎えに来てくれたんじゃないかな?
ミリーは家に戻り、外から中の母を見る。
母は糸を紡ぐ手を止め、俯いて目をしかめていた。
ミリーは畑仕事をしている父を見に行った。
父はなんとか力を振り絞って、畑の溝の泥を掻き出していた。
ミリーは心の中で、父と母に伝えた。
わたしの分のごはん、食べてね。
天国で、神様と一緒に見てるからね。
ミリーは小山の頂上の白い建物へ向かった。
神様のところへ行こう。
きっと天国へ連れて行ってくださる。
ミリーは豚を森へ連れて歩いていた道を歩いて行く。
道は荒れていた。
王様に、入ってはいけないと言われてから、村人が誰も入らなくなったせいだろう。
枯れ枝や落ち木がいっぱい落ちている。
どうして枯れ枝が、こんなにいっぱいあるのに使ったらいけないんだろう。
いつも歩いていた道を越えて進んでいく。
もう知らない道だ。
遠くで動物の鳴き声がする。
急に鳥が飛び立つ音が聞こえる。
自分の知らない怖い動物がいるのかもと不安になる。
道が二つに分かれていて、一つは炭焼き場へ続く道だと父に聞いたことがある。
もう一つは、落ち葉と枯れ草に半ば埋もれて、獣道のようになっている。
ミリーは怖くなったが、道に足を踏み入れる。
こんな所で王様の山番に見つかってしまったら、神様のところへ行くだけだと言っても許してもらえないだろう。
お腹もひどく減ってきたし、足に力が入らない。
でも、家に戻ったらきっとお父さんとお母さんが自分のせいで無理して死んでしまう。
それだけは嫌だ。
息が上がってきた。
休みたくなる。
でも一度休んだら、二度と神様のところへ行けなくなる気がした。
それはだめだ。
こんなところで死んでしまったら、お父さんとお母さんが悲しむ。
ちゃんと神様のところまで行かないと。
ミリーは坂道を登る。
膝に手を当てながら、力を振り絞って登る。
どれだけ登ったのだろう。
突然、森を抜け、頂上が見えてきた。
白い門が立っていた。
縁が光を受けて輝いている。
その門の間に、光り輝く人の姿があった。
ああ、神様に会えたんだ。
ミリーの胸の奥に、白く温かな安心と歓びが生まれた。
それは、これまでの自分が知らなかったものだった。
内側から膨らんで、指先、髪の先まで、全身に行き渡り、身体ごと白い光に包まれていくようだった。
早く。
神様のもとへ。
もう目の前に神様がいる。
思うように動かない足に必死に力を込める。
早く。
神様がいなくなってしまわないうちに。
足がもつれた。
身体が倒れていく。
神様に向かって手を伸ばした。
ミリーは目が覚めた。
ひどくぼんやりしているし、身体がひどくだるい。
だが、背中に感じる柔らかなものは、藁の寝床とはまるで違う。
身体が沈み込むほどやわらかで、痛いところをそっと支えてくれていて、気持ちがいい。
それに身体の上に掛けられた布も、軽く温かで、すごく肌触りがいい。
寝ている時にこんなに気持ちいいのは、生まれて初めてだ。
「ええ。小麦の不作が二年続きました。
……税で、領主のグリューネ様に種麦まで取られてしまいました。
それに、この小山は国王様のものだからと、山に入ることも禁じられて、薪まで買わなくてはならないのです。
家畜はほとんど手放して、手元にほとんど残っていません。
ミリーにも満足に食べさせてやれていないんです」
すぐそばで、父の絞るような声が聞こえてきた。
「……グリューネに国王か」
聞いたことがない声が聞こえてきた。
その声は低く、静かな怒りを含んでいた。
ミリーは目を開けて、父の声をする方を見た。
「お父さん!」
「ミ、ミリーっ!」
父の髭が頬に当たる。
「無事でよかった……」
髭がくすぐったい。
涙が出てきた。
「うっ……うっ……」
「どうして、こんなことを……」
「私がいたら……私が食べて……お父さんとお母さんが死んじゃうって思って。
それで私、山の上に行って、神様に会おうと思ったの」
「死ぬもんか、お前を置いてっ」
父の髭とミリーの頬が涙で濡れた。
「村には食糧を送る。
安心してくれ」
「えっ、でも、そんな……」
「大丈夫だ」
食べ物。
お父さんとお母さんが、食べられる。
ミリーは父の肩越しに、その男性を見た。
あの時見た、神様。
ミリーには、夜の魔晶灯に白く照らされた部屋の中で、その人だけが輝いて見えた。
大きくて、優しそうで、角が生えている。
ミリーは、神様の穏やかな眼差しを見つめた。
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