二十 出発の朝
「ん……」
障子越しの朝の光が、寝室を白くやわらかに照らしていた。
グリューネ家に出向いた夜から、三日後の朝だった。
トウマは目を覚ました。
白い小袖の寝衣の胸元が乱れている。
神庭の奥にある、東方風の日本家屋めいた離宮の主寝室。
ゲーム時代は、この部屋でセーブしてゲームを終えていた。
この寝室で一日を始めると、ステータスに休息ボーナスがついたからだ。
トウマは、上半身を起こして、眠気を払うように大きく伸びをした。
「トウマ様、お目覚めでございますか?」
次の間から、控えめな女性の声がした。
侍女のコハル・ミナセだ。
「ああ」
「朝餉の支度が整っております。
お支度をお手伝いいたします」
「……ああ」
トウマが返事をする。
コハルが、すっと音を立てずに襖を開けた。
コハルは、正座をして、両手を畳につき、頭を下げた。
「おはようございます。トウマ様」
こういう挨拶は、どうもなれない。
かなり、偉そうな気がしてくる。
「おはよう。コハル」
ぽっとコハルの頬に赤みがさした。
「今日もいい天気です」
コハルは言いながら、障子を開けた。
眩しい陽の光が入ってきた。
池の水面が、淡いオレンジ色に光っていた。
静かだ。
普段なら聞こえるはずの水音がない。
竜脈が止まり、神泉に水が湧いていないため、水が池へ流れ込んでこないからだ。
「では、洗面の間へご案内いたします」
「……あ、ああ」
隣にある次の間を通り、その隣にある洗面の間に入った。
黒漆の台に、洗面桶と白磁の水差しが用意されていた。
……トウマは、ここでコハルにこの三日間、顔を洗ってもらっているのだ。
これ、なんとかならないのか。
顔ぐらい自分で洗えるし、恥ずかしいんだが。
「な、なあ、自分で顔を洗おうと思うんだが……」
「いけません。
トウマ様のお手を煩わせるなど……。
それに、トウマ様のお顔を洗って差し上げるのは、当番の特権ですから」
コハルが、嬉しそうにトウマの前へ立った。
「申し訳ございません。
トウマ様、お顔を少し下げていただけますか?」
……近いんだが。
トウマは、角がコハルの上半身にあたらないように気をつけて、慎重に顔を下げる。
視界には、コハルの胸元がある。
あわてて、目をつむった。
コハルが桶に手を入れた。
水をすくったコハルの手が、トウマの顔を撫でた。
「っ……」
「トウマ様。
お水、冷たすぎませんか~?」
コハルの指先が、額から顎へと丁寧に滑っていく。
「……っ、あ、ああ。
冷たくて、気持ちいい」
水加減より、この距離を何とかしてほしい。
コハルはトウマの顔を洗い終わると、今度は白い手拭いで丁寧に顔を押さえ始めた。
「は~い。動いてはいけませんよ。
まだお顔にお水が残っておりますからね~」
「いや、自分で拭ける……」
「存じておりますよ~。
もう少しだけ、じっとしててくださいね~」
まるで保母さんに世話をされているような気がしてきた。
トウマは顔が火照ってきた。
この後、コハルに手伝われ、トウマは白い寝衣から普段の黒衣へ着替えた。
顔を洗われた後だったせいか、もはや抵抗する気力は余り残っていなかった。
朝餉の間では、すでに膳が整えられていた。
焼いた薄いパン。
香草を混ぜた卵焼き。
干し肉を刻んだ温かいスープ。
香草茶。
トウマは軽く手を合わせた。
「いただきます」
トウマはパンを手でちぎって口に入れた。
質素ではない。
だが、ゲーム時代の朝食より控えめだ。
これも神の畑が機能していないためだ。
その時、朝餉の間の襖が静かに開いた。
入ってきたのは、侍女長のアリシアだった。
濃紺の侍女長服をまとい、胸元には神庭紋がある。
艶のある黒髪をきっちりと結い、淡い琥珀色の瞳を伏せた姿には、侍女長としての静かな威厳があった。
アリシア・ベル・ホワイトベルは神庭の侍女たちを統括し、トウマの私室と神庭の生活全般を管理している。
ゲーム時代は、こうして朝食時に、食糧備蓄の状況などを知らせてくれていた。
「トウマ様。
おはようございます。
お食事中、失礼いたします。
朝のご報告を申し上げてよろしいでしょうか」
「ああ。頼む」
「まず、厨房よりご報告いたします……」
アリシアは報告を始めた。
ざっと言えば、食材の備蓄が少ないため、使用量を落としている。
主井戸は復旧したが、まだ水量が足りず、節水を続けている。
畜舎は維持できている。だが、飼葉の備蓄を消費している。
神の畑は、枯れてはいないが、成長が止まっている。香草、果樹、牧草区画も同様。
ヴァルミリアから戻ってきて、すぐに竜脈探しに出るつもりだった。
だが、セレスティアが準備を整える時間を求めたため、出発を見送っていた。
それも、今日で終わりだ。
「アリシア。
俺はこれから、竜脈を探しに行く」
「承知しました」
「悪いが、またしばらく、留守にする。
後は任せた」
「お任せください。
トウマ様のお帰りまで、神庭の内は乱れぬよう預かります」
朝餉を終えると、トウマは離宮を離れた。
向かったのは、神庭の東外縁にある小麦区画だ。
小山の上とは思えないほど、広く平らな土地だ。
ゲーム時代に神庭の地形をトウマは整えてきた。
中でも、小麦畑は広大だ。
ゲーム時代では神の畑は、機能していれば二週間に一度収穫できた。
年間の収穫量は、二百五十人の年間消費量の四倍になる。
畑の前で、一人の女性が待っていた。
農園管理長、フィオナ・ヴェルデリーフだ。
エルフ族の若い女性だ。
亜麻色の長い髪を一本の三つ編みにまとめている。
朝日の中で、長く尖った耳が淡く透けて見えた。
生成りの作業服に深緑の上着を羽織り、腰には剪定鋏と革手袋を下げていた。
「お待ちしておりました、トウマ様」
フィオナは畑の縁で一礼した。
「ああ。状況を説明してくれ」
フィオナは小麦の穂をそっと摘まみ、トウマに見せた。
「成長が止まっています。
見て回りましたが、どの区画も同じです。
枯れているところは、今のところ見当たりません」
トウマは、小麦畑から他の区画へ視線を向けた。
牧草は、刈り取られた跡が低く残ったままだ。
トマト畑には、赤い実が見えない。
ラベンダー畑は、紫色が見えない。
神泉は枯れてはいない。
だが、水位がかなり下がっている。
竜脈の接続が戻らなければ、いずれ神泉は枯れ、神の畑は完全に機能を停止するかもしれない。
「まだ、神庭に残った力は尽きてはいない。
だが、成長させるほどの力はないというところか」
トウマは青い穂を見た。
「急がないと、そのうち枯れるかもしれないな」
「……はい」
「状態の記録を引き続き頼む」
「はい。
ロシエ村側の試験畑ですが……」
「ああ。
色々試してくれ。
かつてと同じように、神庭から周囲へ作物を広げていくぞ」
「はい。
お任せください」
「俺は、ロシエ村を見てから、竜脈を探す。
留守の間、任せた」
フィオナは、深緑の上着の胸元に手を当てた。
「トウマ様がお戻りになるまで、畑を守ります」
トウマは神庭の門へ向かった。
竜脈探索の同行者を誰にするかで、少し揉めた。
リュミエラは竜脈に強い関心がある。
だが、結界を張って神庭を守ってもらわなくてはならない。
ヴァルガリオは井戸掘り。
主井戸は復旧したが、他の井戸を掘り進めなければならない。
エルドレオンはロシエ村外縁の防衛設備の構築だ。
東のリーヴェ川から敵が上陸してくる可能性がある。そこへの備えが必要だ。
そこで、またロルフとシェイドリィが争った。
今回はさらにセレスティアが参戦した。
「ダンジョンへ入る可能性がある以上、結界を張れる者が必要です。
私は、それができます」
セレスティアは宰相だ。
戦闘職ではない。
だが、アルヴ族でもある。
エルフ系種族の中でも、ハイエルフよりさらに古い血を引く上位種族だ。
攻撃魔法も、結界魔法も扱える。
宰相なのだから、することが山ほどあるだろう。
そう反論したシェイドリィたちに、セレスティアは涼しい顔で答えた。
「私が直接しなければならないことは、すでに済ませました。
後は、部下の仕事です」
結局、セレスティアの同行が決まった。
だが、シェイドリィも諦めなかった。
「ダンジョンといえば、罠があるかもしれませんわ。
セレスティア様は、罠の解除までできません。
そこは、自分の仕事です」
その一言で、シェイドリィも同行が決まった。
ロルフは最後まで不満そうだった。
ヴァルミリア潜入の時に続き、今回もシェイドリィに役目を奪われた形だ。
結局、またもや泣く泣く引き下がった。
門では、セレスティアとシェイドリィが待っていた。
トウマは二人を連れて、ロシエ村へと向かった。
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