二 拠点ごと異世界転生
「トウマ様っ、トウマ様っ」
美しい声が聞こえた。
耳に触れるだけで、胸の奥がほどけるような声だった。
穏やかで、澄んでいて、それでいて今はひどく切羽詰まっている。
この声を、燈真は知っている。
「……セレスティア?」
「トウマ様……お戻りくださったのですね」
燈真はなんとか目を開けた。
ゲーム《エーテルガルド ~神の庭~》で何度も見てきた二〇代半ばほどの女性がいた。
宰相、セレスティア・フォン・アルヴェイン。
だが、画面越しに見ていた彼女とは、あまりにも違っている。解像度が違うなんてもんじゃない。絵でも、3Dモデルでもない。
美しい紫水晶色の瞳。
淡いラベンダーがかった銀髪はゆるく後ろでまとめられているが、今は乱れて、燈真の額にわずかにかかっている。
耳の先は少しだけ尖っている。アルヴ族というエルフに似た長命種の特徴だ。
今、燈真の頭は、そのセレスティアの膝の上にあった。
普段の涼やかな微笑が消え、セレスティアは泣き出しそうな顔で燈真を見下ろしている。
どういうことだ……。
死んだと思ったら、ゲームのNPCと会話している。
ネット小説の定番、異世界転生なのか?
母さんは?
燈真は重い頭をなんとか動かして、周囲を探す。
周囲にいるのは、燈真を取り囲む兵士たちだけだった。
ここには、母はいなかった。
燈真は目をつむった。
「トウマ様……ご無事でよかった」
セレスティアに、髪を梳くように頭を撫でられている。
後頭部に感じる柔らかく、温かい太腿。
子供の頃、母に甘えて膝枕をしてもらった記憶が甦る。
涙が出てきた。
同時に、胸が激しい苦痛に襲われた。
「うっ」
「トウマ様っ、どうか、ゆっくり息をなさってください」
燈真が息を詰まらせるように荒く呼吸をすると、セレスティアが燈真の胸に手を当てた。
セレスティアの掌の温もりが染みこんでくる。
安心する。
その瞬間、また母の顔が思い浮かんだ。
血まみれで倒れていた母。
苦しみに歪んだ顔。
力を失っていた重い身体。
守れなかった。
胸の奥が、ぎりっと締め付けられた。
「トウマ様っ」
セレスティアが燈真の胸の痛みを取り払うように、何度もさすってくれる。
燈真はセレスティアの掌の温もりに気持ちを集中していると、徐々に痛みが薄らいできた。
「……ありがとう。大丈夫」
燈真はまだ胸が痛んでいたが、少しずつ呼吸は落ち着いてきた。
ふと、燈真は、自分の頭を撫でるセレスティアの指先が時折、額の上にある硬い突起に触れていることに気づいた。
――角だ。
ゲームの中で燈真の操っていたキャラクターは、クラウドファンディング特典でもらった特別種族《羅刹鬼人族・神血種》。
簡単に言えば、チートな鬼だ。
頭に角があるってことは、やはり俺はゲームで使ってたトウマになってるってことだよな。
燈真はあらためて、周囲を見回した。
十数人の兵士が燈真を囲んでいた。倒れていた燈真を守ってくれていたのだろうか。
その中には、配下の突撃隊長ヴァルガリオがいた。
見た目、四十代前半の巨漢。種族は、燈真と同じ鬼系統の戦鬼族。
額の左右から、黒褐色の太い角が上へ突き出している。
ゲームの中では、戦闘狂の猛将として恐れられていた。
ヴァルガリオの熾火のような赤銅色の瞳には、不器用な安堵が浮かんでいた。
ヴァルガリオは目が合うと牙をのぞかせるように無骨に笑った。
「旦那、ご無事で」
「ん、ああ」
セレスティアに膝枕されている姿を見られているのはきまりが悪い。
燈真はだるい身体をなんとか起こして、セレスティアから離れた。
その場であぐらをかく。
誤魔化すように咳払いをした。
何かを言わなければならない。
「セレスティア……状況を説明してくれ」
口に出たのは、ゲームと同じ台詞だった。
ゲームでは燈真は王で、セレスティアは宰相。
領地の状況、配下の状態、発生中のイベント。
これらを確認する時、いつも選んでいた言葉だ。
「新年会中、トウマ様は視線も変わらないまま、全く反応されなくなりました。
しばらくして、突然、お姿が消え、正門近いこの『神の畑』で倒れておられたのです」
「……なるほど」
死んだ時に、ゲームのトウマに自分が入り込んだ感じだろうか。
「拠点・神庭の周囲の状況が変化しています。
百メートルほどの小山の上に神庭があるのは同じですが、周囲の地形が変わっています。
麓の村や都市も大きさ・数・位置が違っています。
神庭ごと転移しているとしか考えられません」
ゲームのキャラに転生しているが、ゲームとは別の世界ということか。
「転移の影響なのか、現在、井戸の水位が低下しています。
影務局長シェイドリィに水源調査を命じております」
転移したせいで、元の水脈から外れたのかもしれない。
ここには二百五十人いる。
水の確保は急務だ。
「ありがとう、セレスティア。
元からある井戸ももっと深く掘ってみてもいいかもしれない。
麓まで水を汲みに行くのは手間がかかるからな。
残っている水を貯水槽へ移して、やってみよう。
エルドレオンは……守備をしているな……ヴァルガリオ、井戸を任せる」
「承知した、旦那。
井戸なら野戦陣地で腐るほど掘ってきた。
水がねえ陣は、戦う前に死んじまう。すぐに兵を動かしますぜ」
ヴァルガリオは牙をのぞかせて笑うと、兵に指示してその場を去った。
「まだ他にもあります。
神泉の霊水が枯渇しています。
結界も機能していません。
シェイドリィには水源調査に併せて、周辺警戒も行わせています」
「神泉と結界が機能停止か」
ゲーム《エーテルガルド ~神の庭~》は、異世界に転生した主人公が、最初に神様から「神の庭」を与えられる。
だが、「神の庭」はそのままでは機能しない。
竜脈を接続しなければならなかった。
竜脈を接続すると、神泉に水が湧く。
「神の庭」にある畑は、「神の畑」となり、農作物を二週間で収穫できたり、希少な植物が採れるようになる。
さらに、敵の攻撃から守ってくれる結界も張られる。
「竜脈を接続する必要があるな。
食料の備蓄は?」
「通常配給なら約三十日分、節約配給なら四十五日分です」
とりあえず助かった。
ゲームではたまに飢饉が起きる。
だから収穫の多い地域から小麦を輸送するまでの間、領内の村に配給するために備蓄していた。
だが、家畜はそんなにいないはず。肉はどこかで調達する必要があるだろう。
「他には?」
「現在のところ、他にはありません」
「じゃあ、世界を見てみるか」
セレスティアが頷くのを見てから、正門を目指して歩き始める。
セレスティアは少し後ろに下がってついてきた。
しかし、いきなり組織のトップとして二百五十人を率いることになるとは。
ゲームでは何度もやってきた。
だが、今ここにいる二百五十人は、画面の中の数字ではない。
燈真には、人を率いた経験などなかった。
高校、大学、仕事、いつも、父の介護が生活の中心だった。
母と父を守る。
それが燈真の目標だった。
だが、できなかった。
そんな自分が二百五十人の命を預かる。
大丈夫なのか。
全く自信がない。
だが、その不安を口にするのは無責任だ。
主である自分が崩れれば、組織まで崩れるだろう。
やがて、正門にたどり着いた。
石造りの門の間に立つ。
燈真は、頬に風を受けた。
拠点のある小山の麓には、村落が点在し、その周囲を畑が取り囲んでいる。
大きな川がゆったりと流れている。
川沿いには城壁を備えた都市が見える。
尖塔、煙突、船着き場。
城門へと向かう人々。
桟橋へ進む船。
川の向こうには深い森が横たわり、さらに遠く、青く霞んだ山脈が空と大地を分けていた。
ゲームで見た景色とはまるで違う。
風が土と草と水の匂いを運んでくる。
眼下には、果てしない大地が広がっていた。
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