十八 黒帆
トウマとシェイドリィは、ガイゼルとの会談の後、銀水館を出て歩いていた。
すでに水路沿いの道は、闇に包まれていた。
篝火がぽつんぽつんと道と水路を照らしていた。
…………乗り切った。
シェイドリィに顔色を悟られないように、無表情で街を歩く。
神庭のあやふやな立場を認めさせるだけでも、上出来だった。
グリューネ家の処分。
砦の小山の管理。
その両方を得られた。
望みうる限りの成果だった。
だが、今後、ガイゼルは神庭の弱みを握ろうとするかもしれない。
気さくで憎めない男だが、油断のならない男だとも感じた。
こんなことを考えながら歩いていると、ノクティアが音もなく現れた。
月白色の肌。
黒灰色の長髪は、後頭部で縦に巻きあげられ、黒漆の髪留めで乱れなく留められている。
身体に沿った黒革の隠密服は、闇に沈んでいた。
淡い葡萄紫の瞳に、表情はない。
その白い肌だけが、水路の灯に照らされて冷たく浮かんでいた。
「トウマ様。
グリューネ家に動きがありました。
黒帆を雇い、ラウレンツ殿ら四名の暗殺を依頼したようです」
シェイドリィがトウマを見て頷いた。
「黒帆を潰せ。
依頼の証拠を押さえろ。
情報を握る者を数名捕まえろ。
他は……始末してかまわん。
必要な部下を連れて行け」
「はっ」
ノクティアは一礼し、音もなく闇に紛れた。
ヴァルミリア市内の東区画、旧倉庫街。
古い水路沿いにある、使われなくなった荷預かり倉庫。
表向きは廃業したその倉庫が黒帆の本部だった。
地下には、幹部専用の部屋があった。
低い天井には古い木梁が走り、魔晶灯が吊られている。
黒帆の幹部――ブルゴ、バルド、ドブロ、ミロシュの四人は、そこで酒をあおっていた。
「バルド、どうする?」
「ブルゴ兄貴。
まずは、ラウレンツら四人の偵察をさせる」
ヴァシミ砦の壊滅で、手下が百人近く減った。
残りは、全部で五十ほど。
だが、行方不明のガロを除いて、幹部は無事だ。
金が入れば立て直せる。
元々は、あのくそったれな慈善院から一緒に逃げ出したこの四人で、ここまでやって来た。
何が慈善院だ。
白燈教会のクソどもが。
善人面して、裏で娼館をやりやがって。
娼婦にガキができれば、女は娼婦、男は奴隷行きだ。
俺たち四人は、魔族と娼婦のガキだ。
どんなひどい目に遭うか分からねえ。
あの雨の夜、ブルゴ兄貴が分厚い扉を破壊して、俺たちは脱走した。
その後、黒帆に入った。
俺たちはのし上がった。
上の幹部を皆殺しにして、俺たちが黒帆を奪った。
「バルド兄貴、とっとと殺っちまおうぜ」
「ドブロ、待て。
夜の警護を確認してからだ」
「ドブロ、お前はもう少し頭を使えよ」
「うるせえっ、ミロシュ。
お前は帳簿とにらめっこしてりゃいいんだよっ」
昼に騒ぎを起こすと、総督府による締め付けが厳しくなる。
今後の仕事も考えりゃあ、昼は駄目だ。
護衛の人数は、倉庫屋のラウレンツに三人。
他の三人には、一人ずつ。
まずは、護衛が薄い三人を襲う。
自分がヨハン。
ドブロはマテオ。
ミロシュはヴィクトル。
自分がヨハンを半殺しにして、ラウレンツに助けを請わせる文を書かせる。
書かせたら、殺す。
文は手下にラウレンツへ届けさせる。
ラウレンツの護衛がヨハンへ出向いたら、その分、ラウレンツの守りは手薄になる。
一人でも二人でも引き剥がせりゃあ、それでいい。
自分はヨハンを殺した後、ブルゴ兄貴と合流する。
その後、ラウレンツを襲う。
ブルゴ兄貴は、強い。
神庭のトウマとかいう野郎に負けるとは思えねえ。
だが、ヴァシミ砦を潰した連中だ。
油断はできねえ。
二人で、当たる。
そう考えていた時だった。
……上にいる連中の声が聞こえねえ。
耳を澄ます。
歩く音も聞こえない。
……静かすぎる。
「ブルゴ兄貴」
「……どうした」
ブルゴは、眉を寄せた。
「ドブロ、上の様子を見てこい」
ドブロはわかったとうなずき、扉の方へ歩いて行った。
ドブロは扉を開けた。
一歩、足を踏み出した。
だが、それから動かない。
「ドブロ、どうした?」
ドブロの踵が床から離れた。
「おい、何やってんだ?
早く見てこい」
ドブロが宙に浮き始めた。
「ドブロっ!」
パリンッ。
音と同時に、扉の辺りが暗闇になった。
魔晶灯が一つ砕かれた。
「敵だっ!」
ドブロの身体は闇に覆われてほとんど見えない。
ただ、足の先が見える程度だ。
バルドは闇を睨みつつ、五感を研ぎ澄ませた。
匂い。音。
バルドは自分の父親を知らない。
だが、明らかに魔狼族の鼻と耳を受け継いでいた。
この外見で散々蔑まれた。
だが、殺し合いでは役に立った。
追跡で失敗したことはなかった。
不意打ちを防ぐこともできた。
……感じねえ。
……部屋の外で待ち構えてやがるのか。
どんっ。
ドブロの身体が床に落ちた。
ドブロの両目は見開かれたままだ。
口から泡を吹いている。
ピクリとも動かない。
簡単にドブロが殺られた。
ドブロは猪族混じりで、切り込み隊長だ。かなり強い。
それが……。
……何が、どうなってやがる。
闇から、足音がした。
黒革に包まれた足が一歩踏み出された。
一歩。
二歩。
全身を黒革に包まれた女が現れた。
髪は後ろでまとめてあり、首筋の月白色が薄暗い部屋に浮き出ていた。
淡い葡萄紫の瞳が、無表情にブルゴを見据えている。
ミロシュが短刀を握りしめた。
「クソがぁっ!」
女は、ミロシュの怒鳴り声にも目を向けなかった。
ミロシュは、短刀を振りかぶって、女を殺りに出た。
「動くなっ!
動けば殺られるっ!」
バルドは、叫んだ。
ドブロと同じになるぞと言おうとした。
ミロシュは短刀を振りかぶったまま、動きを止めた。
「ミロシュっ」
バルドは思わず、ミロシュへ向かってわずかに腕を動かしていた。
動いてしまった。
突き出した腕は細い糸に縛られていた。
いや、全身が拘束されていた。
いつの間にか、見えない糸が身体を覆っていたのだ。
そして、動くと、糸が締まる。
まるで、蜘蛛の巣に囚われた獲物のようだった。
首や腕、足に食い込んだ細く固い糸が、皮膚を裂いた。
そこから痺れが、あっという間に全身へ広がった。
腕の針のような毛も役に立たない。
もう、動けない。
声も出せない。
「バルドっ!」
ブルゴがバルドを見て叫んだ。
バルドはブルゴに動くなと声をかけたいが叶わない。
ブルゴが全身に力を漲らせて叫んだ。
「《毒喰い》《獣血猛》《角砕き》」
ブルゴが、両の額から左右に伸びた大角を、女めがけて突き出した。
そのまま、肩から突っ込んだ。
ブルゴの身体を糸が拘束する。
糸がブルゴの首、腕、足の皮膚を裂く。
だが、ブルゴの動きは止まらない。
糸の拘束も、毒もブルゴを止められなかった。
「おおおぉっ」
ブルゴが、突進した。
すげえ迫力だ。
まさに、猛牛。
拘束された牛が縄を引きちぎりながら、獲物へ向かって突進していくかのようだ。
だが、女は貫かれる寸前にスッと避けた。
ブルゴが身体ごと石壁にぶつかった。
どんっ。ガラガラッ。
石壁が衝突で砕けた。
ブルゴが、石壁にめり込んだ角を抜いた。
化け物だ。
あの突進で、ヴァシミ砦の分厚い扉を粉砕して、そのまま幹部全員を串刺しにした。
バルドは、あの時の幹部たちの大穴の開いた腹を思い出した。
あの女も、すぐにああなる。
「うおおおぉっ!」
ブルゴが雄叫びを上げ、再び女に角を向けた。
「《角砕き》!」
ブルゴが、地響きを立てながら、女に襲いかかる。
当たった!
すっ。
いや、避けた。女は、また避けた。
当たる直前に、わずかに半歩、身をずらしただけだった。
がんっ。どんっ。ガラガラッ……。
ブルゴは卓をはじき飛ばして、柱に亀裂を入れた。
ブルゴが、女を睨みつける。
「うおおおぉぉぉっ!
《角暴砕》!」
ブルゴの全身が赤く染まった。
全身の筋肉が膨れあがった。
巨体がさらに巨大になった。
出た!
あれが当たれば、何もかも粉砕しちまう。
しかも、速度も半端ねえ。
あの技でどれだけのヴァルミリアの強者を屠ってきたか。
絶対に、勝てるはずだ。
ブルゴが、角を左右に振った。
どんっ。
ブルゴは凄まじい力で床を蹴った。
瞬く間に、女に迫った。
突き刺さった!
そう思った。
ブルゴの角が女の胸に当たる直前で止まっていた。
ブルゴの身体が――角、腕、胴体、足、全てが動作の途中で止まっていた。
ブルゴの身体が、わずかに震えている。
ブルゴが、口を開けて、何かを言おうとした。
女の指が、わずかに動いた。
プシュッ!
ブルゴの喉が裂けた。
勢いよく血飛沫が飛び散った。
ブルゴの喉から、笛のような音が鳴った。
血飛沫が、床に溜まっていく。
女が冷徹にブルゴを観察している。
即死したか。
まだ生きているか。
それを見定めているように見えた。
バルドは、理解した。
女はドブロが扉を開けた時から、この部屋に糸を張り巡らせていた。
この部屋そのものを、巣に変えていたのだ。
この部屋の者、全員を捕らえるつもりだったのだ。
だが、ブルゴ兄貴は糸を切った。
毒も効かなかった。
だから、女は変えたのだ。
捕まえる相手から、殺してもいい相手へ。
ブルゴ兄貴が……。
黒帆は終わった。
終わってしまった。
逃げ出してから、好き放題やって来た。
こんなもんだ。
女が冷ややかに、バルドに目を向けた。
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