十六 グリューネ家の焦燥
ヴァルミリア市南西区画にある、グリューネ家の邸宅。
二階の執務室。
古い石造りの壁には、グリューネ家の祖先の大きな肖像画が並んでいる。
部屋の奥には、古く大きな机が据えられていた。
何代もの当主が使ってきた、黒ずんだ堅木の机である。
グリューネ家当主オットー・フォン・グリューネは、その机の前に置かれた革張りの椅子に深く身を沈めていた。
晩餐の席を終えた後、姪のカタリーナ・フォン・グリューネから報告を受けていた。
ワインで赤らんだオットーの顔は、怒気でさらに赤くなっていた。
贅肉でたるんだ顎を引き、奥歯を噛みしめている。
「馬鹿を言うなっ!」
オットーが机を両手の拳で叩いた。
バンッと、広い室内に音が響いた。
オットーは、目の前に帳簿を持って立っている、カタリーナを睨みつける。
カタリーナは眉をひそめることもなく、無表情で淡々と答えた。
「噂では、小麦は今日から毎日ヴァルミリア港に届くそうです」
「検査官は何をしておるっ!
関税倉庫はっ!」
「本日届いた小麦は製粉され、現在の相場を大きく下回る安値でパン屋に渡ったそうです。
明日の朝、その粉でパンが焼かれます」
「安値っ!!」
オットーが身体をブルブルと震わせる。
「何も分かっておらんっ!
三十年に一度の小麦不作の、大儲けなのだぞっ!
人生で二度しかないっ!
それをっ……それをっ……。
高利貸しは毎日、大儲けしておるんだっ。
わしは人生で二度だぞっ、二度しかないのだっ!
検査官に、粉挽きめっ!
日頃の恩を忘れおってっ!
どれだけ、わしが目をかけてやったと思っておるっ!」
オットーがバンッ、バンッと机を叩いた。
「グリューネ家に倣って小麦を溜めていた者たちが、小麦を売りに走るかもしれません。
おそらく、今日の小麦の値が天井でしょう。
明日以降、値が下がり続けるかと」
オットーは、冷静なカタリーナの深緑の瞳を睨みつけた。
「ぐぬぬぬっ……」
「倉庫にある小麦も、今の値では評価されなくなります。
聖庫騎士団は、担保が足りぬと明日にでも通告してくるでしょう。
追加の担保を求められれば、各地の農地、水車場、河岸の荷揚げ場まで処分対象になります」
「出て行けっ!」
オットーは目をつぶり、声を荒げた。
「失礼いたします」
カタリーナは一礼し、帳簿を抱えて退出した。
「……なぜだ。
どうして……どうして」
オットーは、手で顔を覆った。
「……三十年前の不作の時、若かったわしは、小麦を買い占め、値をつり上げ、勝った。
ヴァルミリアが五年後に貿易特許都市となると決まった時、港や倉庫、水路を整える出資にも応じることができた。
徴税請負会の主要メンバーにもなった。
今のヴァルミリアの繁栄は、わしのおかげなのだ。
あれからずっと、わしは勝ち続けた。
だが、わしの前には常に、あの高利貸しめらがおる。
下賤な高利貸しどもの下位に甘んじるなど……。
カッシーニ、ドレイク、メリザンド、ヴェルナー……。
どこの馬の骨とも知れぬ者どもが……。
グリューネ家は、偉大なる再興王レオナール一世陛下と共に戦った家!
グリューネ家こそが、ヴァルミリアの伝統ある名家なのだ!」
オットーは顔を上げて、祖先の肖像画を見る。
再興王レオナール一世に剣を捧げる、レオンハルト・フォン・グリューネ。
「レオンハルト様……。
あなたが剣で得た名誉を、わしは守ってきた。
畑を広げ、倉を建て、小麦を作り、ヴァルミリアに栄光をもたらした。
また、小麦の値をつり上げ、儲かるはずだった……。
一月後の新たな徴税請負会の出資比率を上げられるはずだった。
名誉を回復したはずだったのだ!
なのに……なぜ、なぜだ?
どうして儲かりもせんのにわしに刃向かう?
食えない者は木くずでも食べておればよいのだ。
安値で小麦を流し、わしの邪魔をしおって。
邪魔をするなら、わしではなく、カッシーニどもにすればよいのだ。
ただで金でも貸してやればよい。
わしの儲けは三十年に一度。
奴らは毎日、利息で人を食っておるではないか。
高利貸しこそ、害悪ではないか!
恩知らずのゴミどもがっ!」
オットーは何度も机を叩いた。
税で脅した。
屈しなかった。
人質を取った。
奪われた。
ゴミどもは、小麦を運び込んだ。
オットーは、まなじりを上げた。
「思い知らせてやる」
その時、扉が叩かれた。
オットーは顔を上げ、息を吐いた。
「入れ」
扉が開く。
黒い外套の男が入ってきた。
二十を少し過ぎたばかりに見える。
人族には見えない。
頬や顎が、髭だか体毛だかわからない黒灰色の毛でびっしりと覆われている。
頭には狼のような耳がある。
指や手の甲、腕には、針のような毛がびっしりと生えている。
男が一礼した。
「何かご用ですか、グリューネ卿」
「ご用とは何だ!
お前たちの失態で、わしがどれだけ損をしていると思っておる!」
「……それは申し訳ありませんね。
しかし、あなたからは、あれほどの強者が敵にいるとは聞いていませんでした。
聞いていれば、守りを固めることができたのですよ。
それに、あの程度の金額では引き受けていません。
おかげでヴァシミ砦を失ってしまった。
こちらも困惑しているのですよ」
「わかるわけがないだろうが!
忽然と山の上に人と建物が現れるなど!
そのわけのわからぬ連中に、どれほど……」
「グリューネ卿。
そろそろ、仕事の話をしませんか?」
「ふんっ。
失態の尻ぬぐいをしろ。
これぐらい、言われずともやれ、馬鹿者が」
「何をすればよろしいのですか?」
「リーヴェ川の輸送中を襲って小麦を止めろ。
何回か襲ってやれば、奴らも懲りるだろう」
「魔族領との交易は、件の小麦だけではありませんよ。
川筋には、総督府と魔族領の両方が常に目を光らせています」
「それぐらいできるだろうが!
遠くから火矢でも放てばよいではないか」
「石人形がいます。
動く石壁となって、火矢を防ぐでしょうね。
それに、流れ矢で他の船が炎上し、交易が止まれば、グリューネ卿もお困りになるのではありませんか?」
「……」
「あの者どもは夜に輸送を行っていません。
昼間、総督府の監視の目を盗むことは困難です。
川で騒ぎを起こせば、必ず総督府が動きます」
「……ならば、あの倉庫屋ども四人。
始末しろ」
「……お高くなりますよ、グリューネ卿。
ヴァシミ砦を壊滅させた者たちが相手になりますので」
「……金ならある」
「前の仕事の十倍です」
「じゅ、十倍だとっ?」
「ええ。
ヴァシミ砦には幹部の一人がいました。
手勢も百以上いたのです。
そのヴァシミ砦を短時間で潰した相手です。
市内では、多数の手勢を動かせません。
こちらも幹部級が出ることになります。
それぐらいいただかねば、割に合いません」
「……わ、わかった。
払えばいいのだろうが。
最初に、お前たちがきっちりそいつらを始末しておけば、こんなことにはならなかったのだぞ……」
「それで、いつお支払いいただけますか?」
「成功したら払う!」
「では、前金を。半分」
「半分だとっ!」
「危ない仕事です。
頂けないのであれば、この話はなかったことに……」
「……明日の朝、用意する」
「ありがとうございます。
では、支払い方法はいつも通りでお願いします」
「バルド、失敗は許さんぞ!」
「お任せください」
バルドの口元がわずかに歪んだ。
長い犬歯が、魔晶灯の光を受けて白く光った。
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