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十二 穀物検査所主任検査役

 深夜、穀物検査所(こくもつけんさじょ)主任検査役(しゅにんけんさやく)エルマー・クラウゼンは、ヴァルミリアの中流居住区にある自宅の寝室で眠っていた。

 夫婦で一つの寝台に寝ている。若い頃は十分な大きさだったが、二人とも中年になり、最近は少し窮屈になっていた。

 そろそろ少し大きめのものに買い替えたいと、妻のユッタとは何度も話している。

 だが、この物価高では、寝台など後回しにするしかなかった。


「っ!」


 エルマーはいきなり後ろから上半身を起こされた。

 両手は後ろ手に掴まれ、首を腕で拘束されていた。


 鼻と口を布で覆われた。

 甘く、苦い、薬草とも毒ともつかない臭いが、鼻と口を満たす。

 どろりと喉に絡みついた。


 身体が痺れ、力が抜けていく。


「泥棒っ!」と声を出そうとした。


 しかし、声が出ない。手も、足も動かなくなった。


 だが、目はなんとか動く。

 隣に寝ているはずの妻、ユッタへ目を向ける。

 ユッタは深い寝息を立てながら、この侵入者に気づかずに寝ていた。

 普段、ユッタはこんなに深く眠らない。

 眠り薬を使われているのかもしれない。


 恐怖のあまり、エルマーは心臓が激しく鼓動し、呼吸も上手くできなくなった。


「ぁ……っ……っ……」


 首筋を、鋭い針のような物でわずかに刺される。


 ……殺される。


「ぅっ……ぁっ……ぁ……」


 冷や汗が、だらりと額から瞼に流れる。


 背後にいる侵入者が、魔晶灯(ましょうとう)らしきものを枕元の小卓に置いた。

 部屋の中がぼんやりと照らされる。


 不意に、後ろから、紙を突き出してきた。

 文字が書いてある。


『明日から小麦の検査に不正をするな。

 不正をすれば命はない。

 わかれば、鼻息を三回出せ』


 侵入者がエルマーの鼻孔に指を近づけた。

 エルマーはその指に向かって、必死に鼻息を三回出した。


 侵入者は、エルマーの鼻息を確認すると、紙を引っ込めた。

 代わりに、寝台の上に何かを置いた。


 金貨だ。


 何枚もの金貨が、魔晶灯に照らされて、輝いている。


 エルマーが驚いていると、侵入者はいつの間にか音もなく消えた。




 朝の食卓には、薄い粥と黒パンが並んでいた。

 粥から湯気が立ち、煮えた麦の匂いが狭い部屋にこもっていた。


「あなた、今日は変ね、ぼーっとして。

 風邪かしら?」


 妻のユッタが、椀の粥を匙でかき混ぜながら、心配そうにエルマーを見ていた。


「ああ、大丈夫だ」


 エルマーは、狭い室内を見回す。

 亡くなった父は、エルマーと同じ穀物検査所で働いていた。

 そしてようやく稼いだ金で晩年に買ったのが、この家だ。


 漆喰の壁は所々ひび割れている。

 かつては白く綺麗だった壁も、今は黄ばみ、汚れている。

 自分は子供たちに、何を残してやれるのだろうか。


 順番に食卓を囲む家族に視線を送る。


 妻のユッタは、懸命に家族を支えてくれている。

 長年の家事で、手も荒れてしまっている。

 なんとか報いてやりたい。


 長男のヨストは十四歳だ。

 うっすら髭も生えるようになり、生意気になってきた。

 そろそろ穀物検査所の書記見習いに入れてやらなければ。

 父が自分をこの役所に入れてくれたように、今度は自分がヨストに道を残してやる番だ。


 長女のツィラはまだ十一だ。

 最近、少し大人びてきた。

 あと数年もすれば嫁入り支度のことも考えねばならないのかと思うと、寂しいものだ。


 母のクニグンデは、近頃、身体も痩せて、足が悪くなってきて杖をついている。

 なんとか長生きしてほしい。


 皆が粥を食べ、黒パンを食べている。

 家族は無事に暮らせてきた。


 昨夜のことは、夢だったのではないかとも思う。

 だが、現実だ。


 朝になっても、寝台の下にしまった箱の中には、金貨があった。

 三十枚。

 エルマーの四ヶ月分の給金に当たる大金だ。


 これだけあれば、新しい寝具も、母の足の治療薬も買える。

 それでも、かなりの額が手元に残るだろう。


 昨日、北西の小山の上に突如として現れた白い建物群。

 ヴァルミリアで何かが起こっているのだろう。


 自分のような中級役人には知るよしもない。


 幸い、要求は「不正をするな」だ。


 これまで、五家の一つで穀物を支配するグリューネ家のために、不正まがいのこともやってきた。

 グリューネ家の商売敵の荷だけを念入りに調べ、わずかな湿りを理由に再検査へ回した。

 自分たち役人がそうするだけで、穀物の出庫が止まり、納期に間に合わなくなる。

 顧客のパン屋たちは、必要な時に小麦が届けられない穀物商を見限り、グリューネ家を選ぶ。


 こうして、グリューネ家に刃向かう者たちは、信用を失い、やがて潰れていく。


 五家はヴァルミリア徴税請負会ちょうぜいうけおいかいの主要メンバーだ。

 都市の市民に対して強力な徴税権を持つ、非常に恐ろしい存在。

 グリューネ家はその中でも、五位。

 最下位とはいえ、五家は五家。

 五家に逆らう者は愚か者だ。

 ヴァルミリアでは生きていけない。


 くそっ、グリューネ家に問われれば、とぼけて誤魔化すしかない。

 全力でグリューネ家のために働いておりますと、何度でも頭を下げるしかない。


 しかし、あのグリューネ家に逆らうとは……何者なのか……。


 まずはいったん、昨夜の侵入者の言うとおりにしよう。


 でないと、簡単に殺される。


 エルマーはもう一度、食卓を囲む家族を見渡した。


 この家族と、この家を守らなければならない。



お読みいただき、ありがとうございます。


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どうぞよろしくお願いいたします。


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