十一 小麦市場を動かす札
トウマはラウレンツとシェイドリィと共にダルガ・ロウゼンのいる魔族商館へ向かった。
ダルガに小麦を出庫してもらいたいと伝えに行く。
ノエラはラウレンツの商館を守るために残しておいた。
ラウレンツの商館兼自宅は、中流居住区にある。
そこから、港湾職人や荷役人が多く住む区画を抜けていく。
どこも、焼きたてのパンの匂いではなく、薄い粥の匂いばかりが漂っている。
パン屋の前には行列ができていた。
品切れだと告げられて、人々が怒号をあげていた。
警備兵がパン屋の壁を蹴っている男を取り押さえていた。
井戸端では、女性たちがパンだけではなく、すべての物の値段が上がっていると嘆いていた。
道端には、腹を押さえ、力なくうずくまっている者もいた。
そして、目を開けたまま倒れ伏している者もいた。
周りには、蝿がたかっていた。
港湾職人や荷役人の多い区画を過ぎると、水路に出た。
荷を積んだ小舟がゆっくりと行き交っている。
橋を渡ると、そこから、ヴァルミリアの川門のすぐ内側に並ぶ倉庫街に入った。
空気が変わった。
先ほどまでの重苦しさとは違い、荷を動かす男たちの声が、ここには満ちていた。
倉庫街を抜けると、諸国商館区に入る。
通りを歩く人々の服装が違う。
聞こえてくる言葉も、王国の言葉だけではなかった。
そのさらに南。
厳重な鉄柵に囲まれた、これまでとは雰囲気の違う重厚な石造りの建物があった。
窓は小さい。
窓枠はかなり奥まっているところを見ると、壁は相当厚いのだろう。
まるで敵地に置かれた出城のような造りだった。
魔族商館だ。
魔族商館は、魔族領から来るいくつもの商会や氏族などが利用する巨大な共同商館だ。
内部では、それぞれの区画で分かれているらしい。
門の前には、武装した門番が一人。その後ろに、警備兵が二人。さらに鉄柵の内側にも警備兵が一人控えている。
ラウレンツが入口の門番に要件を告げる。
「ラウレンツ・ベルクマンと申します。
ゼルバ侯国ロウゼン商会のダルガ・ロウゼン殿に、お取り次ぎ願えますか」
門番は、ラウレンツと後ろのトウマとシェイドリィを見た。
「しばし待て」
しばらくすると、商館の中から、黒い上着を着た細身の男が現れた。
顔立ちは王国人に近い。
だが、瞳が琥珀色。肌は少し灰色がかっているので、純粋な王国人ではなさそうだった。
「ベルクマン殿ですね。ご用件を伺います」
「小麦の出庫の件で、至急、ご連絡したいことがあります」
「承知しました。しばらくお待ちください」
取り次ぎの男が商館の中へ入り、また戻ってきた。
「ダルガ・ロウゼンが中でお待ちしております。
お待たせいたしました。ご案内いたします」
トウマたちは、取り次ぎの男に従って、魔族商館へ入った。
中は外観と同じく、堅牢さを重んじた作りだった。
それぞれの扉の前に立つ警備兵の装備も、厚い革と鈍い鉄板を組み合わせた、質実で堅牢なものだ。
各々の扉には、金属板の紋章が打ちつけられているが、その意匠は区画ごとに異なっていた。氏族ごとに分かれているためだろう。
やがて、取り次ぎの男が一つの扉の前で止まった。
扉には、狼の爪が巻かれた革束を押さえている紋章があった。
通されたのは、商談用の執務室だった。
手入れされた革と油の匂いが、薄く漂っていた。
壁には、なめされた革が掛けられている。おそらく、商品の見本の魔獣の革だろう。
机の脇には、封蝋、秤、黒い石、細長い小箱などが置かれていた。
低い陳列棚には、魔晶石の見本が並べられていた。
魔晶石は、ゼルバ侯国の最大の輸出品であり、ヴァルミリアの最大の輸入品だと聞いている。
その中でも、ゼルバ侯国はヴァルミリア市場の半ば近くを占めているらしい。
粒の小さなものは硝子皿に、豆粒ほどの石は小箱に収められている。
そして拳ほどもある魔晶石が一つだけ、棚の中央に金銀で装飾された箱の中に飾られていた。
部屋の中央には、商談用の卓と椅子が用意されている。
その奥に大きな執務机があった。
執務机の奥に、男が座っている。
部屋の隅には書記らしい男が控え、壁際には護衛が一人立っていた。
机の奥の男が立ち上がった。
「ラウレンツ殿、お待ちしていましたよ」
ダルガ・ロウゼンは魔狼族だとラウレンツから聞いていた。
狼に似た耳、そして鋭い犬歯があるらしい。
指の背から手の甲にかけて、針のような毛がびっしり生えているのが見える。
その毛は前腕まで続いているらしい。
用心深そうな黄褐色の瞳がトウマたちを見据えていた。
ダルガは商談用の卓へ手を向けた。
「どうぞ、おかけください」
「ダルガ殿、ご無理を言いまして、申し訳ございませんでした。
こちらの――トウマ様のおかげで、小麦出庫の目処が立ちました」
「それはよかった……。
ですが……かなり難しいようでしたが……」
ダルガの声がわずかに低くなる。
トウマの全身に視線を這わせた。
ラウレンツがトウマを紹介する。
トウマは、魔族商館に来るまでずっとフードを被り、角を隠していた。
魔族はヴァルミリア都市内を自由に出歩くことはできない。
そのため、魔族だと思われて警備兵に捕まるかもしれないからだ。
あと、王国人は鬼を怖がるということもある。
トウマは、ラウレンツに鬼であることを告げるのは躊躇した。
だが、ダルガは魔族だ。
角を見て、王国人のように怯えることはないだろうと考えた。
それに、フードを被って半ば顔を隠したまま商談をするわけにもいかない。
トウマは、被っていたフードを脱いで、角を見せた。
その瞬間、ダルガの黄褐色の瞳が、見開かれた。
部屋の空気が止まった。
壁際に立っていた護衛が、反射的に後ずさり、背中を壁にぶつける。
鈍い音がした。
帯剣にかけた手が震え、鞘と金具がカタカタと小さく鳴った。
部屋の隅に座っていた書記も、反射的に立ち上がろうとして机に足をぶつけた。
その音は、静まりかえった部屋に大きく響いた。
ラウレンツは、ダルガ、書記、護衛と順番に見つつ、息を呑んでいた。
そして、改めて隣に座るトウマの横顔を見た。
ラウレンツは、何か言いかけた。
だが、部屋の緊張感に押されたのか、唇を閉じた。
ダルガは身体を硬直させ、指一本、動かさない。
ただ、目を見開いたまま、トウマと、そのそばに控えているシェイドリィの間で視線を行き来させる。
シェイドリィはフードを深く被ったままだ。
ダルガは、フードの奥を探るように視線をさまよわせた。
「…………トウマだ。
ヴァルミリアから北西の小山にある神庭の主だ」
トウマの落ち着いた静かな声が、部屋の中に響いた。
「小麦のことは、任せておけ」
ダルガが、「小山の……昨日から……」と小さくつぶやいた。
そして、護衛に向かって、わずかにうなずいた。
護衛は、強ばった顔のまま、敵意がないと示すようにゆっくりと剣の柄から手を離した。
そして、音を立てないよう慎重に、元の姿勢に戻った。
「……トウマ様。
初めまして」
ダルガがゆっくりとトウマに一礼する。
「私は、ゼルバ侯国ロウゼン商会のダルガ・ロウゼンと申します。
主に魔晶石、魔獣の革、毛皮などを商っております。
ラウレンツ殿、小麦の出庫を止めていた事情を、伺ってもよろしいですかな?」
「ダルガ殿、実は、五家に人質を取られ、脅されていたのです。
小麦を輸入するなと」
「五家が、人質を……」
「ですが、こちらのトウマ様が救出してくださいました。
もう、小麦出庫を止める理由はございません。
事情を明かせず、お待たせしてしまったこと、深くお詫びいたします」
「……なるほど。
それで、トウマ様。
どのようにして、小麦を輸送なさるおつもりでしょうか?
五家がこのまま、見過ごすとは思えませんが」
ダルガはトウマを試すように黄褐色の瞳を細めた。
「まず、魔族領側の川岸からヴァルミリアの港までの川渡しは、こちらが引き受ける。
ヴァルミリア市内はマテオに任せる。護衛はこちらで出す。
もし、五家がさらに妨害をしてくるなら、その時は考えがある」
「……承知しました。
では、契約の通り、私どもは小麦を魔族領側の川岸まで運びます」
「……ダルガ、小麦はまだ余っているか?
俺もラウレンツの小麦輸入計画に出資する。
……そうだな。
ラウレンツが契約した量の……三倍、用意できるか?」
「ト、トウマ様!
し、しかし……そ、その量は……」
ラウレンツが目を丸くする。
「気にするな。
俺もヴァルミリアとは友好を育みたいからな」
購入した小麦の一部は、神庭の備蓄に回す。
残りは、ヴァルミリア市内では購入価格に経費を乗せて売り、神庭の小山周辺の農村には無償で配給する。
そうすることで、神庭の評判を得る。
ヴァルミリアで神庭の名が知られて、商品が売りやすくなるはず。
周辺の農村では、神庭を敵視することなく受け入れてくれるだろう。
そのことが、周辺の村々との関係作りの土台となるはずだ。
トウマは、ミリーと父親の顔を思い浮かべた。
「あ、ありがとうございます!
私たちが購入する量と合わせると四千タルム(一タルム=一トン)になります。
ヴァルミリア全体の、四十日分に近い量です。
これだけの量が市場に入ると皆が知れば、市場は必ず動くはず……。
五家以外の、投機で儲けようとしている者たちが、きっと値崩れを恐れて売りに出るはず。
そうなれば、五家も小麦を出さざるを得ないに違いない。
奴らに勝てる!」
ラウレンツは両手の拳を握りしめた。
声には、抑えきれない熱量がある。
ダルガはラウレンツとは逆に、静かに話し始めた。
「……ラウレンツ殿の……三倍となれば、相当な額になります。
失礼ですが、お支払いはどのように?」
「心配するな」
トウマは懐から革袋を取り出して、卓上に置いた。
「まずは手付けだ」
ずっしりとした重い音が鳴った。
「残りは契約日に支払おう」
ダルガが、革袋を開いて、中から金貨を取り出した。
金貨の表裏を確認している。
「……見たことがないものですな」
「ああ。我々が発行している金貨だ」
「……発行されているのですか」
ダルガの声が幾分低くなった。
「金の含有率はかなり高いと言っておこう」
ほとんど地金に近い。
ゲーム時代に金貨を発行する時、発行益をほとんど取らなかった。
「金の質を確かめさせていただいても?」
「ああ、かまわない」
ダルガは金貨の入った袋を、そばに控えていた部下に渡した。
部下は、部屋の隅に置いてある秤と黒く平たい石、それに細長い小箱を持ってきた。
袋から金貨を十枚取り出し、一枚ずつ秤にかけた。
部下がダルガに報告する。
「十枚とも、目方は揃っております。同じ型で打たれたものと見てよろしいかと。
続いて、試金石に擦りつけてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
次に、部下は金貨を黒い石、試金石に擦りつけた。
黒い試金石の上に、細い金色の条痕が残る。
そして、持ってきた小箱を開ける。箱の中には、金色の細い針が八本並んでいた。
そのうちの一本を取り出して、試金石に擦りつける。
トウマの金貨の横に、針の条痕ができた。
部下は二本の条痕を見比べて、また別の針を取り出して、試金石に擦りつけた。
条痕の色は、一本一本、色が少しずつ違った。
やがて、一つの針の筋が、トウマの金貨の筋の色とほぼ同じになった。
「条痕の色は品位の高い試金針のものとほぼ同じです。
正確な品位は炉に入れなければ分かりませんが、かなり上等な金貨と見てよろしいかと」
ダルガは、静かにうなずいた。
「金貨は問題なかったようだな。
これも見てくれ」
トウマは懐から、神庭絹を取り出し、ダルガに渡した。
「これは!
この光沢に……この滑らかさ……。
高品質の絹よりも、さらに上か……」
「我々には、こうした品もある。
支払い能力については、それも含めて判断してくれ」
「……なるほど。失礼いたしました」
「で、小麦だが、どれぐらいの期間で用意できる?」
ダルガが黄褐色の瞳を細めて考え込んだ。
「……そうですね。
ラウレンツ殿の分とは別に、追加で確保するとなると……。
一ヶ月ほど頂ければ、なんとか確保できるかと思います。
ゼルバ侯国中から集めてみせましょう」
ダルガが、鋭い犬歯を覗かせて笑った。
「契約はヨハンに詰めさせる。
金は支払日に持ってこさせよう」
トウマは、ヴァルミリアの小麦市場を動かす札を手に入れた。
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