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移住者の願い

 卒業アルバムは捨てた。持っている意味がないからだ。

 それを世間は薄情だとか言って、異常者扱いするが、美乃梨にとっては普通のことである。

 高校のとき、仲が良かった友人の連絡先はもうどこにもない。

 全て消してしまったのだ。

 けれども、美乃梨には後悔など一切なかった。

 人間関係リセット症候群。診断されたわけではないが、大方これに当てはまるのだろう、と妙に冷静に推察できる自分がいる。

 つい最近、また同じように連絡先を全て消して、リセットした。

 誰も自分のことを知らない、人とのつながりなんて持たなくていい場所に行きたくて、過疎地域のこの島に来た。

 移住するタイミングで、これでもかという量のカップラーメンと日用品を買い込んだ。

 たまに買い物には出るものの、基本は1日中家で、というより主に布団の上で過ごし、少しずつ、着実に減っていく口座残高を眺めている。

(なーんでこんなことしてるんだろ)

 東京の服飾学校を出て、友人に誘われ個人のデザイナー事務所に就職し、ようやく3年。パワハラやセクハラなんてものはなかった。しいて言うなら、ちょうど抱えていた希死念慮が膨れ上がったものの、死ぬ決心がつかなかった程度のことである。

 誘ってくれた友人の連絡先も、上司の連絡先も、両親の連絡先さえも消した。もちろん電話番号も変えた。

(貯金なくなったら、何しよう。その時こそほんとうに死のうかな)

 昨晩から続く雨のせいか、悪い方向にばかり思考が進む。

 少し外の空気を吸おう、そうしよう、と大きな独り言を呟きながら、いつかのゲリラ豪雨の日にコンビニで買った500円のビニール傘を差し、外をうろつく。

「あ、」

 雨音に紛れて、男の声が美乃梨の鼓膜を揺らした。

「移住者さんですよね」

 自分より年下に見える、若い青年だった。たしか以前船で一緒になったときに、犬飼と名乗っていた気がする。

「死ぬんですか?」

 あっけらかんと、だが、真剣な表情で尋ねられた。

 そんなにひどい表情をしていたのか、と自分でも少し驚く。

「まさか」

 茶化すように答えれば、納得いかない、といった顔で犬飼は「ふうん」と相槌を打つ。

「まあ、あれっすよ。気休め程度ですけど、そこの喫茶店。喫茶おれんじ、よかったら行ってみてくださいよ。案外願い事が叶ったりとか、そういう奇跡が起こるかもしんないですよ」

 それじゃあ、と犬飼は去っていった。

(願い事、ね)

 そんなものはない、と思いつつ、自分の四半世紀と少しの人生を思い返す。

 小学校の時、放課後よく一緒に遊んだ日奈ちゃんに、中学の美術部の先輩で、片思いをしていた梶先輩。高校のクラスメイトで、文化祭を一緒にまわった相川ちゃん。

 名前も思い出も、ちゃんと記憶にある。

(ああ、あったわ。願い事)

 明日が晴れだったら、喫茶おれんじとやらにでも行ってみよう。

 そう決意して、美乃梨は家へ引き返した。


 ***


「まじでなんなんよこれ!?」

 夏樹とシャルロッテは、店前の掃除をしようとして絶句し、状況を理解した途端驚嘆の声を上げた。

「鳥の、死骸……?」

 うへ、とシャルロッテが顔をしかめる。

 店の前で、4羽の海鳥が死んでいるのだ。

「昨日天気悪かったし、雷にでも打たれたかなあ」 

 可哀想ではあるが、このまま死骸を転がしておくわけにもいかないので、ほうきでごろごろと動かし、道路の向こう側にやる。

 ここのところ、不思議なことが続いていると、改めて夏樹は嘆いた。

 謎の少女と石の力、みかんの木の大量枯死、それに続いて今度は海鳥が死んでいるときた。

「呪われてるのかなあ」

 はあ、とため息をこぼす。

 見かねたシャルロッテは、話題を変えようと、夏樹に話を振った。

「ねえ、おばあさまはコーヒーに凝っていらっしゃったの?」

「え?」

「お店にはサイフォンもドリッパーもあるから」

「ああ、確かに。えっとね、たぶんコーヒーに凝ってたのはおじいちゃんかな。もう亡くなっちゃったけど」

「そうだったのね。じゃあお店はもとは2人で?」

「そう。おばあちゃんが軽食とか焼き菓子とか作って、おじいちゃんがコーヒーをいれてたみたい」

「まあ、素敵!」

「今の私たちみたいに店をやってたってことやね」

 幼い頃の記憶がよみがえり、つい微笑む。

「大好きなのね。おじいさまとおばあさまのことが」

「え?まあ、うん。それに、おばあちゃんの作る焼き菓子、とっても美味しいから」

「じゃあ、私にもナツキの作った焼き菓子を食べさせて。まかない、って言うのでしょう?」

「ん、わかった」 

 そうこう話しているうちに、掃き掃除は終わり、店内の準備も整ったので、看板を「OPEN」と向ける。

 すると、店を開けて15分も経たないうちに、三十代前後といった見た目の、痩せぎすの女がやってきた。目元にはクマがあり、色白なのも相まって、死人を彷彿とさせるような、表情の抜け落ちた顔をしている。

「コーヒーありますか。誰だっけ、犬飼さんに出したやつ」

 ぎくり、と体が固まる。

 小さな島では、1つの情報が広まるのはあっという間なのだ。

(やっぱり、こんなのおかしいよ)

 夏樹が返答に困っていると、シャルロッテは「もちろん、あります」と答えた。

「じゃあそれと、あ、オニオングラタンスープも」

「かしこまりました。願い事をお伺いしても?」

「え、ああ。はい。……連絡先もわからない友人に、もう一度だけ会いたい」

 その注文に、シャルロッテは少しだけ狼狽えているように見えた。

「少々お待ちください」

 シャルロッテはキッチンに引き返し、湯を沸かし始める。

「ねえ、無理してない?」

 どことなくぎこちない動きのシャルロッテに、夏樹が尋ねる。

「大丈夫よ、大丈夫。少し引っかかっただけだから」

「引っかかったって、何が?」

「『もう一度だけ』って言葉が、なんだか覚えがあって」

「何か思い出せそう、ってこと?」

「わからないわ」

 にこっと笑って、「今は目の前のことに集中しましょう」と笑った。

「無理してないなら、いいけど」

 夏樹はオニオングラタンスープを作るため、冷凍庫から、玉ねぎを炒めて冷凍保存しておいたものを取り出した。

 解凍した玉ねぎに、コンソメ、水を加えて煮立たせる。

 玉ねぎの甘辛い香りと、コンソメの香りが鍋から一気に立ち込める。

 ココットにスープを移し替えて、バケットを浸し、チーズを乗せる。オーブンで焼けば、とろけたチーズに焼き目がついて、少しだけ焦げた香りがする。

「ふんふふん、ふっふふん」

 聞きなれないリズムを、シャルロッテが口ずさんでいた。

 きっと、故郷で馴染みのある音楽なのだろう。

 ドリップポットから細く湯が注がれ、コーヒーの粉がふわりと膨らむ。

 コーヒーの芳醇な香りは、いつでも夏樹の心を落ち着かせた。


「お待たせしました。オニオングラタンスープとホットコーヒーになります。熱いのでお気を付けください」

「どうも」

 目の前に置かれるや否や、コーヒーを一気に半分ほど飲む。食に興味がないのか、はふはふとしてはいるものの、美味しそうにも、まずそうにもせずに黙々と食べ進めていた。

 こうして真面目に客と向き合ってみると、人それぞれ違いがあることがよくわかる。

 言葉はなくとも、味わっているのがよくわかる人もいれば、こちらに話しかけることにためらいがない人、孤を重んじる人。

 いただきますも、ごちそうさまもなく、皿を空にすると、「お会計」と言って夏樹を呼んだ。

 代金を受け取り、釣り銭を渡せば、そそくさと去っていった。

「焼き菓子でも作ろうかな」

 静謐な店内で、夏樹は1人呟いた。


 ***


(自分から逃げておいて、今更会いたいなんて馬鹿な話)

 人間関係をリセットしてしまう自分を許せた試しは、まだ一度もない。

 後悔ばかりの人生で、最大の後悔を挙げるとするならば、服飾学校時代の友人の前から、逃げるように姿を消し、連絡を絶ったことだ。

(ごめんなさいも、ありがとうも、何にも言えてない)

 美乃梨にとって、一般的な、社会において当たり前とされることのほとんどは、普通にはできないものだ。

 挨拶、世間話、お世辞。そんなものは到底できない。それは、生来の人見知りの気質や、良心が完璧主義者だったがゆえに生じた強迫観念が美乃梨の邪魔をしていることもあるが、なにより、対人関係での努力から逃げ続けたことに原因があると自覚している。

 だから、少しでも人間関係に失敗したら、逃げてしまうほかなかった。

 服飾には、幼い頃から憧れていた。

 それまでろくに反抗したことがなかったが、高校卒業後の進路だけは、自分の主張を貫いた。

 東京で1人暮らしを始め、学校、アルバイト、家事のルーティーンにも慣れてきた頃、初めて家に友人を招いた。名前は立花あおい。可憐という言葉がよく似合う女の子だ。

 何がきっかけで仲良くなったか、あまり覚えていない。

 だが、気づけば流行りの音楽やドラマの感想を言い合ったり、2人でショッピングに出かけていた。

「私の知り合いが個人で事務所やっててさ、卒業後はそこでお世話になることになってるんだけど、よかったら美乃梨も一緒に来ない?」

 それまでの美乃梨ならば、この頃にはもうリセットしていただろう。それでもリセットせずに、誘いに乗れたのは、あおいと過ごす時間が心地よかったからだろう。

 それまでの正しいとは言えない生き方が、少しずつ、明るい方向へ向かっていた。

 はずだった。

 ちょっとした、よくある失敗だった。

 針で指を突いてしまい、布を汚してしまった。

 納期も問題ない。本当に些細な問題だ。

 でも、それがどうにも耐えられなかった。それまであおいや、事務所の人の前で失敗をしたことがなかったからだろう。

 その時はこれしかない、と本気で思って、辞表を出して、引っ越して、連絡先を消した。

 それが今になって、美乃梨の首を絞めている。

(ごめんなさい。普通ができなくてごめんなさい。ごめんなさいが言えなくてごめんなさい)

 この島はいい。人が少なくて、広大な海が嫌なことを消してくれるから。

(ごめんねって、言いたい。あおいに、皆に)

 枕に顔を押しつけて、涙を堪える。誰も見ていないというのに。

 精神的な疲れからか、体力的な疲れからか、そのまま微睡に身を任せて、美乃梨は眠りに落ちた。

 目が覚めると、外は白みを帯び始めていた。デジタル時計は午前4時を示している。

(うわ、あの後ずっと寝てたってこと?まじ馬鹿じゃん)

 今更寝付くこともできなくて、シャワーを浴びた。

(あ、シャンプーなくなりそう)

 さすがにシャンプーがないのは困るので、買いに出ることにした。

 船に乗って、最寄りの島の商店を訪ねた。こだわりはないので、東京では見かけなった安物で十分だった。

「______美乃梨?」

 聞き慣れた玲瓏な声だった。

「あ、おい?」

 体が強張るのがよくわかる。

「美乃梨。よかった、よかった……!」

 ばっ、と温もりに包まれる。

(あ、抱きしめられてるんだ、今)

 いろんな感情があふれ出てくる。

 後悔、感謝、謝罪、愛情。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、ごめん」

 目が溶けるように熱い。

「元気でいてくれて、よかった」

(ああ、やっと謝れた。やっと)

「あ、あの、ね。今、島に住んでるの。すごく、いいところ。息が、しやすいの」

 あおいは旅行中だったらしい。明日には、東京に戻ってしまう。

 きっと、今日会えなかったら、二度と会えないままだった。

(ありがとう)

 古びた喫茶店に、思いを馳せた。

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