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凡人の願い

『何者かになりたかった、だから何者にもなれずに終わった。』

 そんな始まりのエッセイはどうだろうか、と犬飼駆は思いついた文言をノートに書き起こした。

『後悔のない人生を歩もうと、幼い自分がした選択に、僕は苦しめられている。』

 駆が住んでいる家は、もとは両親の持ち家である。

 駆が19歳の時、両親が離婚して2人とも島外へ出たことをきっかけに、島での1人暮らしが始まった。今は週末、金土日とバイトをして、それから母親からの仕送り、という名の実質の手切れ金で食いつないでいる。

 高校3年の進路面談のことを、駆はよく覚えている。

 周りは地元企業や土木系への就職か、ここから近い私立短大への進学を考えているため、担任は至極当然、といった顔で、「犬飼君は就職?それとも進学?君の成績なら、1人暮らしは絶対になるだろうけど、公立も十分に狙える」と尋ねてきた。

 普通なら、「公立視野に入れてます」とか、「就職したい」とか言う場面だが、駆は違った。

「音楽で食っていきます」

 そう言い放った。

「歌手になりたいんすよ。人の心を震わせるような、そんな歌手に」

 駆は、高校では軽音楽部でボーカルをしていた。それもひとえに、歌手になるという夢のためである。

 その後の担任の反応は、それはもうひどかった。就職しないなら進学すべきだ、君に音大は無理だ、とマニュアル通りとも言える言葉ばかりをこちらに投げてくる。

 両親を呼ばれて、三者面談もしたし、夜な夜な父と殴り合いもして、それでも駆は自分の夢を貫いた。

 こんな田舎では、まともなボーカルレッスンも受けられない。

 それでも、だからこそ、独学で逆向を乗り越えれば、その先には輝かしい未来が待っていると信じていた。

 結局、大学には落ちた。本命の音大にも、滑り止めの専門学校にすら受からなかった。

「本気じゃなかったから。本気になれば受かるし、そもそも音大とか行かなくても成功する人は成功するもんだし」

 都合のいい言い訳を手当たり次第並べた。

 でも、嘘ではなかった。本当に本気を出していなかったのだ。

 真摯に、全力で向き合って、挑んで、現実を突きつけられたときに、狂わないでいられると思えなかった。

 だから、頑張らなかった。頭の片隅で、「自分には無理だ、諦めろ」と警鐘がガンガンと鳴らされていたのだ。

 両親の離婚の理由の一部が自分にあることも嫌なほど理解している。

 夢を諦めきれなくて、でも頑張って失敗するのは怖くて、「浪人する」という建前でフリーターを始めて、父はひどく怒った。「言い訳を並べる暇があるならさっさと働け」と胸ぐらを掴まれた。駆の本質を理解していたのだ。

 母は諦めていたようだった。三者面談で梃子でも意志を変えない姿を目の当たりにしてからは、進路について一切口出しされなかった。

 意地でも夢を諦めさせたい、現実を見せたい父と、もう向き合うことさえ放棄した、諦観的な母。衝突こそしなかったものも、母の方が精神をすり減らしたようで、離婚はあっさりと決まった。

 田舎特有の閉鎖的なつながりからか、駆が幼い頃から世間体を気にしていた母にとって、この頃にはもう島民の大半が引っ越していたことが、唯一の救いだった。

「どこで間違えたんかな」

 自嘲しても、誰も答えはくれない。

 人生をやり直せるなら、何をやり直そうか。

 作詞なんてことは、駆にはできない。自分で自分をプロデュースする能力は持ち合わせていない。

 それでも何者かになりたくて、世間に名を残したくて、ノートにエッセイもどきを書く。

 平々凡々、あるいはそれ以下の自分に目を背けながら。


 ***


「嘘、何で」

 遠野夫妻の一件から2日。夏樹はシャルロッテを連れてみかんの木の様子を見に来ていた。

 順調に生育は進んでいるはずだった。だというのに。

「枯れてる……」

 木々の4分の1ほどが枯れてしまっていた。

 花弁が落ちているとか、葉が落ちているとかではない。木そのものが、生命力を失ったように、萎れてしまっているのだ。

「病気、ってわけでもなさそうだし。なんでかなあ」

 木の内側から水分が吸い上げられたようになっていて、頭を垂れるように枯れている。

 幹をさすっても、ざらざらした感触だけが手に残る。

「死んじゃったみたい」

 ボソッと夏樹が呟くと、シャルロッテは「死んじゃった、か」と復唱する。

「例えばさ、死んだ命を生き返らせる、とかってできるの?」

 ふと気になって、夏樹が尋ねる。

「それは……できないの」

 シャルロッテが視線を逸らす。

「《精霊石》は、病や傷から快方へ向かわせることはできても、死者の蘇生や時間の巻き戻しなんかはできないの」

「どうして?」

「わからない。けど、私たちは《精霊石》の祝福は、生命の理からの逸脱は許さない、とかんがえていたわ」

「なるほどねえ。魔法も万能じゃないわけだ」

「そういうこと。夏樹だって、死者蘇生はできないでしょう?それと同じ」

「あー確かに。納得。しっかしまあ、原因不明の大量枯死じゃどうしようもないし、店もどろっか」

「いいの?」

「いいよ。手伝いの身だったから、詳しいことわかんないし」

 2人で坂道を下る。

「こういうの憧れてたんだよね。友だちとのんびり歩くの」

「私もよ。友人もほとんどいなかったから」

 笑い合って歩く。けれど深くは踏み込まない。踏み込めない。

「やっぱ2人でオリジナルのパフェとか作りたいよね」

「果物たっぷりのケーキも!」

 そんなことを話していると、店の前に人影があった。

「あ、お店の方ですよね」

 少し嗄れた声の青年に声をかけられた。

「今日ってお店やってます?」

 夏樹は青年に見覚えがあった。祖母は1人暮らしをしている犬飼という青年だと言っていた。

「今から開けれますよ」

「あ、えっと、じゃあ、その、いいですか」

 店の前で待ち構えていた割には、おどおどした態度だった。

(シャルロッテのことが気になるのかな?)

 シャルロッテは見るからに異国風の容貌をしている。いきなりそんな少女が島に、さも当たり前というようにいるのだから、反応に困るのも当然である。

「彼女は今私と同居してる、その、ホームステイしに来ている子でして。気になさらないでください」

「あ、ああ。ありがとう」

(これから先も、ずっとこうやって誤魔化していくのかな)

 なんとなく悪いことをしている気がしてくる。

「お好きな席でお待ちください」

 店の鍵を開けて、中に通す。犬飼は、店の一番奥の席を選んだ。

「お冷をお持ちしました。注文が決まりましたら申しつけください」

 シャルロッテがグラス1杯の冷水を持っていくと、犬飼はぎょっとしていた。

 あまりに品の良い給仕に驚いたのだろう。

「あ、えーと。その。前、遠野さんに出したコーヒーってありますか」

 ごにょごにょと、言いにくそうに犬飼が尋ねる。

「コーヒー豆のことでしょうか?でしたらご用意ありますよ」

「ちが、くて。いや、そうなんですけど。コーヒーを飲んだら、その、奇跡が起きたって昨日偶然聞いて。俺も願い叶えたくて」

 キッチンにいた夏樹は、その声を聞いて驚いてシャルロッテのもとへすっ飛んで行った。

「ちょっとシャルロッテ______」

「願い、とは何ですか」

 聖女のような、凛とした表情で尋ねる。

 「何言ってんの⁉」と言いそうになるのを、夏樹はなんとかすんでのところで留まった。

「色々。でも、そうだな。変わりたい。そのための自信がほしい。平凡な自分を受け止める、自信がほしい。それが願いだよ」

「かしこまりました」

 ためらうことなく、シャルロッテは言った。

「他にご注文は?」

 自分でも聞いたことがないほど低い声で、夏樹は牽制するように注文を続けさせた。

「あ、えっと、フレンチトースト」

「フレンチトーストですね、少々お待ちください」

 シャルロッテの手を引いて、冷蔵庫やブレッドケースが置かれている、店の奥に連れていく。

「何考えてるの」

「何って。断る理由がないじゃない」

「それは、そっちじゃ常識?」

「願いがあるなら、どうしようもない、1人じゃ動かせないような願いなら、《精霊石》に祈る。それが普通よ」

「……じゃあ、こっちではしないでよ」

「どうして?」

「だって、なんだかシャルロッテが便利な道具にされちゃいそうで、嫌だよ」

 犬飼の注文を聞いて、夏樹の脳を埋めつくした嫌悪感の正体を言葉にする。

 シャルロッテは、親に怒られた幼子のように、縮こまって俯いている。

「怒ってるわけじゃないの。もっと大事にしてよ。自分を」

 夏樹がそう言うと、シャルロッテは力強く頷いた。

「心配してくれてありがとう。でもね、叶えたいの、できる限り。向こうじゃそれが当たり前、って言うのもあるけど、何より、ここに生きる人の営みを、ほんの少しだけでも支えられたなら、それはとても幸福なことだから」

 シャルロッテの言葉は、夏樹には高尚な、神の教えの言葉に聞こえた。

 とても、「やめてくれ」なんて言えなかった。

「わかった。その代わり、約束して。無理はしないって」

「もちろん」

「……じゃあ、コーヒーは任せたよ」

「ええ」

 ケトルに水を汲んで、《精霊石》が入れられる。夏樹が思っているよりずっと万能な石。だが、妙に倫理に則っている石だ。

 次第にふくふくと湯気が立ち始める。

(ほんと、変な石。その気になれば人だって殺せちゃいそう)

 ぼんやりとした《精霊石》への恐怖を抱きながら、夏樹はフレンチトーストを作るため、卵と牛乳を冷蔵庫から取り出した。

 こうして、数日のうちに客が来るのは最近じゃほとんどなかったので、すでに冷蔵庫は空に近づいている。

 祖母のレシピに従って、まずは卵を2個、ボウルに割り入れる。ただし、1個は卵黄だけで、もう1個は全卵を使う。

 余った白身は今日の夕食のたまごスープ入れることにした。

 全卵と卵黄を溶いて、牛乳を200㏄入れる。さらに三温糖とバニラエッセンスを適量入れて混ぜ合わせれば、バットに卵液を移し替え、食パンを2枚浸す。

 じわじわと卵液を吸い上げるパンを眺めるのが、夏樹は幼い頃から好きだった。

(平凡な自分を受け止める自信、ね)

 ふと、犬飼の言葉が脳内で響き渡る。

(そんなものを手にしたら、気が狂うのがオチだろうに)

 食パンをひっくり返し、両面から卵液を吸わせる。

 夏樹は、自分が凡人であると自覚している。

 シャルロッテと出会ってからは、かなり特殊な人生を歩み始めているように感じているが、少なくとも、それ以前は平凡とも言えない人間だったと思っている。

(平凡なんて、受け止めるもんじゃない。受け止めたくもない)

 ふわり、とコーヒーの、少し苦い香りが漂ってきた。

 シャルロッテが豆を挽いているらしい。

 手元のバットは、もう卵液はなくなっていて、食パンが全て吸い上げていた。

 フライパンにバターを塗って、パチパチと音を立て始めるまで火にかけたまま放置する。油が跳ね始めたら、パンを焼き、中火で片面を3分ずつ焼く。

 バニラとバターの甘い香りが強くなり、軽く焼き目が付いたら完成だ。

 ちょうどコーヒーもカップに注がれたので、犬飼のもとへ持っていく。

「お待たせしました」

 夏樹がカトラリーとともに犬飼の目の前に並べると、フレンチトーストを見て犬飼は少し頬を綻ばせた。

「ありがとう」

 ナイフとフォークを手に取り、ひと口大に切り分けて食べる。

 ためらっているのか、コーヒーには口をつけない。

 なんとなく犬飼がどうするのか気になって、夏樹は少し離れた場所にあるマガジンラックの手入れをするふりをして、その様子を眺めた。

 切り分けて、食べる。時々別添えの蜂蜜をかけて、また食べる。

 けれどもコーヒーには手を伸ばさない。

 じっと見つめていると、視線に気が付いたのか、犬飼が独り言のように話し始めた。

「フレンチトースト、好きなんですよ。特に、母さんが作ってくれたやつが。でももう5年近く食べてないな……。圧倒的な賢さはないけど、自分が世界でどういう立ち位置の人間かは理解できるくらいには賢くて。中途半端で。そんなだから親に愛想尽かされて。じゃあいっそ、終わらせたいなって思ってるのに、相変わらず臆病で。ありません?クラスで一番馬鹿だけど、人懐っこくてどっか突出した分野があるから皆に手を差し伸べられるのを、教室の窓際の席から、本当は自分も助けが必要なのに『助けてほしい』とさえ言えずに、自分より下の人間に安心しながら嫉妬したこと」

 ズキ、と胸が痛む。

「あり、ますよ。何度も。そりゃ」

 夏樹は、犬飼と同じ立場の人間だった。

「それがもう、嫌になったんです。潔く、世間の中の下あたりを生きる方が、よっぽど幸せそうに見えて」

「その先に、絶望が待っていても?」

「もうとっくに絶望してますよ」

 嘲るように、犬飼が話す。

「そんな簡単なもんじゃないと思うけどな……」

 夏樹の呟きは、空に消えた。

 覚悟を決めたのか、「よし」とだけ言うと、犬飼はコーヒーを1口飲んだ。

「美味しい」 

 犬飼は泣いていた。

 かける言葉が見つからなくて、夏樹はキッチンに戻った。

「シャルロッテ」

 シャルロッテは調理器具を洗いながら、悲しげな笑みを浮かべていた。

「やっぱり、余計なことをしているのかしら」

 ぎゅ、と握られたことでスポンジが泡を落とす。

「願いを叶えることだけが幸せじゃないよ」

 それがシャルロッテにとって慰めにならないことは、夏樹にもわかっていた。

「シャルロッテはさ、優しすぎるんだよ。正直、人間味がないくらい」

 シャルロッテの綺麗な顔が、苦悶で歪む。

「でもさ、そういうとこ、いいと思う。良くも悪くも深い関わり合いを嫌ってきた身からするとね」 

 淡々と事実を述べる。それが救いか、罰になるかは考えない。

「……ごめんなさい」

「謝ることないよ」

 まだ水滴が残るフライパンを手に取り、布巾で拭いて元の位置へ戻した。

「お客さんのとこ行くね」

 食器は空になっていた。

「ああ、お会計お願いします」

 夏樹に気づくなりそう言って、長財布を取り出す。

「1160円です」

 じゃらじゃらと小銭を探し出し、ちょうどの金額が手渡された。

「1160円ちょうど頂戴しました」

 古めかしいレジにお金を入れ、レシートを出す。

「あの、ありがとう、ございました」

 ぎこちなく、犬飼が頭を下げた。

「ご利用ありがとうございました」

 夏樹は、あくまで模範的な接客を続けた。


 ***


(本当にあそこのコーヒーにそんな奇跡があるなんて毛頭思ってない)

 偶然散歩をしていたら遠野夫妻に鉢合わせ、世間話をしているうちに聞いた話。喫茶おれんじが奇跡を起こしてくれたのだと特に夫の信弘の方は強く信じているようだったが、基本的に無神論者の駆にとっては「ただの偶然」としか思えなかった。

 だから、あくまで自分の中で区切りをつける理由として、喫茶おれんじに行った。

 これで最後だ、そう言い聞かせ、スマホの録音アプリを開く。

 今までは、既存の曲をカバーしてネットに投稿していた。ついた高評価はせいぜい20前後である。だが、20人近くの人が認めてくれているという事実は、最大の心の支えとなった。

 最後は凡人らしく、凡人の語彙力で、なんら面白みのない歌を自分のために作って、歌う。

 あとは投稿するだけ、頭では理解していても、やはり指先が震える。

 画面とにらめっこを続けていると、スマホが小刻みに揺れた。

 父からの電話だ。

(ここ最近は何も連絡してこなかったのに、なんだよ。いきなり)

 深呼吸してから、応答のボタンを押す。

「何?」

 ぶっきらぼうに尋ねると、電話の向こうの父は皮肉っぽく笑った。

「何じゃあないだろう。まあいい。……お前、竹下のことは覚えてるか」

「ああ、個人で楽器屋やってるって言ってた、親父の同級生だろ」

「その竹下が、店の人手不足に悩んでてな」

「そこで働けって?」

「そういうことだ」

 あれだけ平凡な自分を認めたがっていたくせに、いざその機会が来ると、逃げ出したくなる。

「それと」

 言いにくそうに、父は続けて言った。

「お前の歌声は、嫌いじゃない」

 厳格な父からの言葉は、意外なものだった。まるで、駆を肯定するような、優しい言葉だ。

「お前のアカウントは、早いうちから見つけていたんだ」

 思い返せば、アカウント設立の1か月後から、特定のユーザーに高評価をもらえるようになった。

「お前の、1番のファンだ」

 それは何より駆が欲していた、肯定だ。

「音楽がやりたいと言うなら、もう止めはしない。これは、親心だ。いつまでも子離れできない親のな。……自分の人生をどうありたいか、よく考えなさい。夢を追いかけた先で破滅することさえ受け入れると言うのなら、好きにすればいい。でも、一抹の迷いがあるのなら、普通の道を歩め。お前が思っているよりもずっと、普通も難しい。それを、身をもって学びなさい」

 気づけば、駆はぐちゃぐちゃに泣いていた。

「うん……!」

 自分の生き方を、決めた瞬間だった。

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