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喫茶おれんじ 始動

「ごめん、シャルロッテ。車の中で少し待ってて」

 夏樹が急いで病院の待合に行くと、ソファに腰かけた祖母が作り笑いを見せた。

「あたしは大丈夫って言うとるんやけどねえ、お医者さんがねえ」

 祖母が言いよどんでいると、看護師に呼ばれ、2人で診察室に入った。

「すいませんねえ、呼びつけてしまって。でもねえ、こりゃあ、ちょっと。入院してもらわないけんもんで」

 40代といったところの見た目の、青髭の医者が言った。

「その、なにか大きな病気ということでしょうか」

「まだはっきりとは言えませんが、ほら、この胸部レントゲンの写真。ここに異常陰影が見られるんですよ」

 胸ポケットに入っていたボールペンで、画面の異常が見つかったという箇所をぐるぐると示している。

「悪性腫瘍の可能性があります。ですので、精密検査を受けていただく必要があります。今のような通院の仕方は少々……。今すぐに入院というわけではないのですが、この近辺ならマンスリーマンションなんかもありますんで、そちらを検討していただくことにはなるかもしれません。救急もすぐに駆けつけられますから」

「あの、今日は帰って大丈夫なんですよね」

「はい。ただ、精密検査の日程は決めていただかないとなりませんので、そこだけは、どうか」

「……わかり、ました。居住地については、少し話し合わせてください」

 医者は大きく頷いて、診察室から出ていく2人を見送った。

 精密検査は、9日後に決まった。


「お待たせ」

 車に戻ると、シャルロッテは菓子の箱を眺めている最中だった。

「今日は車を借りた島に泊まるから。宿まではそんなにかからないと思う」

 はあ、とため息が出そうになるのをこらえる。

(どうしよっかなあ。これから)

 シャルロッテと祖母がシートベルトを締めたことを確認すると、夏樹は車を動かし始めた。

 夏樹と祖母の間の、重い空気を感じとったのか、シャルロッテはずっと海を見ていた。

 フェリーが1日に1本しか出ないこともあり、レンタカー会社が、利用客向けに営業しているホテルの駐車場に入る。買ってきた食材は、ホテルの冷蔵庫で保管してもらえるので、夏樹はこのホテルを重宝していた。

 今日はほとんど客がいないらしく、急な人数の変更も快諾してもらえた。

 食品を預け、鍵に書かれている403号室へ向かう。

 ビジネスホテルと変わりない、簡素な部屋だ。

「おばあちゃん、ほんとうに1人で大丈夫?」

 さすがに3人で入れる部屋はなく、2人と1人に分かれることになったのだ。

「大丈夫よ。あんたら2人で過ごしなさい」

 先ほど病院であんなことを言われたばかりなので、不安が拭えないでいた。

「じゃ、じゃあ後で……そうね、ラウンジにでも行って話そう」

 そう言って、別々の部屋に入った。

「ごめんね、シャルロッテ。気をつかわせちゃって」

「気にしないで。気をつかわせているのはこっちの方だわ。……おばあさまと、なにかあったの?」

 心配そうにシャルロッテが覗きこむ。

「ちょっとね。その、おばあちゃん、病気で。島を離れることになりそうで」

「そんな……」

「びっくりだよね。でも、ちょっと安心かも。このまま島にいても、廃れる一方の故郷を見るだけになっちゃいそうで、なんとなくそれをよしとできずにいたから」

 両親にも連絡が入れた方がいいだろう、と思い、シャルロッテに断わりを入れてから電話をかけた。

「もしもし、何の用?」

 電話越しでもわかるほど冷たい声だった。

「あ、あの。おばあちゃん、病院で精密検査受けた方がいいって言われて。その、もしかしたら入院とかも……。通院のこととか考えて、マンスリーマンション借りることも考えた方がよさそうで。お母さんに伝えた方がいいかなって」

「そう、お金は送るから」

 そう言い残して、電話は切られてしまった。

「おばあちゃんと、話してくる」

 夏樹は、何かを諦めるように、ため息をついた。

「ナツキ、待って」

 部屋から出ようとする夏樹のことを、シャルロッテが呼び止める。

「《精霊石》の力なら、おばあさまのことを治せるかもしれないわ」

 それは、夏樹にとって最も魅力的で、最もそそられない提案だった。

「おばあちゃんに、訊いてみるね。もしよかったら、同席してくれる?」

(会ってまだ1日の相手にこんなこと頼むの、馬鹿げてる。でも、なんでだろう。シャルロッテになら、助けを求められる)

 夏樹の手を、そっと包み込むようにシャルロッテが握る。

「もちろん」


 隣の部屋、祖母の泊まる部屋の扉を軽くノックする。

「はあい」

 のんびりとした返事を聞くだけで、少し安心した。

「これからのこと、話そう」

 自動販売機で買った緑茶を片手にテーブルを囲む。ラウンジには、誰もいなかった。

「あのさ……」

「店ももう、畳もうかねえ」

 遮るように、祖母が言った。

「ずうっと前から気づいてたんやけどねえ。おれんじは続けられないことくらい、わかってたはずなんやけどねえ。小さな小さな島の、小さな営みを見守れることが、あんまり幸せやったものやから」

「もし、魔法なんてものが実在して、おばあちゃんの体も良くなって、店を続けられるってなったら、おばあちゃんはそれを望む?」

 我ながらおかしな質問だ、と夏樹は心の中で自嘲した。

 シャルロッテは、じっと夏樹の祖母を見つめている。

「いいえ、この世は諸行無常。今まで店を続けられただけでじゅうぶん。あたしの身体だって同じこと。でも、魔法とやらが叶えてくれると言うのなら、この先も、風に飛ばされてしまうような小さな営みが、ずっと紡がれていって、守られてほしいものだねえ」

 夏樹は何も言えなかった。

(たかが老人1人いなくなったところで、何かが変わるはずない。って、思ってたはずなのに。ああ、今になって、あの店が、島が愛しい)

 誰も来ない喫茶店で、祖母と一緒にコーヒーを淹れたこと。プリンアラモードの作り方を教わったこと。みかん畑で2人でおにぎりを食べたこと。50代ぐらいの夫婦が、結婚記念日だったから、と島外から買ってきた焼き菓子を分けてくれたこと。

(こんなに短い時間で、こんなに愛しく思えるんだ。そりゃ、おばあちゃんはもっと愛しいはずだよね)

 ペットボトルを握る手に、よりいっそう力が入る。

 ゆっくりと、シャルロッテの手が重ねられた。

 シャルロッテの方を見ると、何か覚悟を決めたような、凛とした顔つきをしていた。

 小さく息を吐いて、それからまっすぐ夏樹の祖母を見て、シャルロッテが言った。

「わたくしに、お店を継がせてはいただけませんか」

 

***


そう提案したのは、夏樹への助け舟でも、夏樹の祖母への同情からでもなかった。

 シャルロッテのエゴだ。

(私にはもう、故郷はない。叶うなら、一から人生をやり直してでも、リーダリアの民を、リーダリア街を、営みを、ささやかな幸せを、守りたかった。けれど、どうしても《精霊石》はそれを叶えてくれなかった。もし、これが神から与えられた「やり直し」なら、私はあの島のことを守りたい)

 夏樹は横で口をはくはくさせている。夏樹の祖母も、驚いて硬直してしまった。

 それでもシャルロッテは、令嬢の顔つきでつづけた。

「料理の心得はあります。菓子作りの経験も。コーヒーや紅茶は淹れ方を侍女から教わっています。わたくしには、わたくしが帰る場所がどこなのか、もうわかりません。ですから、せめて、帰ることを許していただけた、おばあさまが帰る場所を、守らせてください」

「……本当はあんたを島に縛るような真似はしたくないんよ。もちろん夏樹のことも」

「縛られる、なんて思っていません」

 シャルロッテは、その小さな顎を引いて、夏樹の祖母のことを見ている。

「あのさ、おばあちゃん。私も、あの喫茶店、継ぎたい。まだ何も、先には進めてないけど、今のこの時間は、人生の中で一番いい時間だと思うから。だから、継がせてください」

 2人で深々と頭を下げる。

「投げ出したくなったら、いつでも投げ出してくれたらええ」

 店を継ぐことを許された。

 それを意味していると分かった2人は、お互いに見合って、それから笑った。


「ほんとうにいいの?」

 翌朝、祖母はしばらくの間、知人のアパートの空き部屋にひとまず世話になることになり、夏樹とシャルロッテが島に戻るのを見届けに船着き場に来た。

「楽しくやるんよ」

 しわくちゃの手が、夏樹の頬を包む。

 じゃあね、と言って船に乗り込んだ。

 岸から離れるにつれ小さくなる祖母の姿に、少し寂しくもあったが、それ以上に期待に満たされている。

 潮のにおいがする。太陽の光が肌をじりじりと刺す。

「ナツキ、ありがとう」

 シャルロッテがぽつりと言った。

「私こそ」

 自分でも気づかないうちに、夏樹は笑みをこぼした。


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