動き出した歯車
瀬戸内の海の上、地図じゃ見えないような島に、こぢんまりとした喫茶店がある。決して何か特別変わったメニューがあるわけでも、その島に観光地があるわけでもない。
けれども、毎日一人、二人ほど島外から客がやってくる。
「蜜柑パフェをひとつ。それから不思議のコーヒーも」
その注文を聞くと、黙々とパフェグラスを磨いている店主、異国風の顔立ちの少女は手を止め、「願いは何でしょう」と尋ねる。
その傍らでは、器用に飾り切りされたみかんと、アイスやブラウニーがグラスに盛り付けられていく。
「もう一度だけ、海が見たい」
痩身の青年が、懺悔のように言った。青年の瞼は、ぴったりと閉じられている。
特別なサイフォンで淹れられているコーヒーは、もうそろそろ一杯分になるだろう。
「確かに願い、承りました」
少女は、慣れた手つきでカップとソーサーを棚から取り出した。
***
腰の曲がった祖母には、木の高いところに届かないから。重たいものは、持てないから。だから私がやらないと。
そう言い聞かせて、夏樹はまだ小さい蜜柑の実を間引いていた。
斜面から見下ろす海は、誰かがダイヤモンドでもこぼしたんじゃないかと思うほどきらきらと輝いていて、海鳥がどこかで鳴いている。
夏樹は、間引いた蜜柑がいっぱいにかごを家に持ち帰った。
「おばあちゃん、終わったよ」
玄関にかごをドン、と雑に置いて、居間を覗く。
畳の上にちゃぶ台と座椅子がぽつんと置かれているのみで、祖母の姿はない。
夏樹は靴を履きなおして、家の裏手に回った。
潮のせいで錆びついてしまったブリキの看板に、「喫茶おれんじ」と書かれているのが辛うじて読める。
「おばあちゃん、いる?」
ステンドグラスがあしらわれたドアを開けると、錫のドアベルがカランコロンと音を立てる。
コーヒーに似た深い茶色のカウンターの奥に、白髪頭が見えた。
「ああ、夏樹。ありがとうねえ。どうもあたしにゃ届かんくて。助かったよ。今、冷たいものを出すからそこにかけときな」
冷蔵庫から瓶に入ったオレンジジュースが取り出され、氷が入ったグラスに注がれていく。
「この喫茶店、いつまでつづけるん?」
日に焼けて、随分と褪せてしまったメニューを指先で弄りながら夏樹が尋ねた。
「お客さんが来るわけないやん。ここには電車もバスも通らん。自転車で旅しとる人らは、もう二つ先の島の観光地目当てでここには寄らん。もう諦めた方がええよ」
島の住民といえば、夏樹の祖母、休日を利用して本土の職場と島との往復を繰り返す50代くらいの夫婦と夏樹と同い年か、少し年上の青年、それから少し前に移住してきたという女と、バックパッカーで絵描きをしていて、ここが気に入ったと言っていた男くらいで、あとはたまに移住者がやってきては去っていくだけだ。
大橋が架かった頃は、自転車旅の休憩として島も栄え、地元の食堂は繁盛し、島外から旅館業を営みに移住するものもいたそうだが、そう長くは持たなかった。
喫茶おれんじも、昔は島内外から客が来て、名産の蜜柑の菓子や氷菓、コーヒーやサンドイッチなんかの軽食が人気だったが、今となっては店を開ければ開けるほど赤字になるだけである。
「そうやねぇ、もう、店じまいしようかねぇ」
祖母はたしかに微笑んでいるはずなのに、夏樹には悲しんでいるように思えた。
「その方がええよ。そっちの方がおばあちゃんも病院行きやすいやろ」
もう町医者もいないこの島では、薬ひとつ入手することさえ大変なことなのだ。バスが停留する島まで、1日1本しかないフェリー、と言っても漁船に近い船に乗って、そこから更にバスに乗って最寄りの病院まで行かなければならない。
「でもねぇ。ここを離れたら、もうこの景色は守られんやろ」
独り言のように、祖母が言った。
「ソーラーパネル設置の話?それなら無くなったって言ってたやん」
「それとはちゃう話よ。ここは昔はそりゃたいそう美しい島だったんよ。みかんの橙と、海の青、草花の緑や黄、それを照らすお天道様の白。貧しかったけど、心は決して貧しくなかった」
夏樹はロールカーテンをめくって、窓の外を見た。
木々や草花は、人の手がほとんど入っておらず、不格好と思えるほど伸びきっている。
(ああ、そうだ。人を失えば、この植物たちも、みかんも、全部伸びきって、そのうち勝手に枯れていくんだ)
夏樹が生まれたのは関西の方で、父が転勤族ということもあり関東と関西を転々としていたし、盆や正月に遊びに行くのは父方の祖父母宅である岩手だったので、この島にあまり思い入れはない。
けれども瀬戸内独特の、穏やかな海と柑橘に囲まれた自然は好ましい。ぼんやりと眺めていれば、それだけでささくれ立っていた心も凪いでいく気がするのだ。
夏樹は黙りこくって、それから「まだやることあったわ。畑戻るね」とだけ言うと、半分ほどオレンジジュースを残して、逃げるように店を出た。
(こんな島、おばあちゃんが出ようが出まいが、どうせ10年と経たずに荒れた無人島になる。だったら、そうや、おばあちゃんの負担がない方がええに決まっとる)
もうまともに人がいないこの島では、夏樹を肯定する者も、否定する者もいない。
夏樹は、それが無性に寂しく感じた。
みかん畑は斜面にある。
何も考えないように、ひたすらに歩き続けた。
普段は15分はかかる道のりが、短く感じた。
振り返ると、海が広がっている。
点々と浮かぶ島の名前を、夏樹は知らない。
みかんの木のフレームに、小さな民家と広大な海が収まっている。
写真に収めてしまえば、この光景は永遠のものになる。けれど、写真ではこの地に立ってこの光景を、忘れまいと必死に脳に焼き付けることはできない。
(おばあちゃんと、ちゃんと話さんと)
店に戻ろうと、踵を返したとき、視界の端に何かが見えた。
白い、布の塊のようなものだ。
(お、お化けとかじゃないよね)
恐る恐る、「何か」の方を見る。
みかんの木の根元に、人が横たわっていた。
プラチナブロンドの長髪で、肌は血色を感じないほど白い。ウェディングドレスを彷彿とさせる丈の長いワンピースを着ているが、足元は裸足だった。
(お化け、ではなさそう。貞子は日本人やろ、黒髪やし。どっちかというと、天使……?)
一歩ずつ、へっぴり腰で近づいてみる。
すぅすぅ、と寝息を立てている姿はあどけなくて、思っているよりずっと幼く見えた。
「あの、えっと。だ、大丈夫ですか?あーゆーおけー?」
少し肩を揺さぶってやると、少女は目を覚ました。
(わあ、きれいな碧の瞳。ガラス細工みたい)
夏樹が見惚れていると、少女が口を開いた。
「ここ、どこ?」
綺麗に整っている顔には不安の色が滲んでいる。
(あ。日本語わかるんだ)
「ここは瀬戸内の島の一つだよ。どうやってここまで来たか、覚えてる?」
少女は辺りをきょろきょろと見回して、小さく首を横に振った。
不安を治めようとしているのか、しきりに首のあたりを撫でている。
「覚えてないの……?自分の名前はわかる?」
「なまえ、名前……」
初対面の相手に名乗るのをためらっているのか、名前すら覚えていないのか、言葉がつっかえているように見える。
「あー、っと。私、夏樹。深瀬夏樹。夏樹って呼んでよ。名前も覚えてない?」
「わかる、わかるわ。シャルロッテ・エリンよ」
「シャルロッテ、か。どこの出身?」
「リーダリアよ」
リーダリア、という地名に夏樹は覚えがなかった。
「えっと、そのリーダリア?までどうやって帰ったらいいかわかる?」
船から落ちて、運よく流れ着いてここまで来たが、記憶喪失になってしまったのだろう、と見当をつけた。
困ったら、最寄りの派出所にでも連れて行ってやればいい、そう思っていた。
「もう、ないの。リーダリアは。それは覚えているの。でも、そこからが思い出せないの」
これでは警察へ説明のしようがない。
夏樹が天を仰いでいると、シャルロッテは、まるで何かに魅入られたように、海の方を見つめていた。
「シャルロッテ、さん?どうしたの、ぼーっとして、しんどい?」
目尻や鼻のてっぺんあたりが徐々に紅く染まって、大きな目が潤んでいく。
「似てる。リーダリアに。リーダリアも果実が生って、海が広がっていたの」
声が震えている。今にも泣きだしそうだ。
「どんな場所だったの、リーダリアって」
シャルロッテの生い立ちも、なぜこんな場所にいたのかも、何もかもわからない。
訊きたいことはたくさんある。
正直、今すぐにでもこの場を離れたいし、できることなら何も見なかったことにしたい。
(置いていったら、消えちゃいそう。海の泡にでもなるんじゃ____)
改めて、シャルロッテの頭のてっぺんから足のつま先までじっくりと視線を動かす。
髪は細くて絹糸のようだ。プラチナブロンドが瀬戸内の日差しによく映えている。
鼻筋も通っていて、夏樹より眼窩が窪んでいる。目はビスクドールのように丸くて、絵本のお姫様で見たような碧眼だ。
大人びて見える顔立ちだが、背は夏樹より少し低いくらいで、ワンピース越しでも華奢だとわかる。革紐のネックレスをかけていて、オーロラ色の石が揺れている。
(あれ、首筋が赤くなってる。焼けちゃったかな)
細い首に、薄紅の細長い痕が浮かんでいた。
なるほど、これを気にしてさすっていたのか、と夏樹は納得した。
「リーダリアは、国の東部の辺境にあったわ」
ぽつりと、懺悔のようにシャルロッテが呟いた。
「海が広がっていて、オレンジが育つ場所だった。ブドウやオリーブも。オレンジのジャムや葡萄酒なんかをみんなで作っていたわ。汽車の駅も遠くて、馬車を使わなきゃ行けなかったし、王都から離れているせいで豊かではなかったけれど、心は誰よりも豊かだった。ああ、そうよ、私はリーダリアの領主の娘だったのよ。リーダリアのことが大好きでたまらなかった」
シャルロッテは、慈しむように瀬戸内の海を眺めている。
「帰る場所、わからないんだよね?」
ないんだよね、とは訊けなかった。
「えぇ。どうしてここにいるのか、どこに帰るのか、なんにもわからない」
綺麗な顔が、皮肉っぽく顰められた。
「うち、来る?なんもないとこやけど」
夏樹は、迷子を拾った。
(そう、少し興味が湧いただけ。ここに似てるっていうリーダリアを、もっと知りたいと思っただけ。面倒ごとはごめんやし、いざとなったら交番にでも連れて行けばいい)
まだみかんが青い夏に、二人は出会った。
***
「ひとまず、裸足じゃ歩きにくいやろ。私の靴持って来るから、ここで待っとって」
確か数年前に祖母を訪ねたとき、置きっぱなしにしてしまったサンダルがあったはずだ、と思い、夏樹は坂道を駆け下りた。
「あら、夏樹。どうしたんそない急いで」
店の前で掃き掃除をしていた祖母に声をかけられて、夏樹はどきりとした。
指先の方からじんわりと血が引いていく感じがして、体が強張る。
(いつもそうだ。ちゃんと話さなって思うほど、上手く体が動かなくなる。ああ、嫌やな。余計なことばっかり口が回る)
「お、おばあちゃん。えっと、店のこと、その、また後で……」
「ええんよ。わかっとる」
「あ、ありがとう。それと、うちに人連れてきてもいい?畑で倒れてて」
「連れといで。冷たいお茶でも淹れとこうかね」
夏樹が祖母と過ごした時間は、そう長くない。島のどことなく閉鎖的な空気は苦手で、豊かな自然は心を落ち着かせる反面、あまりにも時間が流れるのがゆっくりに感じて、孤独感さえ覚える。だから、外界から切り離されたような場所で喫茶店を営む祖母のことは理解できないでいる。
でも、祖母は夏樹を大切にしてくれていることは、痛いほどわかっていた。
「ありがとう!」
それが今は、ありがたかった。
夏樹は家に戻ると、靴箱を開けた。祖母のよそ行きの靴だったらしい赤のヒールと、亡くなった祖父の革靴、それから夏樹の麦わらでできたサンダルがしまわれている。
夏樹は右手にサンダルを引っ提げて、来た道を戻った。
気分が高揚しているのがよく分かる。何かが動き出す、そんな予感に満ちている。
「ごめん、お待たせ」
シャルロッテは相変わらず海を見ていたようで、夏樹の声に反応するのに少し遅れた。
「あ、ありがとう」
「ひとまずサンダルだけど。ほら、どうぞ」
夏樹のサンダルはちょうど足に合ったらしく、シャルロッテはその場で3回ほど跳ねてみせた。
「ありがとう、ナツキ!」
ぱっと花が咲くように笑う少女に、愛しさを覚える。
「ほら、行こう」
夏樹はシャルロッテの手を引いて歩き始めた。
(いつだったか、ショッピングモールで迷子になったとき、若い女の人がこうやって手を引いてくれたっけ)
徐々に日は傾き始め、空に茜色が混じりつつある。
「綺麗……」
そう溢すシャルロッテに、夏樹は「でしょ」と自慢げに言った。
「おばあちゃん、ただいま」
引き戸の鍵は開きっぱなしだった。
「おかえり、いらっしゃい。あら、ずいぶんと別嬪さんを連れてきたねえ。こっちが緊張するやないの」
ほら、居間においで、と祖母が手招きする。
「私のおばあちゃん。この家は今は私とおばあちゃんの二人で暮らしてるの」
シャルロッテは夏樹の顔と祖母の顔を交互に見た。少し戸惑いを見せた後、深く息を吸うと淑女の顔つきで言った。
「お初にお目にかかります、エリン家のシャルロッテと申します」
映画に出てくるお姫様のように、シャルロッテがお辞儀をする。
(本当に令嬢なんだ……!)
あらまあ、と夏樹の祖母は驚きを隠せないでいる。
「ひとまず説明するから、おばあちゃんは居間で待ってて」
シャルロッテについては謎が多すぎる。亡くなった故郷、欠けた記憶。
「シャルロッテ、さん。無理に言いたくないことを言わなくていいからね。で、えっと、そう。ここだと家の中に入るときは靴を脱ぐの。で、うちは畳に直に座るんだけど大丈夫かな」
「お気遣い感謝いたします」
「かしこまらなくて大丈夫!です」
シャルロッテは目を丸くして、それから微笑んだ。
「じゃあ、夏樹もかしこまらないで。お友だちみたいに話して」
「……!もちろん!」
シャルロッテがサンダルを脱いでいる間に、夏樹は客用のスリッパを探した。
洗面台の下の収納スペースにしまわれていた黒のフェイクレザーのスリッパは、ほつれのひとつもないのに少し褪せている。
「シャルロッテ、これ。スリッパ」
スリッパを履かせ、夏樹は居間のちゃぶ台のそばに座った。それに続いてシャルロッテがたどたどしく座る。
「ええっと、シャルロッテ、だったかいねえ、お嬢さん」
穏やかな、子供をあやすような声で尋ねた。
「ここは気に入ってくれたかい?」
シャルロッテは瞼を閉じて、少しだけ笑った。
「ここは、私の大好きだった場所に似ています」
「うれしいねえ。好きなだけ、ここにおったらええ。帰りたくなったら帰ったらええ。ここを帰る場所にしたってええ。うちのことも、好きに使い」
そう言うと祖母は、事情のひとつも訊かずに明日は病院に行くから、と寝室に行ってしまった。
台所には二人分の夕食と、布巾に伏せられて水切りされている食器があった。
「今ごはん温めるから、そこ座ってて」
ラップをかけて、魚の煮つけを電子レンジに入れる。
1分温めてから、少し皿の位置を変えてもう1分温めてやる。もう十何年と使い込まれているらしく、温度のムラがひどいのだ。
軽快な電子音が鳴ったので皿を取り出し、ラップを外せば、甘い香りと、わずかな生姜の香りがふわりと漂う。
湯気が昇る皿を見て、シャルロッテが訝しげに言った。
「これも《精霊石》を使っているの?」
***
「《精霊石》?」
初めて耳にする単語に、夏樹は首を傾げた。
「ええ。そうよ、《精霊石》。知らない?」
「そんな石聞いたことないけど……」
シャルロッテは少し言いよどんで、覚悟を決めたように、言葉を続けた。
「世界は、神様にたくさんの祝福を受けて創られました」
まるで寝物語を話すような、穏やかな声だった。
「初めに、岩の星に、神様が豊かな水の祝福をお与えになりました。けれど、静かに凪いでいるばっかりです。すると、神様は次に大地の祝福をお与えになりました。世界に海と陸がこのとき初めて生まれたのです。神様はお考えになりました。星に豊かな命をもたらすことこそ、使命であると。そうして草花の祝福をお与えになりました。息吹に満ちた世界で、あるときオリーブの木が神様に訴えました。『神様、こんなに静かな世界では、私は子種を遠くまで連れていけません。このままでは、数多の仲間が、ひとりぼっちになってしまいます』と。そこで神様は風の祝福をお与えになりました。すると、陸はよりいっそう豊かな草花に覆われ、ついに海にも命が産まれたのです。最後に神様は、この命たちが永く生きられるよう、叡智の灯火をお与えになりました。こうして世界は今の姿になりました。そして、長い時の中で世界に授けられた祝福の一部は、生き物が自由に動きまわったことで、遠くまで運ばれていき、交わり、唯一無二の光をもった宝石になりました。《精霊石》として、今も、零細な存在にだって、祝福を授けてくださるのです」
シャルロッテの、謡うような語りに、夏樹は息を呑んだ。
「長くおしゃべりしすぎてしまったかしら。せっかく温めてくれたお料理が冷めちゃった」
すっかり湯気はたたなくなっていた。
「ああ、ほんとだ。温め直すね」
「ふふ、任せて」
シャルロッテはネックレスを外し、ひょいと皿を手に取ると、ネックレスの飾りを皿の下に当てた。
「叡智の灯火よ、親愛なる炎よ。どうかこの料理に再び温もりを」
寿ぐように、シャルロッテが唱える。
「わ!すごい、湯気が!」
甘い香りが漂う。白く固まりかけていた脂は溶け、表面に浮かんでいる。
オーロラ色の宝石は、淡く光を帯びていて、じんわりと温かさを感じた。
「それが《精霊石》なの?」
夏樹が興味津々で尋ねると、シャルロッテは「え……?」と困惑の色を見せた。
「ええ、そう。これは《精霊石》よ。そう、あれ、でもお父様は……。わたし、どうしてこれを《精霊石》だって……?」
「シャルロッテ、大丈夫?」
シャルロッテの額には、汗が浮かんでいる。
「大丈夫よ、大丈夫」
「そう……?ごはん、食べよっか」
鍋に入っていた味噌汁を火にかけ直し、米をよそう。小鉢に入っていた根菜の煮物はレンジで温めた。
箸は使いづらいかもしれない、と思い、フォークとスプーンも出した。
カトラリーレストはないので、箸置きに手狭に並べた。
「いただきます」
夏樹が手を合わせたのを見て、シャルロッテは不思議そうに首を傾げる。
「ここでは食事をする前にこう言うの。糧となってくれた命に感謝を伝えるために」
「素敵」
手をぴったりと合わせて、「いただきます」と言う。
「これ、とってもおいしい……!」
なんてことない、魚の煮つけに、シャルロッテは頬を緩ませている。
醤油をベースに、砂糖や生姜なんかを使って煮ただけだ。
夏樹が祖母と暮らし始めてから何度と食べたそれを、目の前の少女は心躍らせながら食べている。
それが、なんとなく夏樹には眩しく見えた。
醤油の味付けや、味噌、米は、シャルロッテには珍しいものだったらしく、どれも一口食べるごとに感動していた。
「これは何?」
「ああ、ゴボウやね」
「木の根っこじゃない!」
そんなやりとりをしながらする食事は、とても楽しくて、気づけば夏樹も、表情を綻ばせていた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
食事を終えると、夏樹は、水を張ったボウルに皿を浸け、風呂を沸かした。
「うちのシャワーはこっちを捻ればお湯が出るから。髪はこのボトルのを、体はこっちのボトルで洗って。着替えはここに置いておくし、脱いだ服と使い終わったタオルはこのかごに入れてくれたら大丈夫。タオルはこれを使ってくれたらいいから。ドライヤーはここね。ここのコンセント使って」
興味深そうにシャルロッテがドライヤーを手に取る。
「なあに、これ?」
「何って、ドライヤーじゃん。髪乾かすのに使うやつ」
「これも《精霊石》を使っているの?」
「……?電子レンジもそうだけど、《精霊石》なんて使ってないよ。これは電化製品。もしかしてコンセントもわからない?ここに挿すだけなんだけど……」
「そう、なのね。ありがとう、何から何まで」
俯いてしまったシャルロッテを脱衣所に残して、夏樹は台所に戻った。
急いでスマートフォンで検索エンジンを開く。
『精霊石 神話 どこ』
『リーダリア もうない』
『精霊石 リーダリア』
『リーダリア 領主 エリン』
何度検索しても、「申し訳ありません。検索ワードを変えてもう一度お試しください」と無機質な文章だけが表示される。
(シャルロッテはいったい、どこから来たの……?)
シャルロッテが風呂から上がってくる前に家事を終わらせようと、水に浸けておいた皿を洗い、布巾で水気を拭き取る。
(シャルロッテもしばらくここに暮らすなら、食材が足りんかな。次の定期販売船はまだ2週間以上先やし。明日おばあちゃんに頼んでおくかなあ。店用のパンとか使えば持つかな?)
必要な食材や日用品なんかをメモを書き出しているうちに、どんどん買い足すものが増えていく。
(シャルロッテの服や靴なんかもいるよね、一旦私の服を貸したけど……)
「お風呂、ありがとう」
頬が赤く火照っていて、のぼせているのが分かった。
「どういたしまして、私もお風呂済ませちゃうから、ちょっと待っとって」
脱いだ衣類を、シャルロッテのものとともに洗濯機に投げ入れ、洗濯開始のボタンを押した。
温かいシャワーを頭から浴びて、そのまま蹲った。
(何にも検索結果が出てこないって何!?そもそも《精霊石》ってなんなの?おかしくない?普通石でご飯はあったまらんって……!)
夏樹は、面倒ごとも愛せるほどの博愛主義ではない。どちらかと言えば事なかれ主義だし、自己主張は得意になれない。普段は電車で席を譲ることさえままならないくらいだ。
(なんでだろ。今、シャルロッテの手を取れなきゃ、駄目な気がする)
目頭が熱いのは、シャンプーが目に入ったせいだ、と言い聞かせた。
夏樹が風呂から戻ると、居間でちょこんとシャルロッテは座っていた。
(いやまあ、待ってるように言ったのは自分なんだけど)
ただいま、と言えば、おかえりなさい、と言葉が返ってくる。
祖母はもとより早寝なこともあり、普段は、夜型の生活が抜けきらない夏樹が風呂から上がる頃には家は静まりかえっているので、なんだかくすぐったいような心地がした。
「布団、敷くね」
自室にシャルロッテのことを連れていく。
冷房の温度を少しだけ上げてから点ける。
8畳の部屋は、数冊、埃のかぶった本が入っているだけの本棚と、学習机、中身が中途半端に出ている段ボールが三箱置かれていて、隅の方に布団が畳んで寄せてあるだけだ。
客人用の布団を圧縮袋から出して敷く。
シャルロッテにとってはその作業も珍しいようだった。
「ここに寝るの?」
安物のせんべい布団だ。領主の娘には到底寝具には思えないのかもしれない、そんなことを考えながら、問いに答えることなく、夏樹は自分の布団も隣に敷いた。
夏樹は照明を豆電球だけにして、重い掛け布団を捲って中に入った。
見よう見まねで、シャルロッテも布団に入る。
「あれね、エアコンって言うの。外よりも室内の方が涼しいでしょう?あれのおかげなんだよ。あれも、電化製品。科学の進歩の賜物」
言葉を間違えないように、まだできてすらいない絆を壊してしまわないように、夏樹はゆっくりと話す。
「これは、その……突拍子もないことやけど、妄想に過ぎんけど。シャルロッテが生きていた場所と、ここは、全くの別世界、なんだと思う」
尻すぼみになる言葉に、シャルロッテは静かに耳を傾けた。
「少なくとも、《精霊石》なんて聞いたことない。ましてや、宝石がご飯を温めたりできない。ねえ、あなたは、どこから来たの?あなたの知る世界は、どんな世界だった?」
修学旅行の夜、好きな人を教え合うような緊張感だけが夏樹の身体にのしかかる。
「……私ね、リーダリアのことが本当に大好きだったのよ。でも、どうしてリーダリアを喪ってしまったのか、思い出せないの。確かに、愛していて、確かに悲しかったはずなのに、記憶の所々に鍵がかけられたように、一切が思い出せないの」
「じゃあ、覚えてることを教えて。シャルロッテのことを教えて。私も教えるから。私のことも、ここのことも。それでさ、これからのこと考えよう」
(言えた、ちゃんと言えた。きっと大丈夫。今はちゃんと話せるから……)
深呼吸をして、それから夏樹は話し始めた。
「ここは日本っていう国の、瀬戸内海って海にある小さな島。日本はもっと大きい島国で、世界はもっとずっと大きな大陸でできてる。この島にはほとんど人は住んでなくて、ごくたまに自転車の旅に疲れた人が休憩しに来るぐらい。この世界は、科学がとても発達してて、言い表しようがないくらい便利な生活をしてる。うちの国じゃ結構神様とかは信じてない人がいるかな?けど、自然には、万物には神様がいるって考えが根付いてるけど」
一拍おいて、再び話し出す。
「私、別にここで生まれてないんだよね。大学も行かずに、仕事にも就かずにふらふらしてたから両親と折り合いが悪くなったのとか、おばあちゃんが農作業しんどくなったのとか、そういうのが重なって、最近こっちに住み始めて。小さい頃から引っ越すことは多かったし、思い入れのある、故郷なんて呼べる場所なかったし、ちょうどよかったけど」
自嘲気味に投げられた言葉を、シャルロッテは何も言わずに受け止めた。
「じゃあ、私たち似た者同士ね。この島の新参者で、故郷が無い、ふたりぼっちの存在」
品の良い笑顔で、笑い飛ばすように言った。
「今度は私の番ね。この数年で、世界は、特にリーダリアがあるウィルトムル王国は進歩を遂げたわ。《精霊石》の持つ、願いを叶える力を機械の動力に転用する技術が確立されたの。王国の西部の貴族と学者が中心となってね。それからは、産業に機械が利用され始めて、飛行船なんかもできて。ついにはオートマタ、芸術作品にまで使われたわ。《精霊石》を使った情報送信も行われたりして。けれど、西部の貴族たちは次第に軍事利用に目をつけたの。今じゃすっかり武器の原料よ」
シャルロッテから語られる、遠い遠い国の、世界の話は作り物のように思えた半面、身近な話のように感じられて、ぞっとした。
「でも、リーダリアは東部の辺境に位置しているから、そんな話は無縁だったわ。変わらずオレンジやオリーブ、ブドウを育てて、加工して、王都に売りに行ったりなんかして。私はそんなリーダリアの領主の家に生まれたの。田舎貴族だったし、社交界じゃ爪弾きものにされていたけれどね。屋敷からは七色の丘、っていう丘と農園、海が見渡せて、それはもう素敵だったのよ。縁談もあったのだけれどね……。でも、それ以上思い出せないの。情けない話ね。大好きだった故郷なのに……」
ごろん、と寝返りをうってシャルロッテは背を向けてしまった。
「そんなことないよ。……この島はさ、外とは切り離されてるんよ。だから、ここにいなよ。思い出せるまで。ちょっとした旅行になら連れてってもあげる。ひとまずさ、明日服買おうよ。靴も。お嬢様には大変かもやけど畑仕事も手伝ってよ」
なんとなく、胸のあたりがざわざわする気がして、夏樹もシャルロッテに背を向けるように寝転がった。
「……!私、田舎貴族なのよ。畑仕事だって醸造だって手伝ったことくらいあるわ」
シャルロッテが鈴を転がすように笑う。
それにつられて、夏樹も笑い出す。
「明日から、何をしよっか。たくさん、たくさん、楽しいこと見つけよう」
おやすみ、と言うと、夏樹は天井に視線を遣った。
木目の一部が叫んでいる人の顔に見える。幼い頃、片手で数える程度しか泊まったことがなかったが、そのたび天井の木目が気になって寝付けなかったことを思い出した。
(お母さんは別の部屋だったし、お父さんはそもそも来なかったし。1人で投げ出されたみたいな感じがして嫌やったんよなあ)
徐々に重たくなる瞼を閉じて、夏樹は眠りに落ちた。
その横で、シャルロッテはぼんやりと壁のシミを見つめていた。
どうして自分はここに来たのか、思い出そうとして。
けれども、存外体は疲れ切っていたようで、しばらくして意識を手放した。
***
日に、オレンジが照らされている。オリーブの硬い葉が輝いている。幼い子供が葡萄酒用のブドウを食べて、酸っぱいと言って駆け回っている。
それを見守るように碧い海が揺蕩って、七色の丘が鎮座している。
街の至る所から、オレンジのジャムの、甘酸っぱい香りがする。
小さな営みが、変わらず紡がれている。
(ここは……リーダリア。あれ、私、どうして?)
リーダリアの街並みを、屋敷の大きな窓が切り抜いている。
「シャルロッテ、お前に婚約の申し入れがあった」
白髪交じりの、柔和な顔つきの男が言った。
「お父様……」
状況が飲み込めない、という風に、落ち着きのない声で返事をするシャルロッテに、父が神妙な面持ちで話を続ける。
「お前がここを愛していることは充分承知している。まだそういった話は早いと断ることもできるだろう」
「……相手は、どなたですの?」
頭が割れるように痛い。痛みは鮮明だというのに、思考には靄がかかったように機能しない。
(このやりとりを知っているはず、はずなのに……。私はどうしてここにいるの……?私はナツキといたはず。あれ、ナツキって誰だった……?)
「相手は______の、______だ」
「今、なんと……」
刹那、ごおっという音が鼓膜を震わせた。
街が燃えている。
「……!お父様!お母様!アイリス!」
叫んでも、誰も声を返さない。不気味なほど、屋敷は静けさに満ちている。
鉄のようなにおいが鼻を刺した。
(ああ、嘘、いや、いや!)
シミひとつなかったはずの壁は、赤黒い血で濡れている。
気づけば屋敷にまで火が回っていて、足の踏み場もなくなってしまった。
(いや、いや、いや!どうして、ねえ、どうして!!)
鼓動が早鐘をうつ。汗が止まらない。呼吸がどんどん浅くなる。
(お願いだから、どうか______!)
「______ッテ?___ロッテ!シャルロッテ!」
少し低い、女性の声に呼ばれて目が覚めた。
「ナツキ……?わたし、私」
「気づいたらうなされててさ。大丈夫?」
夏樹の、黒くて大きな目がシャルロッテを覗きこむ。
「夢を、見ていたの。とっても嫌な夢……」
そう言いながら、シャルロッテは眉間のあたりを指でつまんだ。
(思い出せない。一体何の夢だった……?)
「私、水持ってくるね。それと、冷房の温度下げよっか。暑いと夢見も悪くなるもんね」
部屋に1人、シャルロッテは取り残された。
夏樹がすぐ戻ってくることくらい理解できているはずなのに、途方もない孤独感が押し寄せる。
耳をすませると、機械の音に混ざって、波の音が聞こえてきた。
「水、持ってきたよ」
カラン、と氷の高く澄んだ音が響く。
夏樹が盆にのせて運んできたコップ1杯の水は、よく冷えていた。
一口飲むだけで、体にこもった嫌な熱が引いていき、思考が透明になる。
「ありがとう。だいぶ落ち着いたわ」
「どういたしまして。まだ朝まで時間あるし、寝よ」
はにかむように笑って、夏樹はシャルロッテの手を取った。
「手つないで寝よっか。嫌な夢を見ないおまじない」
「……なにも、訊かないの?」
「夢なんて起きてしばらくすれば忘れるもんじゃん。だから、言いたくなったら教えて」
「ありがとう。おやすみなさい」
「ん。おやすみ」
次にシャルロッテが起きたのは、海鳥が鳴く、朝陽が高い位置に動きつつある時間帯だった。
「おはよう。朝ごはんもうできてるよ」
既に夏樹は着替えを済ましていて、肩まである髪をくくっているところだった。
「服は昨日着てたワンピースがもう乾いてるから、いったんそっち着てもらってもいい?私のじゃ外出するには大きいだろうし」
「ええ。わかったわ。今支度するわね」
まだ1日もこの家で過ごしていないが、勝手は覚えつつある。
洗面所で顔を洗い、昨晩夏樹が、買い物に出たとき、偶然くじが当たったのだと言っていた歯ブラシで歯を磨く。
ワンピースに着替えて、寝間着として借りていた夏樹の服は畳んでかごに入れた。
居間の方に行くと、パンの焼けた香りに満ちていた。
「今日はたまごサンドとハムとレタスのサンドイッチ、それと早生みかんのジュース」
「とっても美味しそう!」
「さ、食べよ」
いただきます、と2人の声が重なる。
サンドイッチに使われているパンは軽く焼かれていて、嚙むたびに小麦の香りがあふれる。
たまごのフィリングは濃厚で、胡椒が効いている。ハムは肉らしさが残っていて、シャクシャクとした噛み心地のレタスによく合う。
「このジュース、オレンジジュースと似ているのかと思ったけれど、こっちの方がまろやかね!」
「でしょ、うちの、というよりこの辺りの名産品だし」
「そういえば、おばあさまは?」
「朝の日課の散歩だよ。もう朝ごはんももう食べちゃった」
年寄りの朝ははやいねー、と夏樹が茶化す。
「まあ、朝のお散歩って素敵。私もお散歩は好きよ」
「そういうもん?」
「そういうもん、よ」
「ふうん」
夏樹はつまらなさそうだった。
「お料理は、ナツキが?」
ふと気になって、シャルロッテは尋ねた。
「ううん。おばあちゃんが。手伝ったりはするけど、昨日今日はおばあちゃん1人で。喫茶店、カフェテリアを経営してるぐらいだし、料理は得意なんよ」
「そうだったのね。こんなに美味しいお料理を作れるなんて、尊敬するわ」
「シャルロッテは料理はしないの?」
「お料理は好きよ。お菓子づくりも!でもアイリス、侍女によく止められたの。『公爵家の娘が率先して料理を作ってはなりません!』って言われちゃって」
懐かしむような表情に、夏樹は何も言えなくなってしまった。
「ねえ、今日はお買い物に行くのよね?」
「え、ああ、うん。今日、っていうか、今日と明日かな。フェリーは11時に出るやつしかないから」
「じゃあ旅行ね!」
「旅行って……まあ、たしかにそっか」
あはは、と夏樹が笑い出した。
「そう、旅行。素敵なお洋服を探して、食べ物を探して。楽しい旅行!」
2人で笑い合いながら、朝食を食べる。
「ごちそうさまでした」
空の食器をシャルロッテが台所に運ぶ。
「私にも洗わせて」
そう言って蛇口を捻ろうとする手を、急いで夏樹が止める。
「駄目だよ、お嬢様が食器洗うなんて。私がアイリスさんに怒られる!」
夏樹は、会ったこともない侍女にお叱りを受けることを気にしていた。
「気にしないで、それにアイリスはもう______」
(もう、何だったっけ……?)
不思議そうにする夏樹を前に、ごまかすように続ける。
「もう、今更そんなこときにしないわ」
「お転婆だったのね」
「まあ、そんなところね」
「じゃあ、手伝ってもらおうかな」
2人で並んで皿を洗うのは、心地よかった。特に会話はないけれど、孤独感が埋められる気がしたのだ。
それから2時間と経たないうちにフェリーの乗り場へ向かった。
でっぷりとした体形の男が操舵をしている船は、10人乗れるかどうかといったところだ。
「それじゃ、今日もよろしく頼んだよ」
祖母が深々と頭を下げる。
夏樹がこの船に乗るのは、島に来てから6回目になる。
「お願いします」
「よろしくお願いいたします」
夏樹とシャルロッテも、丁寧にお辞儀をした。
他の島民たちは今日は利用しないようで、船は3人だけを乗せて出航した。
漁船に近い、本当に小さな船なので、夏樹はシャルロッテが酔ってしまわないか心配していたが、終始シャルロッテは窓から見える景色に心を躍らせているようだった。
1時間もしないうちに、近隣の、バスが停留する島に到着した。
「今日はレンタカー借りるから。おばあちゃんとシャルロッテは案内所のそばにいて」
同じように過疎に悩まされているとは言え、観光地になっていることや、島が比較的大きいこともあり、わずかな台数ではあるがレンタカー会社が設けられている。
高校3年の冬、大学受験のため自由登校になる期間を利用して自動車免許を取得していた夏樹は、食料品の買い出しに出るときや、祖母の病院に付き添うときには車を借りて移動をしていた。夏樹たちが暮らしている島よりは便利だが、バスの本数はそれでも両手で事足りるほどしかないのだ。
車の鍵を受け取った夏樹は、船着き場のすぐ横にある案内所へ戻った。
「お待たせ、いこっか」
2人はベンチにちょこんと腰かけていた。
「ありがとねえ」
申し訳なさそうに祖母が言う。
夏樹はそれが心苦しかった。
それをごまかすように、2人を先導するように歩く。
「この車だよ」
助手席に祖母を座らせ、運転席の後ろのドアを開けてやる。
「ここにシャルロッテは乗って。座ったらこのベルトの先端をここに挿して」
「これが車?私の知っているものと違うわ」
「これはガソリンで動くんよ」
「ガソリン……?」
「液体の燃料、って言えばいいかな?」
シャルロッテは不思議そうに車内を見回した。
「液体なんてどこにもないわ」
「中に入っとるんよ」
「よくわからない」
「私も正直機械の構造とかは詳しくないからなあ」
シャルロッテがシートベルトを着けたのを見届けると、夏樹は運転席に座り、エンジンをかけた。
普段買い物をしているショッピングモールは、病院と目と鼻の先の場所にある。
「じゃ、出発するね」
令嬢を連れていると思うと、緊張していつものように法定速度ギリギリでは走れなかった。
疲れがとれていないのか、それともようやく緊張がほぐれてきたのか、シャルロッテはすうすうと寝息を立てていた。
そのことを知ってか知らずか、祖母は静かに車窓の外を眺めている。
病院の予約の時間まではかなりの余裕があったので、少しだけ遠回りをした。
「じゃあ、私たち買い物してるから」
病院の入り口の前で祖母を降ろし、ショッピングモールに車を停めた。
「起きて、シャルロッテ」
瞼をこすって緩慢な動きで車を降りるその仕草は、子供のようだ。
(私も小さい頃はこんなだったのかな……)
幼い頃の光景を思い描こうとしても、思い出せるのは両親が言い合いをする姿だけだ。
(どうすればいいかわからなくて、寝たふりしてるうちに寝ちゃったりしたなあ)
照れくさそうに、シャルロッテが笑う。
「あまりに心地いいから、つい寝ちゃったわ」
「ふふ、そっか。よかった」
(昔のことなんて今更、いいや。こんなに今が心躍るんだから)
「行こう!」
友達とショッピングなんていつぶりだったか、そんなことを思いながら入り口の自動扉をくぐった。
「扉が勝手に……!」
目に入るすべてのものにころころと表情を変えるシャルロッテが、夏樹には微笑ましく見えた。
「さ、まずは服探そう」
「こっちにはたくさんの服があるのね」
これとか、と指をさした先にはパーカーやスウェットパンツ、へそが見える丈のタンクトップなんかが並んでいる。
「若者向けのエリアだからねえ。もうちょい年上向けのとことか、別の店行けばワンピースとかブラウスとかもあるよ。お金はまあ、気にせず好きなの持ってきなよ」
ちらりとカバンに視線を落とす。
中にはクレジットカードが入った財布がある。
高校生の頃からアルバイトをして貯めた金額はそこそこ大きい。ファストファッションぐらいなら気にせず買ってやれる。
「あ、でも。動きやすい服も買わせてね。たぶん島で暮らすのには何着かあった方がいいし。Tシャツは嫌じゃなければ共用でもいいんだけど、サイズ合わないのも多いだろうし」
「借りてもいいの?」
「もちろん」
「ありがとう。……そうだ、ナツキも選んでよ。私に似合う服!」
シャルロッテが無邪気に笑う。
「いいの?私なんかが選んで」
「あなたに選んでほしいのよ。ずっと、夢だったから。お友だちにドレスを選んでもらうことが」
(ドレス、か。やっぱりお嬢様なんだな)
「……任せて」
シャルロッテは物珍しそうにカジュアルな服やスポーティーな服を手に取っている。
(美人だし、なんでも似合うんだろうなあ……)
そう思いながらも、夏樹はブラウスやスカートを手に取る。
自分ならあまり好んで着ようとはしない服だが、シャルロッテの上品なたたずまいを見ていると、やはりこういったフェミニンな服が合っている、と思うのだ。
「こんなのどう?」
空色と紺色のタータンチェックのロングスカートを見せる。
「まあ、可愛らしい!」
「今シャルロッテが持ってる服も可愛いよ」
そんなやり取りをしながら、結局ブラウスを3着、スカートを4着、スウェットパンツを二着、Tシャツを1着買った。
「動きやすい服よりドレッシーな服が多くなっちゃったわね」
「シャルロッテに似合う服を選んだらこうなっただけで……」
「まあ、責めてないのよ。ただ、その。嬉しいのよ。生まれたときからずっとこういう服を着ていたから、似合ってるって言ってもらえると、人生を肯定してもらえたみたいでうれしいの」
そんな大層な、と夏樹は思ったが、「人生を肯定してもらえた」という言葉が胸に残って、自然と笑みがこぼれた。
「ほら、靴も探そう」
靴はさすがに何足とは買えないので、スニーカーを1足とパンプスを1足だけ買った。
「荷物増えてきたし、車に置きに戻ろうか」
「私も持つわ」
「いいって、どうせ食料品とか買うのにはかさばるし」
車のトランクに買ったものを乗せ、近くにあったカートを引いて食料品売り場に行く。
魚や肉、卵、野菜と果物、牛乳、それから切れかかっていた米と小麦、イースト、バター、ヨーグルトをかごに入れた。
「これは何?」
途中でスナック菓子や菓子パンに興味を示すシャルロッテに「1種類ならいいよ」と言うと、子供のように目を輝かせて一口大の、中にチョコレートが入ったパイのお菓子と、ピザパンを持ってきた。
会計をしている最中に、カバンの中でスマートフォンが小さく揺れた。
(電話……?誰から?)
支払いを済ませ、急いで商品を袋に詰める。
不在着信の履歴には、「おばあちゃん」と表示されている。
車に戻ってから、折り返しをかけた。
無機質なコール音が、夏樹の不安を煽る。
「!つながった!もしもしおばあちゃん?」
浅い呼吸を繰り返しながら、返答を待つ。
「もしもし、夏樹。ごめんねえ、ばあちゃん______」
入院することになりそうや、夏樹にはそう聞こえた。




