7.実家(セーフティエリア)の崩壊と、妹の冷徹なる宣告
「ただいま……。ようやく、聖域に帰ってきた……」
泥まみれの制服、燃え尽きた胃袋、そしてボロボロの精神を引きずり、俺、月島朔は実家の玄関を潜った。
時刻は夕暮れ。学園の窓からダイブして逃走し、ヒロインたちの追撃を振り切るために路地裏を三度曲がり、無関係な民家の物干し竿に干されていた布団に擬態してやり過ごした結果、ようやくたどり着いた終着駅だ。
俺の両親は至極まっとうな会社員で、親に借金もない。この家こそが、狂ったラブコメの法則から切り離された唯一の平穏なセーフティエリアのはずなのだ。
「おかえり。……お兄ちゃん、何その格好。泥棒と格闘でもしたの?」
廊下の向こうから、妹の結がジト目で現れた。
手にはお玉を持っており、どうやら夕食の準備をしていたらしい。
「結……。ああ、俺は戦ってきたんだ。致死量の勘違いと、覇王色の愛と、銀髪の妄想騎士道とな……」
「……お母さんに電話しよっか? 『お兄ちゃんが今日一日で完全に壊れました』って」
「いいんだ、今はただ……お前の作った普通の味噌汁が飲みたい。カプサイシンの入っていない、平穏の味がする汁を……」
俺はリビングのソファに倒れ込んだ。
視界には、もう「フラグ」は見えない。家の中には家族しかいない。家族間に恋愛フラグが立つことはない――はずだ。
モブという生活を失いかけ自暴自棄になりそうだったが、俺にはまだ残っているものがあるじゃないか。
『(俺にはまだ……妹がいる゛よ!! 結がいれば、俺はモブに戻れるんだ!!)』
だが、その安らぎは、ダイニングテーブルの上に置かれた「一通の手紙」によって粉々に打ち砕かれた。
「結、これ……何だ?」
そこには、若桜財閥の紋章が刻まれた、金縁の豪華な封筒が置かれていた。
「ああ、それ。さっき黒塗りの高級車が家の前に止まって、サングラスの怖い人たちが『朔様に』って届けていったよ。あと、ついでにお中元みたいなノリで、家の防犯カメラを最新式のレーザー照射機能付きに勝手に付け替えていったから」
「…………ッ!!」
俺は震える手で封筒を開けた。中には、達筆な字でこう記されている。
『朔、あなたの家は少しばかり防犯に問題があるわ。今夜、私の専属警備チームを派遣して、あなたの実家の周囲を24時間監視させることにしたわ。……安心して眠りなさい。あなたのプライバシーは、私が完全に管理してあげる。あ、お風呂の換気扇からたまに変な音がするのは、私の高性能集音マイクが設置された合図だから気にしないで』
「プライバシーの管理じゃなくて、それ完全な盗聴と監視だよおおおおおっ!!」
俺は手紙を握りつぶして叫んだ。
ダメだ。実家がセーフティエリアではなく、絶対女王・葵依の「管理区域」に設定されてしまった。俺の両親が一生懸命ローンを払っているこのマイホームが、勝手に要塞化されようとしている。
きっと今頃伊達眼鏡を光らせながら言っていることだろう。
『(問題ない。月島朔のプライバシー放棄……これもすべて、私のシナリオ通りだ)と』
「あ、あとこれ。朔ちゃんに渡しそびれた!って言って、さっき雫乃ちゃんがすごい勢いで庭の窓から放り投げていったよ」
結が指差したのは、庭の芝生に深く突き刺さっていた、重し付きのビニール袋だ。投げた速度のせいで、地面に小さなクレーターができている。
中には、冷めて少し固くなった卵焼きと、一通のメモが入っていた。
『朔ちゃんへ! 保健室から逃げ出すなんて水臭いよ! あたし、朔ちゃんの家が見える位置にテントを張ったから、明日は朝4時に起こしに行くからね! 絶対一緒に登校しようね! 逃げられないように、玄関の前に『落とし穴』を掘っておいたから、気をつけて出てきてね!』
「朝4時にモーニング・コールならぬモーニング・落とし穴!? 警察を……警察を呼んでくれ!! 幼なじみ特権は万能じゃないんだぞ!」
絶望に打ちひしがれる俺の肩に、翡翠の色の瞳を思い起こさせるような冷たい風が吹き込んだ。
窓の外を見ると、庭の木陰に、銀髪の少女が立っているのが見えた気がした。いや、見間違いではない。彼女は萌え袖の手で、自分自身の心臓のあたりをトントンと叩く「捧げよ」のポーズをしながら、静かに闇へと消えていった。
「(あいつ……絶対『朔の心臓は私が守る』とか、また騎士様設定の妄想をアップデートしてやがる……!)」
ピコーン! ピコーン! ピコピコピコーン!
家の中にまで、フラグの成立音が響き渡る。
『(逃げちゃダメだ……逃げちゃダメだ……逃げちゃダメ……いや、逃げ場がねぇぇぇぇぇっ!!)』
「……お兄ちゃん、大変だね。モブになりたいって言いながら、やってることが完全に『選ばれし勇者』のそれだよ。っていうか、さっきから窓の外でドローンが3機くらいホバリングしながら、お兄ちゃんの寝室をサーモグラフィーでスキャンしてるんだけど。これも平穏なモブの日常の一部なの?」
結が、哀れみの目で俺を見つめながら味噌汁を差し出した。
俺はそれを啜った。……しょっぱい。涙の味がした。
「結……俺、明日学校行きたくない。このまま布団の中で冬眠したい。あるいは、宇宙の彼方へさらわれたい」
「だめだよ。明日は全校集会で、『ドッジボールで活躍した生徒の表彰式』があるって、学園の公式SNSに書いてあったもん。ほら、ハッシュタグ『#伝説の黒閃キック』でトレンド入りしてるよ」
「理事長ぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
俺の悲鳴は、若桜財閥のヘリコプターが上空を旋回する轟音にかき消された。
*****
【おまけ:女理事長の極秘緊急放送】
深夜2時。
電源を切っていたはずのテレビが突如として砂嵐と共に起動した。
『あー、あー。月島朔、見ていますかしら?』
画面に映し出されたのは、豪華な椅子に深く腰掛け、高級なワイン(の中身はおそらくぶどうジュース)を回しながら不敵に笑う、例の女理事長だった。
もちろん、俺たちとは血の繋がりなど一切ない。
『あなたの実家のセキュリティを強化してあげましたわ。若桜さんのドローン、桃瀬さんのテント、そして三栗屋さんの「樹上待機」。……素晴らしい、これぞまさに「四面楚歌」ならぬ「四面ラブコメ」状態! おーっほっほっほっ!』
「(寝かせてくれ……頼むから寝かせてくれ……)」
『明日の表彰式、楽しみにしていますわよ。あなたがどんな顔をして、全校生徒の前でヒロインたちに囲まれるのか……。ああ、想像するだけで扇子が止まりませんわ!』
画面はプツンと切れ、再び静寂が訪れた。
……いや、静寂ではない。
窓の外からは、雫乃がテントの中で叩いている「朔ちゃん大好き太鼓」のトントンというリズムと、葵依のドローンが発するウィィィィンという機械音、そして時折、屋根の上で翡翠が忍者さながらに移動する足音が聞こえてくる。
俺は布団を頭まで被り、ガタガタと震えた。
俺の両親は明日、この光景を見て一体何を思うだろうか。
「朔、お前……いつの間に軍隊を雇ったんだ?」と聞かれるのだろうか。それとも「ついに組織(学園)に消されるのか?」と泣かれるのだろうか。
月島朔の戦いは、ついに「日常生活」という領域まで完全に侵食され、崩壊した。
『(次回、月島朔、死す。登校スタンバイ!!)』
俺は、ハバネロで荒れた胃と、フラグで荒れた人生を抱え、実家の布団の中で丸くなって震えることしかできなかった。
明日の朝、玄関を開けた瞬間に俺を待っているのは、希望の光か、それともさらなるヒロイン(刺客)なのか。
絶望のスクールライフは、いよいよ2日目の朝を迎えようとしていた。




