6.見知らぬ天井
「……知らない天井だ」
ゆっくりと重い瞼を開けた俺、月島朔の口から、異世界転生でもしたかのようなセリフが自然と漏れ出た。
真っ白な天井、消毒液の匂い、そして周囲を囲む薄いカーテン。どうやらここは、学園の保健室のベッドの上のようだ。
意識が徐々に覚醒していく。
そうだ、俺は昼休みに『激辛デス・ハバネロカレーパン』を一気食いして胃袋に炎の精霊を召喚してしまい、その後のドッジボールで胃痛のあまり奇妙な体勢をとった結果、幼なじみを庇う形で剛速球を黒い閃光で弾き返し……そのまま気絶したのだ。
「……生きているのか、俺は」
そっとお腹に手を当ててみる。胃袋のサラマンダーは、どうやら休火山になったらしい。鈍い痛みはあるが、命に別状はない。
俺は実家暮らしだ。両親は真面目な会社員で、親に借金もない。家に帰れば、妹の結が作った、カプサイシンなど微塵も入っていない普通の味噌汁と白米が待っているはずだ。
そうだ、帰ろう。こんな狂った地雷原(学園)から一刻も早く離脱して、結のいる平和な我が家へ帰還するんだ。
俺がベッドから身を起こそうとした、その時だった。
「だから! 朔ちゃんの看病はあたしがするの! 幼なじみなんだから、当然でしょ!?」
カーテンの向こう側から、桃瀬雫乃の甲高い声が聞こえた。
「下がりなさい有象無象。朔は私を守るため……いえ、私の王の器を試すために自ら傷を負ったのよ。彼の治療は、我が若桜財閥の誇る、絶対に失敗しない天才外科医チームに執刀させるわ!」
学園の絶対女王、若桜葵依の冷徹かつ傲慢な声が響く。
「二人とも、騒がないで。……朔の呼吸が乱れているわ。ここは直ちに、心肺蘇生法……とくに人工呼吸による酸素供給が必要よ。私がやるわ」
銀髪の転校生、三栗屋翡翠の、感情の起伏はないがどこか熱を帯びた声。
「(全員いるのかよおおおおおおおおっ!!)」
俺はベッドの上で、音を立てずに頭を抱えた。
最悪だ。ここは保健室ではない。三頭のドラゴンが獲物(俺)を巡って縄張り争いをしている魔境だ。
ピコーン! ピコーン! ピコピコピコーン!
カーテン越しでもわかる。三人の頭上に、とてつもない質量のフラグが形成されている音がする。
雫乃の【手作り特製ドリンク(※致死量)で看病・夫婦の予行演習フラグ】!
葵依の【財力に物を言わせた過保護・特別病室VIP監禁フラグ】!
翡翠の【人工呼吸という名のファーストキス・息を重ねるフラグ】!
「(ダメだ……ここで俺が目覚めれば、確実に誰かの看病イベントが進行してしまう! 特に翡翠! お前、絶対人工呼吸のやり方わかってないだろ! 漫画の知識だけで唇を奪いに来る気満々じゃないか!)」
どうする? どうすればこの包囲網を抜け出せる?
今、カーテンを開けられれば俺は終わる。選択肢は一つしかない。
「(寝たふり……いや、違う。ただの睡眠では『寝顔を見つめられるイベント』が発生してしまう。俺は……死体になるんだ!)」
俺はベッドに再び横たわり、自己暗示によって極限まで心拍数を下げる作戦に出た。
精神エネルギーを具現化した超能力で自分の心臓を止めることはできないが、全神経を集中させて呼吸を薄く、薄くしていく。体温を下げ、存在感を消し、このベッドと同化するのだ。
『(俺はシーツ……俺は枕……俺は概念……)』
シャッ!
無情にも、俺が完全なる死体になりきる前に、カーテンが勢いよく引き開けられた。
「朔ちゃん!?」
「朔!」
「……!」
三人のヒロインが、ベッドをぐるりと囲みこむ。
俺は目を固く閉じ、微動だにしない。呼吸も1分間に1回レベルまで抑え込んでいる。頼む、保健の先生を呼んできてくれ。そして先生に「ただの胃もたれですね」と診断させて、このイベントを強制終了させてくれ。
「……おかしいわ。息をしていないように見える」
翡翠が、俺の顔を覗き込みながら呟いた。
「嘘!? 朔ちゃん、朔ちゃん! 死なないで朔ちゃん!」
雫乃が俺の肩を揺さぶる。頼む、揺らすな。休火山になったはずの胃袋のハバネロが、シェイカーのように撹拌されて再び目を覚ましそうになる。
「どきなさい! すぐに医療用ヘリを屋上に呼ぶわ! AEDはどこ!? 誰か、一番出力の高いAEDを持ってきなさい!」
葵依がスマホを取り出し、財力に物を言わせて物騒な医療機器を手配しようとしている。
「(高出力のAED!? やめろ、俺は不整脈じゃない! 確実に黒焦げになる!)」
「待って。AEDの前に、気道の確保よ」
翡翠の冷たい手が、俺の顎に触れた。
「私が、直接息を吹き込むわ。……朔、少しの辛抱よ」
「(ヒィィィィィィィッ!? くる! 銀髪美少女の顔が、わずか数センチの距離まで迫ってくる気配がする!!)」
シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐり、翡翠の吐息が俺の唇にかかる。
限界だった。モブとしての平穏を守るためとはいえ、これ以上目を閉じているのは命の危機だ。
俺はカッと両目を見開いた。
「ブハァッ!!」
「きゃあっ!?」
急に蘇生した俺に驚き、翡翠が小さく悲鳴を上げて一歩下がる。
「起きてる! 起きてるから! 心臓マッサージも高出力AEDも人工呼吸も、一切必要ありません!!」
俺はベッドの上に正座し、バンザイの姿勢で全力の無事をアピールした。
「朔ちゃん! よかったぁ……っ!」
雫乃が目に涙を浮かべて抱きついてきそうになるのを、俺は両手で「待て」のポーズをとって制止した。
「俺は平気だ! むしろすこぶる健康だ! このまま実家に帰って、妹の結が作った普通の晩御飯を食べるくらいには回復している!」
「強がらなくていいのよ、朔」
葵依が、心配そうに(しかしどこか妖しい熱を帯びた瞳で)俺の頬に触れようとする。
「あの剛速球を自ら弾き返し、胃を痛めるまで戦ったあなただもの……。少しは私に甘えなさい」
「違う! ボールは靴紐を踏んで転んだ偶然だし、胃が痛いのは購買のハバネロパンのせいだ! 俺に悲しき過去や隠された武神の力など一切ない!」
「……不器用な人」
翡翠が、俺の言葉を完全にスルーして、うっとりとした表情を浮かべた。
「自分がボロボロなのに、私たちをこれ以上心配させまいと、必死に『何でもないフリ』をして強がっているのね……。……そんな朔だから、私は……」
ピコピコピコピコピコーン!!!!
三人の頭上のフラグが、俺の必死の弁明を「自己犠牲の強がり」という最高のスパイスとして吸収し、さらに巨大に、さらに強固に輝き始めた。
「(なんでそうなるんだよおおおおおおおっ!! 何を言ってもプラスの好感度に変換される、この狂った翻訳機能はどうなってるんだ!)」
俺は悟った。
この空間に留まっている限り、俺の言葉はすべてラブコメの甘いセリフへと脳内変換されてしまう。ならば、取るべき行動は一つ。
「……悪いが、俺は行く」
俺はベッドから颯爽と降り立ち、上履きを履いた。
そして、保健室のドアではなく、なぜか開け放たれていた1階の『窓』へと向かってダッシュした。
ラブコメ主人公がピンチを脱する最強の物理的手段、それは「窓からの逃走」である!
「待って、朔ちゃん!」
「逃がさないわよ、朔!」
俺は窓枠に足をかけ、振り返ることなく空に向かって親指を立てた。
脳内で、溶鉱炉に沈んでいくあの有名なサイボーグの姿がフラッシュバックする。
「I'll be back……いや、二度と戻ってくるか!! モブの平穏は、俺自身の手で勝ち取るんだ!!」
俺はそのまま、校庭の植え込みに向かって華麗にダイブした。
「あっ、朔ちゃん! 窓から飛び降りるなんて危ない!」
「……なんて身軽なの。怪我をしているはずなのに、まるで風のように……」
「……照れ隠しで逃げていく背中も、愛おしいわ……」
ドサァッ!!
着地の瞬間、植え込みの木の枝が制服のズボンに引っかかり、俺は無様に顔面から泥へと突っ込んだ。
痛い。ハバネロのダメージも相まって、全身がボロボロだ。
しかし、保健室の窓から俺を見下ろす三人のヒロインたちの目には、泥だらけで這いつくばる俺の姿が「己の美学を貫く孤高の戦士」のように映っているらしく、三つの巨大なフラグは夕陽を浴びて神々しいほどの光を放っていた。
「……終わった。俺の高校生活、完全に詰んだ……」
俺は土の味を噛み締めながら、一刻も早く実家に帰り、結の作った普通の味噌汁を飲んで現実逃避することを心に誓った。
恋愛フラグが見える俺の戦いは、泥とハバネロと致死量の勘違いにまみれながら、さらなる地獄のハーレム・ウォーへと突入していくのだった。




