5.フラグを祓え、校庭の黒い閃光
昼休みの地獄の包囲網を『激辛デス・ハバネロカレーパン』の一気食いという狂気の沙汰で突破した俺、月島朔。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
「……胃が、燃えている……。いや、胃袋の中に住み着いた炎の精霊が暴れ回っている……」
午後の5時間目、体育。
俺は指定の体操着に着替え、校庭の隅で膝を抱えていた。腹の中では今もなお、小型のマグマがグツグツと煮えたぎっている。
俺の両親は健康で真面目な会社員であり、親に借金など一円もない。そんな平穏な家庭の食卓で、ハバネロなどという兵器クラスのスパイスが出たことなど過去十七年間の人生で一度もないのだ。俺の貧弱な胃粘膜は、現在進行形で悲鳴を上げていた。
ピンポンパンポーン♪
『あー、あー、テステス。迷える子羊たち、午後の授業も張り切っていきますわよ!』
校庭のスピーカーから、またしてもあの派手な縦ロールの女理事長の声が響き渡った。
念のために何度でも言うが、彼女は俺や生徒たちとは親族でもなんでもない。血の繋がりなど一切ない、完全なる赤の他人である。ただ「権力と財力を持て余した悪趣味な暇人」というだけで、この学園のルールを好き勝手に書き換えている恐るべき女だ。
『本日の体育は、合同クラスでの【男女混合デスマッチ・ドッジボール】といたしますわ! もちろん恋愛過激推奨ルール適用! 男子は気になる女子を庇って好感度を稼ぐもよし、女子は華麗なパスで愛を育むもよし! 最後まで生き残ったベストカップルには、理事長権限で豪華ホテルディナー券をプレゼントですの! おーっほっほっほっ!』
「……この学園は、一刻も早く文部科学省の監査に入るべきだ」
俺は胃をさすりながら重い腰を上げた。
男女混合のドッジボール。それはラブコメにおいて「男子が女子を庇ってボールに当たる」「意図せぬボディタッチが発生する」「あえて当てられて女子の気を引く」という、フラグの温床の最たるものである。
俺の視界には、すでに幼なじみの桃瀬雫乃、絶対女王の若桜葵依、そして銀髪の美少女・三栗屋翡翠の頭上に、準備運動の段階から巨大な【フラグの蕾】が形成されつつあるのが見えていた。
「(ダメだ……ここで目立てば、確実に彼女たちのフラグが発芽してしまう。俺はなんとしても、開始0秒でボールに当たり、外野という名の安全地帯へ避難しなければならない!)」
ピーーーッ!
体育教師の笛の音と共に、地獄のデスマッチが開始された。
ボールが宙に舞い、血気盛んな男子生徒たちが歓声を上げて走り出す。
俺はすぐさま「モブの流儀」を発動させた。
『(僕は影だ……。いや、俺はモブだ。存在感を極限まで希薄にし、他人の視線を別の場所に誘導する……視線誘導!)』
さらに俺は、全身の毛穴を閉じるイメージで己の生命エネルギー(オーラ)の漏れを完全に絶った。過酷なハンター試験をくぐり抜ける暗殺者一家の少年のように、完全なる『絶』の状態へ移行する。
完璧だ。誰も俺を見ていない。あとは、誰かが投げた流れ弾にわざと当たり、「ああっ、やられたー」と大根役者のように倒れ込めば、俺の体育の授業は平和に終わる。
その時だった。
敵チームの、やけにガタイのいい男子生徒が、凄まじいスピードでボールを投げ放った。
「若桜様! 俺の剛速球を見ていてください…ヤーーーーーーーーーーーーッ!」
バシィィィッ!
しかし、その剛速球は手元からすっぽ抜け、コートの中央で「あたし、もう疲れちゃったー」とのんきに立っていた幼なじみ・雫乃の顔面へと一直線に向かっていったのだ。
「えっ……?」
雫乃が間抜けな声を上げる。
このままでは、彼女の顔面にボールが直撃する。
普通なら「危ない!」と飛び込んで庇うのが主人公の役目だ。だが、それをやれば【幼なじみの身を呈した庇いフラグ】が成立してしまう。
「(どうする!? ここで俺が助ければフラグが立つ! しかし、このまま見過ごせば雫乃が怪我をする! いや、待てよ? 雫乃がボールに当たって保健室に行けば、俺は付き添いを理由にこの地雷原から合法的に離脱できるのでは……!?)」
そんなモブ特有のクズのような計算が脳裏をよぎった瞬間。
「グオォォォォッ!?」
突然、俺の胃袋でマグマが爆発した。ハバネロの遅効性のダメージが、今になって最大出力で襲いかかってきたのだ。
「(い、痛ぇぇぇぇっ!! 胃袋が千切れる! 呼吸を……呼吸を整えろ! 深く吸って、細胞の隅々まで酸素を行き渡らせて痛みを散らすんだ!)」
俺は両足を踏ん張り、大きく胸を反らせて、肺の限界まで酸素を取り込んだ。
『(全……いや、モブの呼吸、壱ノ型!! 胃腸鎮痛!!)』
「すぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
俺が校庭のど真ん中で、謎の構えを取りながら凄まじい吸引音を立てた瞬間。
胃の激痛による反射神経のバグと、全身の筋肉の異常な硬直により、俺の体は「視線誘導」の死角から、コートの中央へと弾かれたように飛び出してしまった。
「なっ!?」
そして、最悪の偶然が重なる。
痛みに耐えるために力強く踏み込んだ俺の右足の靴紐が解けており、それを自分で踏んづけてしまったのだ。
ツルンッ!
「あべしッ!?」
俺の体は宙に浮き、見事な後方宙返り(バク宙)の軌道を描いた。
その瞬間、雫乃の顔面へと向かっていた剛速球と、宙を舞う俺の右足の踵が、空中で完璧に交差した。
天の声が入る。
『(打撃との誤差0.000001秒以内に呪力――もとい、モブの意地が衝突した際に生じる空間の歪み! 黒い火花が散る!!)』
ドゴォォォォォォォォン!!!
まるで超次元の必殺技を放つサッカーアニメのような、すさまじい破裂音が校庭に響き渡った。
俺の踵が偶然にもボールの芯を打ち抜き、空間を歪めるほどの【黒い閃光】めいた威力を乗せて、剛速球を10倍の威力で跳ね返したのだ。
「ひでぶッ!!?」
ボールを投げたガタイのいい男子生徒は、見えない何かに腹を打ち抜かれるようにして、コートの遥か後方へと吹っ飛んでいった。
俺はそのまま背中から地面に叩きつけられ、胃痛と背中の痛みのダブルパンチで意識が飛びそうになった。
静まり返る校庭。
土埃が舞い散る中、俺は朦朧とする意識の中で、またしても「あの音」を聞いてしまった。
ピコーン! ピコーン! ピコピコピコーン!!!
「……あ、朔ちゃん……」
雫乃が、顔面蒼白になりながら、へたり込んでいる俺の元へ駆け寄ってきた。
「あたしのために……あんな信じられないアクロバットで、身を呈してボールを弾き返してくれたの……!? ごめんね、あたしがボーッとしてたから……っ!」
雫乃の頭上に、【命がけの超絶アクロバット庇護・幼なじみフラグ】が、バベルの塔のようにそびえ立つ。
彼女の目からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「素晴らしいわ……!」
コートの端から、絶対女王・若桜葵依が、深紅の瞳を妖しく輝かせながらゆっくりと歩み寄ってくる。
「気配を完全に消すという、一流の暗殺者のような歩法。そこから一転、敵の攻撃を一切の予備動作なしで撃ち落とす、神業のような蹴り……! まるで王の御前を守る近衛兵、いや、私の隣に立つにふさわしい武神だわ!」
葵依の頭上に、【武神認定・覇王の絶対的執着フラグ】が、太陽のプロミネンスのように燃え盛る。
「……朔」
そして、いつの間にか俺の隣にしゃがみこんでいた銀髪の翡翠が、萌え袖で俺の口元についた土をそっと拭ってくれた。
「自分の限界を超えるような痛みを抱えながら……(※ハバネロのせい)。ただの普通の男の子のフリをしているけれど、本当はあんな秘密の技を隠し持っていたのね。……自分の身を挺して女の子を守るなんて。……本当に、どこまでも不器用な騎士様」
翡翠の頭上に、【秘密の力を隠し持つ、私だけの不器用な暗殺騎士フラグ】が、オーロラのように美しく広がる。
「ちがあああああああああああう!!!」
俺は大地を叩き割らんばかりの勢いで叫んだ。
違う! 俺はただ胃が痛くて全集中の深呼吸をしただけで! 靴紐を踏んでスッ転んだ足が偶然ボールに当たっただけで! 黒い火花を散らす暗殺者でもなければ武神でもないし、ただのハバネロパンの被害者だ!!
だが、俺の魂の叫びは、熱狂に包まれた校庭の歓声にかき消された。
『おーっほっほっほっ! 素晴らしい愛の力ですわ! 月島朔、あなたには特別に【モテモテ確定・理事長賞】を授与いたしますわー!』
スピーカーから響く、赤の他人の女理事長の無慈悲な追撃。
周囲の男子からは「月島……お前、ただのモブじゃなかったのかよ……!」という畏怖の眼差しが向けられ、女子たちからは黄色い声援が飛び交っている。
「誰か……俺を今すぐ、普通の焼きそばパンにしてくれ……」
胃袋の痛みと、致死量のフラグの重圧に耐えきれず。
月島朔は、三本のバカでかい旗を背負った三人のヒロインに囲まれながら、校庭の真ん中で静かに白目を剥いて気絶した。
俺のモブとしての人生は、もはや呼吸をすることすら許されないレベルで完全に終了していたのだった。




