4.ハバネロ×ト×カレーパン
嵐のような午前中の授業が終わり、学園に昼休みのチャイムが鳴り響いた。
「……生き延びた。俺は、なんとか午前中の致死量フラグを回避しきったぞ……!」
俺、月島朔は、自分の【主人公席】で机に突っ伏し、深い安堵の息を吐き出していた。
朝の通学路から1時間目が始まるまでの間に、俺の周囲には特大フラグが3本も乱立した。だが、授業中という「教師の目」という絶対的な抑止力のおかげで、奇跡的に平穏な数時間を過ごすことができたのだ。
「腹が減った……」
激しい精神の消耗は、強烈な空腹感をもたらす。俺はフラフラと立ち上がり、財布を握りしめて教室を出た。
目指すは学園の購買部だ。俺の両親はごく普通の会社員であり、親に借金など一円もない極めて真っ当な家庭だが、今日は母さんが寝坊したため弁当がない。ワンコインで買える焼きそばパンでもかじって、午後の地雷原に備えなければならない。
購買部にたどり着いた俺は、戦慄した。
親族でもなんでもない完全なる部外者である、あのイブニングドレス姿の女理事長が発令した『恋愛過激推奨ルール』のせいで、購買部のラインナップが狂っていたのだ。
『一つのパンを端と端から食べる用の超ロング・ポッキーパン(1000円)』
『あーんして食べさせる用・専用スプーン付きラブラブプリン(800円)』
「……なんだこのラインナップは。正気の沙汰じゃない」
そんな狂気のメニューが並ぶ中、棚の隅に、唯一の良心とも言える『普通の焼きそばパン(150円)』が、残り一つだけポツンと残されているのを発見した。
「あった! 俺の平穏なるモブの昼食!」
俺は安堵と共に、その最後の焼きそばパンに向かって右手を伸ばした。
だが、横からスッと伸びてきた別の手と、空中で見事にタッチしてしまったのだ。
「あ……」
「……む?」
隣を見ると、腕に『風紀委員』の腕章をつけた、真面目そうな三つ編みの女子生徒が立っていた。分厚い眼鏡の奥の瞳が、驚いたように俺を見つめている。
ピコッ─
俺の網膜に、本日五度目の電子音が響き渡った。風紀委員の頭上に、【黄色の小さなフラグ】がシュポッと音を立てて突き刺さる。
『最後の焼きそばパンに同時に手を伸ばし、手が触れ合う。「あ、ごめん」「君が先だよ」と譲り合ううち、真面目な彼女の胸に「なんて謙虚な男子……」という小さな恋の炎が灯る微小フラグ』
「(またかよおおおおおおおおっ!!)」
俺は心の中で絶血を吐きながら叫んだ。
学園中が地雷原だ。ただ焼きそばパンを買おうとしただけで、なぜ見ず知らずの風紀委員との間にラブコメの古典的イベントが発生するのか。
普通なら、ここは笑顔で「ごめん、譲るよ」と爽やかに立ち去るのが定石だ。
だが、その「譲る」という行為自体が、フラグ成立のトリガーとなっている! かといって強引に奪い取れば、モブではなく「ただの悪役」になってしまう!
「(ならば……これしかない!)」
俺は伸ばしていた右手を、彼女の視神経が捉えきれないマッハの速度で引っ込めた。
「えっ……!?」
風紀委員の女子が、自分の手が虚空を掴んだことに驚き、目を見開く。
『(残像だ)』
「あ、あの、月島くん……? 今、手が……」
「……勘違いするな、風紀委員」
俺は残像を残したまま、背骨の限界に挑むかのごとく上半身を後方へ直角に反らせ、黒いコートを着た凄腕のハッカーが飛んでくる銃弾を避ける、あの有名な映画の伝説的なポーズをとった。
そして、そのまま空の天井を見つめて、ハードボイルドな声色で言い放つ。俺の脳内で、今度は『青い巨星』と呼ばれる歴戦のパイロットの声が響く。
「俺が狙っていたのは、その焼きそばパンではない。……そいつとは違うのだよ! そいつとは!」
俺は仰け反った体勢のまま、焼きそばパンのすぐ隣に置かれていた、誰も買おうとしない赤黒いパッケージのパンを鷲掴みにした。
『地獄の業火! 激辛デス・ハバネロカレーパン(誓約書付き)』
「俺は最初から、この地獄の炎を求めていたのだ……! 焼きそばパンなど、モブの俺には過ぎた代物だ!」
俺はそのままレジへ向かい、150円を叩きつけてデス・ハバネロパンを購入し、縮地法のようなすり足で購買部を去った。
「月島くん……」
残された風紀委員は、手の中の焼きそばパンと、俺の背中を交互に見つめていた。
「風紀委員の私に気を使って……あんな激辛パンを……。いつも無口で目立たないけど、実は誰よりも熱くて優しい魂の持ち主……!」
ピコピコピコーン!
彼女の頭上の黄色い爪楊枝フラグが、少しだけ成長して【気になる硬派な男子フラグ】へと昇格したのだった。
***
「……やっちまった。また奇行に走って微小フラグを立ててしまった」
教室へと続く廊下を歩きながら、俺は激しい自己嫌悪に陥っていた。
しかし、手に握られた『激辛デス・ハバネロカレーパン』の毒々しいパッケージを見つめていると、フラグ云々以前に、自分の胃袋の危機を感じる。親に借金のない平凡な家庭の食卓で、こんな兵器のような食べ物が出たことは一度もない。
「まあいい……これを食べれば、とりあえず午後の授業は乗り切れるはずだ」
俺は教室の扉を開け、自分の【主人公席】へと向かった。
しかし、そこには、俺のささやかな平穏を粉々に打ち砕く、この世の終わりのような光景が広がっていたのだ。
「遅いよ、朔ちゃん! 早く一緒に食べよ!」
俺の机の前には、幼なじみの桃瀬雫乃が、可愛らしいピンク色のお弁当箱を広げて待ち構えていた。
「あたし、今日お弁当のおかず作りすぎちゃって……。特製の甘い卵焼き、朔ちゃんに食べてほしくて……」
「ちょっと待ちなさい。朔は私と食べるのよ」
ドンッ! という地鳴りのような音と共に、絶対女王・若桜葵依が、黒服のSPたちに三段重の超高級ケータリング弁当を運ばせて立ちはだかった。
「朔、私に媚びないあなたのために、三ツ星シェフを呼んで特別メニューを作らせたわ。さあ、私の隣に座りなさい」
「……二人とも、うるさい」
そして、俺の隣の席。銀髪の転校生・三栗屋翡翠が、無表情のまま、空っぽの机の上を見つめていた。
「朔……。私、お弁当を忘れてしまったみたい。……お腹が、空いたわ」
「…………ッ!!!」
俺は弁当箱と豪華ケータリングと空の机に囲まれ、完全に退路を断たれた。
右を見れば幼なじみ、左を見れば絶対女王、そして隣を見れば腹を空かせた銀髪美少女。
三人のヒロインから放たれる凄まじいプレッシャーが、教室の空気を重く沈ませる。
俺の脳内に、呪霊と戦う漫画の解説ナレーションが響き渡った。
『(三つの必中必殺の【領域】が同時に展開され、教室の空間がバキバキと歪んでいる……! 誰の弁当を食べるか、あるいは誰にパンを分け与えるか……少しでも選択を誤れば、致死量のフラグが直撃する!)』
教室中の男子生徒からの「月島ぶっ殺す」という無言の殺意が、物理的なオーラとなって俺の背中をチクチクと刺している。
ここで誰かの弁当を食べたり、誰かに自分のパンを分けたりすれば、その瞬間に特大イベントが進行し、俺のモブとしての人生は完全にバッドエンドを迎える。
俺は自分の手に握られた、唯一の食料を見つめた。
『地獄の業火! 激辛デス・ハバネロカレーパン』
「(……やるしかない。この三つの領域展開を中和するには、俺自身が狂人になるしかない!)」
俺は意を決して、ハバネロパンの袋を豪快に引き裂いた。
ドス黒いマグマのようなカレーが詰まったパン。鼻を突く、催涙ガスのような強烈なスパイスの匂い。
「朔ちゃん……? なにそれ……?」
雫乃が怪訝そうな顔をする。
「お前たち、俺に構うな。……俺は今、極限の『カプサイシン・ダイエット』の最中なんだ!!」
俺は三人のヒロインが呆然と見つめる前で、ハバネロカレーパンを大きな口を開けて一気に頬張った。
「っっっっっっっっっっっ!?!?!?!?」
瞬間。
俺の口内に、小型爆弾が投下されたかのような絶望的な痛みが走った。
味などない。あるのは純粋な『暴力』と『熱』だけだ。
俺の脳内で、汎用人型決戦兵器のオペレーターたちが悲鳴を上げているのが聞こえた。
『(ダメです! ハバネロとのシンクロ率が400%を超えています! 月島くんの胃粘膜が融解していく!)』
『(制御不能! 月島くん、完全に暴走モードに突入しました!)』
「ガァァァァァァァァァァッ!!??」
俺は喉の奥から、海から現れる有名な巨大怪獣が放射熱線を吐く時のような、おぞましい咆哮を上げた。幻覚の青白い熱線が俺の口から天井に向かって放たれているのが見えた気がした。
「水ッ!! 誰か、水ゥゥゥゥッ!! ATフィールド(胃粘膜)が破られるゥゥッ!」
俺は椅子を蹴り倒し、三人のヒロインのフラグ領域を強行突破して、廊下の水道へと弾丸のようなスピードでダッシュした。
完璧な逃走劇だった。これで俺は誰の弁当も食べず、誰にもパンを分けないという「第三の選択」をもぎ取ったのだ。モブとしての平穏(※胃腸は壊滅)は守られた!
俺が去った後の教室では、三人のヒロインが取り残されていた。
「……朔ちゃん」
雫乃が、ポツリとつぶやいた。
「あたしたちが、朔ちゃんを巡って争いそうになったから……。わざとあんな激辛パンを食べて、あたしたちの喧嘩を止めようとしてくれたんだね……っ!」
「ふっ……」
葵依が、深紅の瞳を細めて妖しく笑う。
「この若桜の豪華な食事にも、幼なじみの情にも流されず、自ら地獄の業火を飲み込むことを選んだ……。どこまでも気高い男……! ますます気に入ったわ!」
「……不器用な人」
翡翠が、誰もいない俺の【主人公席】を見つめて、頬を赤く染める。
「お弁当がない私の前で、美味しそうなものを食べたら私が惨めな思いをするから……。わざと罰ゲームみたいなパンを食べて、私の気を逸らしてくれたのね……。私の、優しい騎士様……」
ズゴゴゴゴゴゴゴッ!!!
俺が水道の蛇口に直接口をつけてガブ飲みしている間。
教室に残された三本の巨大なフラグは、消滅するどころか互いに共鳴し合い、複雑に絡み合いながら、一つの巨大な【主人公争奪・三つ巴の聖戦開幕フラグ】へと突然変異を遂げていたのだった。
俺の平穏は、胃粘膜と共に完全に消し炭となったのである。




