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45.完全なる理想郷

午前中の授業がすべて終了し、待ちに待った昼休みのチャイムが学園に鳴り響いた。


「(……なんてこった、完全無欠の『生徒A』として過ごせてしまったぞ……!)」


俺、月島つきしま さくは、歓喜に打ち震えながら机に突っ伏した。

世界が、俺をただの背景として扱ってくれている。


「……朔。お昼、購買に行くの?」


隣の席から、三栗屋みくりや 翡翠ひすいが静かに声をかけてきた。

彼女の手には、購買の菓子パンではなく、きちんとした手作りのお弁当箱が握られている。


「(ビクッ……! 来た、弁当イベント! 『主君、私が毒見を終えた愛妻弁当。さあ、あーんを』と強制給餌されるフラグだ!)」


俺は身構え、瞬時に断りの文句を脳内で構築した。


「あ、ああ。俺は購買で焼きそばパンでも買ってくるよ。翡翠は弁当か」


「……うん。朝、自分で作ってきたから。……じゃあ、気をつけてね」


「(……えっ?)」


翡翠はそれ以上何も言わず、お弁当箱を開けて上品に卵焼きを食べ始めた。

俺に「一口食べて」と勧めてくることもなければ、俺の焼きそばパンを「そんな栄養価の低いものを主君の口に入れるわけにはいかない」と叩き落とすこともしない。


「(ほ、本当にただお弁当食べてるだけだ……! 俺の食生活に一切干渉してこない……!)」


俺は激しい戸惑いと、それ以上の圧倒的な安堵感を胸に抱きながら、教室を逃げ出した。


***


購買部へと向かう廊下。

生徒たちがごった返すこの空間は、ある意味で戦場だ。肩がぶつかればフラグが立ち、落とし物を拾えばフラグが立ち、目が合えばフラグが立つ。

俺は壁沿いに身を潜め、気配を殺す「隠密スキル」をフル稼働させて進んでいた。


「(油断するな。まだだ。まだあの『腹黒後輩』が残っている……!)」


小日向こひなた 巳波みなみ

常に計算高い笑顔を浮かべ、俺を様々なトラップに嵌めては既成事実を作ろうとする、学園で最も油断ならない後輩だ。

俺の実家のクローゼットに潜んで俺の寝顔を観察する彼女が、大人しくしているはずがない。絶対にこの廊下のどこかで、プリントの束を抱えて「わざとらしく」転び、俺に覆い被さるタイミングを計っているはずだ。


「(来い、小日向! お前の三手先まで読んで、完璧な回避スルーを決めてやる!)」


俺が廊下の曲がり角に差し掛かった、その時だった。


「あ、すみません。通ります」


「ヒィッ!?」


前方から両手に大量のファイルや資料を抱えた巳波が歩いてきた。


「(出たなトラップメイカー!! さあ、そのファイルを派手にぶちまけて俺の胸に飛び込んでこい! 俺はすでに右にステップを踏む準備ができているぞ!)」


俺は膝を曲げ、重心を低くして回避の体勢をとった。

だが。


「あ、先輩。おはようございます」


巳波は、俺の顔を見ると小さく会釈をし、抱えたファイルを一つも落とすことなく、ごくごく『普通』の足取りで俺の横を通り過ぎていった。


「…………へ?」


俺は間抜けな声を漏らし、振り返った。

巳波の背中は、すでに廊下の彼方へと遠ざかっている。

彼女特有の「先輩ぃ♡」という甘ったるい猫撫で声もない。上目遣いで俺を値踏みするような視線もない。

ただの「顔見知りの先輩に対する、礼儀正しくも事務的な挨拶」。それだけだった。


「(落とさないのかよ!! あんなにフラグの匂いがプンプンする『大量の資料』を抱えておいて、一枚も落とさないなんて……バランス感覚どうなってんだ!?)」


俺は一人、廊下のど真ん中で変な中腰のポーズのまま固まっていた。

周囲の生徒たちが「なんだあいつ……」という目で見ながら避けていく。


「(……いや、違う。これが普通なんだ。むしろ俺が、少女漫画の読みすぎで頭がおかしくなった痛い奴みたいになってるじゃないか!)」


俺は慌てて姿勢を正し、逃げるように購買部へと駆け込んだ。


***


無事に「特売の焼きそばパン」と「紙パックのいちごミルク」をゲットした俺は、校舎裏の静かな中庭へとやってきた。

ここは人が少なく、モブが一人で昼食をとるには最適な場所だ。


「(ふぅ……。ヒヤヒヤしたが、なんとか無傷で乗り切ったぞ。……やはり、ヒロインたちは何かの理由で『俺への干渉を禁止するゲーム』でもやっているに違いない)」


俺はベンチに腰を下ろし、焼きそばパンの袋を開けようとした。

その時。


『ゴゴゴゴゴ……!』


中庭の入り口から、地鳴りのようなプレッシャーと共に、黒服のSPたちが一斉に雪崩れ込んできた。

彼らは手際よく中庭のど真ん中に最高級のアンティークテーブルと椅子を設置し、真っ白なテーブルクロスを広げ、三段重ねのアフタヌーンティーセットを並べ始めた。


「(……来たか、絶対女王……ッ!)」


若桜わかさ 葵依あおい

この学園を私物化し、隣の磯野さんの家を買い取って巨大スパ施設を建造した、理不尽の権化。

黄金の輝きを放つブロンドの髪を揺らしながら、葵依が優雅な足取りで中庭へと現れた。


「ごきげんよう。……今日の紅茶は、ダージリンのファーストフラッシュでお願いね」


「ハッ! 直ちにご用意いたします、お嬢様!」


葵依が席に着くと、SPの一人がバイオリンの生演奏を始め、もう一人が優雅に紅茶を注ぐ。

学園の中庭が、一瞬にして英国貴族の庭園へと変貌した。


俺は息を殺し、ベンチの背もたれに深く身を沈めた。


「(……見つかるなよ。ここで目でも合ったら最後、『あら、そんな貧乏くさいパンを食べているの? 私の隣に座りなさい』と強制連行され、フォアグラのソテーを口にねじ込まれるに決まってる!)」


俺は焼きそばパンを顔の前に掲げ、視線を完全に遮断する「パン・シールド」の構えをとった。

葵依の深紅の瞳が、中庭をぐるりと見渡す。

そして、俺が座っているベンチの方へと視線が向いた。


「(……来るっ……!)」


俺はギュッと目を瞑り、死を覚悟した。

だが、数秒待っても、SPが俺の腕を掴みにかかってくる気配はない。

恐る恐るパンの隙間から覗き見ると、葵依は俺の方を向いたまま、優雅にティーカップを傾けていた。


「……今日の風は、少し生ぬるいわね」


葵依はそう呟き、俺の存在など『視界に一ミリも入っていない』かのように、ただ遠くの空を眺めている。

俺という人間が、彼女にとって「中庭のベンチ」や「雑草」と同じ、完全に無価値な背景として処理されているのだ。


「(す、スルーされた……! あの若桜葵依が、俺を完全に視界外に置いている……!)」


かつて、俺の家を勝手に要塞化し、俺を専属の所有物にしようとギラギラと目を輝かせていたあの女王が、今の俺には一切の興味を示さない。


「(……勝った。俺はついに、この学園における完全なる『モブ』の地位を確立したんだ……!)」


俺は震える手で、焼きそばパンを口に運んだ。

パサパサのコッペパンと、少し濃いめのソースの味。

誰も俺の食事を邪魔しない。誰も俺を奪い合わない。

ただ一人、青空の下で焼きそばパンを齧る、絶対的な平和。


「(……美味い。……最高だ。これ以上の幸せが、どこにあるっていうんだ)」


俺は感動の涙を流しながら、焼きそばパンを噛み締めた。

だが。

俺の頬を伝う一筋の涙とは裏腹に、パンを持つ俺の右手は、ガタガタと小刻みに震え続けていた。


「(……おかしい。平和すぎる。……普通すぎる。……なんで、誰も構ってこないんだ?)」


恐怖でもない。安堵でもない。

それは、今まで散々振り回されてきた「強烈な非日常」を突如として奪われたことによる、強烈な違和感だった。


雫乃の重すぎる愛情も、翡翠の過剰な忠誠も、巳波の計算高い罠も、葵依の理不尽な財力も、志乃さんの危険な色香も。

あれほど嫌がっていたはずのそれらが、一切存在しない世界。

俺の願いが100パーセント叶ったはずの、この完璧な理想郷で。


「(……きっとみんな疲れてるんだ。……そうに決まってる。……明日はきっと、またあいつらが、馬鹿みたいに俺を巻き込みに来るさ……)」


月島朔は、自分に言い聞かせるようにいちごミルクを啜った。




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