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46.ぬるま湯の日常

あの連休明けの登校日から、気がつけば一ヶ月近い時間が経過していた。


結論から言おう。俺、月島つきしま さくの毎日は、控えめに言って「最高」の二文字に尽きていた。


ジリリリリッ、と鳴り響く目覚まし時計の音で目を覚ます。

以前なら、目覚まし時計の中に小型爆弾が仕掛けられていないか、あるいはベッドの下から誰かが這い出してこないかを警戒して、毎朝が特殊部隊の突入ミッションのような緊張感に包まれていた。

だが今は違う。俺は大きな欠伸をして、無防備に目覚まし時計を止め、ふかふかの布団の感触を堪能してから、のそのそと起き上がる。


窓を開けると、爽やかな風が吹き込んでくる。

庭の木には小鳥がチュンチュンと鳴いており、隣の家に巨大な要塞やスパ施設が勝手に建設されているようなこともない。

ごく普通の、どこにでもある一般家庭の朝だ。




「(あぁ……今日も平和だ。誰も俺の命を狙っていないし、重すぎる愛で窒息させられることもない。俺はついに、この過酷なラブコメ世界で完全なる『モブ』の地位を勝ち取ったんだ……!)」




俺は鼻歌交じりに洗面所に向かい、寝癖のついた頭を適当に水で濡らして直した。

一階のダイニングに降りると、母親が焼いたトーストと目玉焼きのいい匂いが漂っている。毒見をする必要もないし、得体の知れない高級食材が並んでいるわけでもない。

これだ。俺がずっと求めていたのは、この何の変哲もない、ただの平凡な朝食なのだ。


家を出て、いつもの通学路を歩く。

五月の陽気は暖かく、すれ違うのは見知らぬ近所の人や、ランドセルを背負った小学生たちだけだ。

交差点に猛スピードで突っ込んでくる黒塗りのリムジンもないし、電柱の陰から熱視線を送ってくるストーカーの気配もない。


しばらく歩いていると、前方にピーチブラウンの髪を揺らしながら歩く少女の姿が見えた。

幼なじみの桃瀬ももせ 雫乃しずくのだ。




「おーい、雫乃。おはよう」




俺が少し間抜けな声で呼びかけると、彼女は振り返り、ふわりと柔らかい笑顔を浮かべた。




「あ、朔ちゃん。おはよう。今日もいい天気だね」




「おう。今日も平和で何よりだよ」




俺たちは自然に並んで歩き始めた。

以前の雫乃なら、ここで俺の右腕に自分の両腕をがっちりと絡ませ、胸を押し付けながら「朔ちゃんは一生あたしのものだよね?」と殺気を放っていたはずだ。

だが今の彼女は、俺と肩がぶつからない程度の『絶妙で爽やかな距離感』を保ち、昨日のテレビ番組の話など、どうでもいい世間話をしている。

俺のパーソナルスペースは完全に守られており、そこにはヤンデレ特有の重苦しい情念など微塵も存在しなかった。




「じゃあ、あたしは日直だから先に行くね。また後で」




校門をくぐったところで、雫乃は爽やかに手を振り、俺に背を向けて歩き出した。




「おう、またな」




俺は心の中で満面の笑みを浮かべ、すっかり緩みきった顔で下駄箱へと向かった。



俺に背を向けた直後、雫乃がピタリと足を止めた。

振り返った彼女の顔からは、先ほどまでの「爽やかな幼なじみ」の表情が完全に抜け落ちていた。

彼女は、平和ボケした足取りで歩いていく俺の後ろ姿を、黒く濁った瞳でじっと見つめている。

そして、その口角が、人間のものとは思えないほど不気味に、ゆっくりと吊り上がっていった。


『このまま、ずっとここにいようね……朔ちゃん』




***


教室に着き、自分の席――教室の最後列、窓側という【主人公席】に腰を下ろす。

隣の席には、すでに三栗屋みくりや 翡翠ひすいが座って文庫本を読んでいた。




「おはよう、三栗屋」




「……あ、うん。おはよう、朔」




翡翠は小さく会釈をして、すぐにまた本に視線を戻した。

「主君!」と跪くこともなく、俺の机の周辺を改造コンパスでクリアリングすることもない。彼女はただの「少し大人しい、隣の席の美少女」として、そこにある風景に溶け込んでいる。


昼休みになれば、俺は購買で買ってきた特売のメロンパンを机に広げ、呑気に一人で昼食をとる。

絶対女王である若桜わかさ 葵依あおいに拉致されてフルコースを食わされることもない。




「(……完璧だ。モブとしての日常が、完全に俺の肌に馴染んでいる。もう、二度とあの過酷な非日常には戻りたくない。このままずっと、卒業まで平和に生きていくんだ)」




俺は午後の授業が終わると、大きく伸びをして、今日という完璧な一日に満足しながら教室を出た。


俺が教室を出ていった後。

一人残った翡翠は、手元の文庫本をパタンと閉じた。

彼女もまた、窓際から俺の歩いていく廊下の方を見つめ、普段の大人しい表情を歪め、獲物を完全に絡め取った蜘蛛のような冷酷な笑みを浮かべていた。



***


放課後。

俺は図書室で借りていた本を返すため、旧校舎の薄暗い廊下を歩いていた。

ここは普段あまり人が来ない場所だが、今の俺には「イベントが発生するかもしれない」という警戒心すら湧いてこない。


その時だった。


長く続く廊下の真ん中、夕日が差し込む窓の近くに、ぽつんと小さな人影が立っているのが見えた。

透き通るような、真っ白なワンピースを着た少女だった。

年齢は小学生の低学年くらいだろうか。色素の薄い髪を風に揺らし、大きな瞳でじっとこちらを見つめている。




「(ん? 近所の子供が迷い込んだのかな)」




すっかり平和ボケして思考がお花畑になっている俺は、なんの疑いも持たずに少女に歩み寄った。




「どうした? 迷子か? 」




俺がしゃがみ込んで話しかけると、少女はひどく悲しそうな、そして何かを強く訴えかけるような瞳で俺の顔を見つめ返した。

少女は、小さな唇をわずかに開き、静かな廊下に響くような澄んだ声で、たった一言だけ呟いた。




「……にげて」




「え?」




「……ここにいちゃだめ」




「逃げてって、何が? お兄ちゃん、何か悪いことしたか?」




俺が首を傾げた瞬間、少女はくるりと背を向け、廊下の角に向かってパタパタと走り出した。




「あ、おい! 走ると危ないぞ」




俺は慌てて立ち上がり、少女の後を追って角を曲がった。

しかし、廊下の先には誰の姿もなかった。教室のドアはすべて閉まっており、隠れるような場所もない。

ほんの数秒前までそこにいたはずの白いワンピースの少女は、まるで最初から幻だったかのように、煙のように消え失せてしまっていた。




「……なんだ? 見間違いか……? いやいや、俺も疲れてるのかな。まぁいっか! モブたるもの、奇妙な出来事には深く関わらないのが一番だ!」




俺はあっけらかんと笑い飛ばし、図書室で本を返却して家路についた。

今の俺は、この心地よい日常を揺るがすような面倒事には、一切首を突っ込む気がなかったのだ。


***


「ただいまー」


実家に帰り、俺がリビングに入ると、テレビを見ていた妹のゆいが振り返った。




「あ、お帰りお兄ちゃん。……なんか、最近すっごいヘラヘラしてるね」




「失礼なやつだな。ヘラヘラじゃなくて、充実してるって言ってくれよ。俺の人生にも、ようやく遅すぎる平穏が訪れたってことさ」




俺が冷蔵庫から麦茶を取り出しながら笑うと、結はテレビから視線を外し、ソファから身を乗り出して、じっと俺の顔を見つめた。

その瞳は、いつもの生意気な妹のものではなく、どこか探るような、冷ややかな色を帯びていた。




「……ねえ、お兄ちゃん」




「ん? なんだよ」




「お兄ちゃんは……本当に、ずっとこのままでいいの?」




その言葉に、俺はコップを持った手をピタリと止めた。




「……は? 何言ってんだよ急に。このままでいいって、何が?」




俺が聞き返すと、結はすぐにいつものふざけた調子に戻り、ケラケラと笑いながら俺の背中をバシッと叩いた。




「だってさー、お兄ちゃんずっとボッチじゃん? 最近なんか『死んでる』みたいに平和そうだからさ。本当にそれがお兄ちゃんの望んでた青春なのかなーって」




「うるさいな。モブに青春なんて不要なんだよ。波風の立たない日常こそが至高なんだからな」




俺は軽く言い返し、麦茶を一気に飲み干して自室へと向かった。

階段を上りながら、俺は結の言葉を鼻で笑った。


このままでいいのか、だと?

当たり前だ。これ以上の幸せがどこにあるっていうんだ。

誰も俺の命を狙わない。この生温かい、平和という名の最高に都合のいい世界。


俺は自室のベッドに倒れ込み、ふかふかの枕に顔を埋めた。

心の奥底で、あの白いワンピースの少女の「逃げて」という声が微かに反響したような気がしたが、俺はそれを無理やり意識の底に沈め、目を閉じた。




「(あぁ……明日もきっと、今日みたいに何もない、最高に平和な一日になるはずだ……)」



深く、静かな眠りへと落ちていった。


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