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44.平和すぎる通学路

気味が悪いくらいに平和な通学路。

俺は、まるで敵地のど真ん中を進む特殊部隊員のように、電柱の陰から陰へと素早く移動しながら登校していた。


「(……おかしい。絶対に何かおかしい)」


交差点に差し掛かるたびに、俺は立ち止まって左右を徹底的に確認した。

本来なら、ここで猛スピードの黒塗りのリムジンが突っ込んできて、中から別クラスの絶対女王・若桜わかさ 葵依あおいが「迎えに来たわよ、乗りなさい」と有無を言わさず拉致しにくるはずなのだ。


あるいは、曲がり角で小日向こひなた 巳波みなみがわざとらしく衝突してきて、「あいたた……あ、先輩ぃ♡」と、あざとくスカートの裾を押さえながら見上げてくる展開があってもおかしくない。


だが、現実は違った。

通っていくのは、安全運転の軽トラックと、自転車に乗った近所のおじさんだけ。


「(……まさか、俺の登校ルートが完全に読まれていて、学校の校門前で一斉蜂起を仕掛けるつもりか……!?)」


額から冷や汗がツーッと流れ落ちる。

俺が次の電柱へと身を隠そうとした、その時だった。


「あ、おはよう。朔ちゃん。朝から電柱の裏で何やってるの?」


「ヒィッ!?」


背後から不意に声をかけられ、俺はビクンッ!と跳ね上がった。

振り返ると、そこには通学カバンを持った幼なじみの桃瀬ももせ 雫乃しずくのが立っていた。いつも通り、ピーチブラウンの髪をサイドテールにまとめ、指定のブレザーを普通に着こなしている。


「(出たなヤンデレ幼なじみ!! さあ来い、俺の右手を拘束して『朔ちゃんは一生あたしのものだよ』って耳元で囁くんだろ!? 迎撃態勢はできてるぞ!)」


俺は瞬時に両手を胸の前でクロスし、関節技を極められないための完全なる防御の構えをとった。

だが、雫乃は俺に飛びかかってくる気配を全く見せない。それどころか、両手を後ろで組み、俺からきっちり『一歩分』の距離を保ちながら、不思議そうな顔で小首を傾げた。


「……ふふっ、朔ちゃん変なの。カマキリみたいなポーズして。ほら、早く行かないと遅刻するよ?」


「……へ?」


「行くよー」


雫乃は俺の横に並び、あっさりと前を向いて歩き出した。

腕に絡みついてこない。暴力的なまでに胸を押し付けてこない。

ただ「一緒に登校するご近所の幼なじみ」としての、極めて真っ当で、爽やかな距離感だ。


「(ま、待て待て待て! おかしい! なんで腕を組んでこないんだ!? 俺を誰にも渡さないと殺気を放っていたあの情念はどこに行った!?)」


俺は慌てて小走りで追いかけ、雫乃の横顔を覗き込んだ。


「お、おい雫乃! 手は!?」


「手? なに、転んで擦りむいたりしたの?」


「いや、違う! その……いつもみたいに、俺の腕にしがみついたり、強引に恋人繋ぎしたりしないのか……?」


俺が恐る恐る尋ねると、雫乃はパチクリと目を丸くしたあと、呆れたようにクスッと笑った。


「なに言ってんの朔ちゃん。山で遭難して、すっごく疲れてるでしょ? 今日くらいは、おとなしく普通に歩いてあげるよ。……それに、高校生にもなって手繋いで登校とか、普通に恥ずかしいし」


「は、恥ずかしい……!?」


俺は胸に物理的なダメージを受けた。

いや、俺がずっと求めていたのはこれだ。疲労を気遣ってくれる、この「幼なじみとしての正しい距離感」だ。


だが、あの狂気に満ちたスキンシップと重すぎる愛情を散々経験した後で、こんな真っ当な正論をぶつけられると、俺の情緒が逆におかしくなりそうだった。


「(罠だ! これは絶対に罠だ! 『疲れている朔ちゃんを気遣う健気な幼なじみ』を演じて俺を油断させておいて、信号待ちのど真ん中で突然抱きついてきて、周囲の注目を集める公開処刑を狙うつもりなんだ! そうは問屋が卸さないぞ!)」


俺は雫乃から常に一定の距離を保ち、前後左右の警戒を怠らずに歩き続けた。

俺の存在が完全に「日常の風景」と同化し、視界の端にチラついていたはずのあの忌々しい【フラグ】も、今日はまったく表示されない。


「(……おかしい。俺の頭がどうにかなっちまったのか!?)」




*****




疑心暗鬼の沼に肩まで浸かったまま、俺は無傷で学園に到着してしまった。

校門をくぐる時も、黒服のSPに囲まれることはなかった。


自分の教室に入り、俺は忌々しい自分の席――最後列、一番窓側という、学園ラブコメにおける【主人公席】へと向かった。

この席に座っているだけで、謎のオーラが出てしまい、フラグの発生率が跳ね上がる呪われた特等席だ。


俺は鞄を置く前に、机の中を覗き込み、手探りで奥まで確認した。爆発物や、血文字で書かれたラブレターが入っていないかを入念にチェックする。


「(……何もない。ただの教科書とノートだ。俺の机が、ただの学習机として機能している……!)」


俺が安堵の息を吐き出して席に座り、窓の外を警戒しようとした、その時だった。


「……朔。おはよう」


隣の席から、静かで、透き通るような声が響いた。

光の加減で色を変える美しい銀髪のショートボブ。エメラルドグリーンの瞳。学園の指定制服を少し着崩し、カーディガンの袖が手の甲まで隠れる「萌え袖」になっている。

連休前に転校してきた「銀髪の騎士」、三栗屋みくりや 翡翠ひすいだった。


「(来た……ッ!!)」


俺は全身の筋肉を硬直させた。

本来の彼女なら、俺の顔を見た瞬間に「主君、ご無事で何より。教室内のクリアリングはすでに完了している」と跪くか、俺の飲む水道水に毒が入っていないか銀のナイフで毒見を始めるはずなのだ。


「……おはよう、翡翠。その、朝から異常はないか?」


俺が探りを入れるように尋ねると、翡翠は少しだけ不思議そうに小首を傾げた。


「……異常? ううん。……特には、なにも」


「(……えっ?)」


「……ただ。連休明けだからかな。……少し、眠いなって」


翡翠は小さくあくびを噛み殺し、眠そうに目をこすった。そこに「過剰な騎士道精神」の欠片も感じられない。


「……朔。……山の遭難の怪我、もう痛くない?」


「あ、ああ。全然平気だ」


「……そっか。……よかった。でも、無理はしないで」


翡翠は俺に向かって小さく微笑むと、そのまま机の上に広げた文庫本に視線を落とした。

俺の周囲をギョロギョロと警戒するでもなく、俺の消しゴムを宝物のように回収するでもなく。

ただの『少し口数の少ない、隣の席の女子生徒』として、静かに読書を始めたのだ。


「(『主君』呼びはしないのか!? しかも普通に本読んでる!? 周囲の警戒任務はどうしたんだお前!!)」


俺は激しく動揺し、翡翠の横顔をガン見した。

しかし彼女は、俺の視線に気づくこともなく、ページをめくる音だけを静かに響かせている。その態度は、俺が「こうあってほしい」と願っていた、ただのクラスメイトとしての理想的な距離感そのものだった。


「(……嘘だろ。あの重度の騎士道妄想娘が、完全にただの優等生になってる……!?)」


クラスメイトたちが次々と登校してきて、賑やかな話し声が教室に響き始める。

俺は心臓をバクバクさせながら、教室の引き戸を睨みつけた。


「(よし、なら次はホームルームだ……! ここが一番危険だ!)」


連休明けのこのタイミング。ラブコメの法則からいって、ここで強烈なイベントが起きないはずがない。


「(連休中に俺を匿ってくれたあの御影志乃さん。あの人は最初は優しかったが……一緒にいるうちに狂い始め最後に見せたあの重い独占欲は本物だった。大人の立場を利用して、俺を追い詰めるために赴任してくるに決まってるんだ!)」


キーンコーンカーンコーン。

始業のチャイムが鳴り響く。

クラスの生徒たちが慌てて自分の席に着いた。

俺は机の端を強く握りしめ、いつでも逃げ出せるように腰を浮かせた。


「(来る……! 志乃さんが黒いタイトスカートで現れて、教師という圧倒的な権力を使って俺を追い詰めてくるんだ……! 来い、俺はもう驚かないぞ!)」


ガラッ。

教室のドアが開き、教壇に立ったのは――。


「えー、おはようございます。今日から皆さんの新しい担任になることになりました」


黒いタイトスカートのスーツをビシッと着こなし、黒縁メガネをかけた大人の女性だった。

黒板にチョークでスラスラと自分の名前を書く。


御影みかげ 志乃しの


「(志乃さぁぁぁぁぁぁん!! やっぱり来たか!! ご都合主義なんて言わせない!さあ、俺を放課後の準備室に呼び出すトラップを発動させろ!)」


俺は椅子から転げ落ちそうになるのを必死に堪え、両手で机にしがみついた。


「私の名前は、御影志乃と言います。前の担任の先生が休職されたため、急遽引き継ぐことになりました。担当教科は現代文です。……皆さん、一年間よろしくお願いしますね」


志乃先生は、クラス全体に向けて、完璧な「教師の微笑み」を向けた。

俺と目線が合う。

しかし、その瞳には「朔君♡」という甘くドロドロとした色は一切なかった。ただの「生徒を見る普通の教師の目」だ。そのままスッと視線は流れ、次の生徒へと移っていく。


「さて、連休明けで気が抜けているかもしれませんが、来月にはすぐに中間テストがあります。提出物の期限は厳守。遅れたら容赦なく内申点から引きますからね」


凛とした、厳格な声。

クラスの男子たちが「新しい担任、すげえ美人だけど厳しそうだな……」とヒソヒソと囁き合っている。

俺をアパートで飼育しようとしていた、あの狂気に満ちた独占欲など微塵も感じさせない、完璧な『普通の教師』への擬態。

志乃先生は、出席簿を開き、淡々と点呼を取り始めた。


「相沢さん」


「はい」


「……三栗屋さん」


「……はい」


隣の席で、翡翠がごく普通に返事をする。「主君の盾としてここに!」などとは叫ばない。


「……月島君」


「は、はいッッ!!!」


俺が裏返った大声で返事をすると、志乃先生はチョークを持った手を止め、静かにこちらを見た。


「月島君、声が大きすぎます。朝から元気なのは結構ですが、もう少し落ち着いて返事をするように。……次、桃瀬さん」


「はい」


「(……注意された。俺、普通の生徒として、普通に注意された……!)」


志乃先生はそのまま淡々と点呼を終え、「では一時間目の準備を」と言い残して、何事もなかったかのように教室を出て行った。

俺を特別扱いする素振りなど、一ミリも見せなかった。


「(……どういうことだ?)」


俺は机に突っ伏し、頭を抱えた。

疲労を気遣う雫乃の気味が悪いくらいの「普通の幼なじみ」ムーブ。翡翠の「ただの隣の席の女の子」化。そして、志乃さんの「完璧で普通の担任」への見事な擬態。

どこを見渡しても、狂気的なラブコメの気配が一切ない。


「(俺だけが……俺一人だけが、見えないフラグの影に怯えているというのか……!?)」


俺の頭の中はパニック状態だった。

こんなに都合よく、すべての厄介事が消え去るわけがない。


「(騙されないぞ……俺は絶対に騙されない! この『普通』こそが最大の罠だ! いつか必ずボロを出すはずだ!)」


これはヒロインたちが結託して仕掛けた、俺の精神を極限まで追い詰めるための壮大な焦らしプレイに違いないのだ。


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