43.平穏という名の異常事態
ピピピピ……ピピピピ……。
枕元に置かれた、ホームセンターで九百八十円で買った安物のデジタル時計が、無機質で規則的なアラーム音。
設定時刻は午前七時ちょうど。
俺、月島 朔は、アラームが三回鳴ったところでパチリと目を覚ました。
「(……痛くない。体が、全く痛くないぞ……!)」
俺は自分の両手を目の前にかざし、ゆっくりとグーパーを繰り返した。
あの土砂降りの嵐の山を彷徨い歩いた時の、全身の筋肉が断裂するような極度の疲労感がない。
そして何より、俺の背中や腹部を物理的に圧迫してくる謎の質量や、首筋にまとわりつく熱い吐息が一切存在しない。
俺の体を支えているのは、近所の家具屋で買った、少しだけスプリングが軋む安いマットレスだ。
掛布団からは、昨日結が干してくれたであろう、洗剤のほのかなフローラルの香りがする。太陽の匂いだ。
「(……帰ってきたんだ。俺はついに、平穏な『日常』に生還したんだ……!)」
俺は歓喜に打ち震えながら、寝癖のついた「究極のモブヘア」を掻き毟り、ベッドから這い出した。
部屋を見渡す。
狭くて落ち着く、いつもの四畳半の自室。壁紙は普通の白いクロスで、窓からは初夏の爽やかな風がそよいでいる。遠くから、スズメの『チュン、チュン』という、気の抜けるような鳴き声が聞こえてきた。
「(完璧だ。これだよ、これ。この何の変哲もない朝を、俺はずっと待っていたんだ……!)」
俺は感動のあまりフローリングの床に頬擦りしそうになるのを堪えながら、一階のリビングへと向かった。
階段を降りる足取りは、羽が生えたように軽い。
「あ、お兄ちゃん。おはよう。早く顔洗ってきなよ、朝ご飯片付けるよー」
ダイニングキッチンから、妹の結の容赦ない、だがひどく平和な声が響き渡った。
エプロン姿の彼女は、フライパンで手際よくスクランブルエッグを炒めている。
「おはよう、結。……父さんと母さんは?」
「とっくに仕事行ったよ。お兄ちゃんも早く食べなよ」
結はフライパンから皿へ卵を移しながら、いつもと何一つ変わらないトーンで言った。
俺の家はどこにでもある、ごく普通の一般家庭だ。両親は揃って真面目な会社員で、至って健全で、平和で、退屈なほどに真っ当な家庭環境である。
俺は洗面所で顔を洗い、ダイニングチェアに深く腰掛けた。
目の前に置かれているのは、薄切りのトースト、少し焦げ目のついたスクランブルエッグ、そしてお湯で溶かすタイプの粉末コーンスープ。
「いただきます……ッ!」
俺は震える手でトーストを持ち上げ、一口齧った。
スーパーの特売パンに塗られた、ただの安いマーガリンの味。そして、インスタントのコーンスープの安っぽい塩気。
「(……美味い! 美味すぎる! 涙が出るほど平凡だ!)」
致死量の香辛料で五感を破壊してくることもなければ、得体の知れない隠し味が仕込まれていることもない。ただただ、普通に腹を満たすための、普通の朝食。
平凡こそ至高。これぞ俺が求めていた日常だ。
俺があまりの平穏さに感極まって、トーストを齧りながら静かに涙を流していると、向かいの席に座った結が、ジト目でこちらを見てきた。
「……何その顔。朝から気持ち悪いんだけど。ていうか、連休中どこ行ってたの? 昨日、泥だらけで帰ってきて玄関でぶっ倒れてたじゃん」
結はコップをテーブルに置き、まるで「今日の天気は?」とでも聞くような軽いノリで尋ねてきた。
「(鋭い! だが、ここで『遭難して死にかけてた』なんて言えるわけがない!)」
「あー……うん。ちょっと、大自然と向き合うサバイバルキャンプ的なやつに巻き込まれてな。熊よりも恐ろしい猛獣と死闘を繰り広げてきたんだ」
俺が遠い目をしながら誤魔化すと、結は「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らした。
「相変わらずよくわかんないこと言ってるね。まあ、怪我してないならいいけど」
「……えっ、それだけ?」
「それだけって何が? お兄ちゃんが生きて帰ってきたならそれでいいじゃん。ほら、早く着替えないと遅刻するよ」
「(……結、お前は本当にドライだな。だが、それでいい! いや、それが最高だ! この適度な無関心さこそが、モブの家族の正しい姿だ!)」
俺は心の中でガッツポーズをした。
もし俺が主人公であれば、ここで結が涙ながらに抱きついてきたり、両親が警察を呼んで大騒ぎになっていたりするはずだ。だが、この現実は俺を過剰に心配しない。俺の平穏な日常の地盤は、奇跡的に守られていた。
ふとリビングの隅へと視線を向ける。そこには、太平洋の豪華客船クルーズから帰ってきた両親が送ってきたらしい、謎の巨大な木彫りの像が置かれていた。
禍々しい顔をした原住民の神様のようなデザインで、どう見ても日本の一般家庭のリビングには合っていない。
「(相変わらず変な土産買ってくるな、うちの親は……)」
薄気味悪い像だが、ただの木彫りの置物だ。俺の平穏な日常を脅かすような代物ではない。俺は像から視線を外し、上機嫌でテレビのリモコンを手にした。
朝のニュース番組。かつて、俺に『恋愛運ぶっちぎりのMAX』という死刑宣告を突きつけてきた、あの星占いコーナーが始まろうとしていた。
「(来い……! 今の俺なら、どんな占い結果が出ようと動じない!)」
画面の中で、テンションの高い女子アナウンサーがフリップを掲げた。
『おはようございます! 今日の朝のお星さま占い、双子座のあなたは……なんと第6位!』
「(6位! 最高に中途半端な順位! これぞモブの定位置!)」
『今日の双子座は、何をやっても特に目立たない、極めて平穏な一日になりそう。運命的な出会いも、トラブルも一切なし! 気になるラッキーアイテムは「地味な色の消しゴム」! ラッキーアクションは「息をして、ただ無事に帰ってくること」です! それでは今日もいってらっしゃーい!』
「(……なんて素晴らしい占い結果なんだ。運命の女神も、ついに俺をモブとして認定してくれたらしい! これなら俺の平穏は確約されたも同然だ!)」
俺はテレビを消し、ウキウキとした足取りで自室へと戻った。
クローゼットを開け、見慣れた指定制服を取り出して腕を通す。この何の特徴もないブレザーとスラックスこそが、俺を学園の背景と同化させるための「モブの鎧」だ。
「(念のため……一応チェックしておくか)」
とはいえ、ここは一度修羅場を経験した身だ。油断はできない。
俺は制服のポケットをすべて裏返し、裏地に妙な膨らみがないか、超小型の発信機や盗聴器が縫い込まれていないかを指先で入念に探った。
さらにはネクタイの結び目の裏側に至るまで、プロの工作員顔負けのボディチェックを行う。いつどこで誰に狙われているかわからないのが、俺のこれまでの人生だったからだ。
「(……よし、クリアだ。変な機械は仕込まれていない……!)」
ネクタイを締め直し、鏡の前で極めて没個性的な自分の顔を確認する。
完璧だ。どこからどう見ても、クラスの隅でスマホゲームの周回をしているだけの男子生徒A。
誰も俺の部屋に忍び込んでいないし、俺の制服に細工もしていない。すべてが正常だ。
俺は通学用の鞄をひったくるように手に持ち、一階の玄関へと向かった。
玄関の三和土に降り、スニーカーに足を入れる。
靴紐をいつもより少しだけキツく結び直した。いつでも全力疾走で逃げられるようにするためだ。
「行ってきます!」
結に声をかけ、ドアノブに手をかけた瞬間。
俺の心臓は、反射的に早鐘のように打ち鳴らされ始めた。
「(……待てよ。家の中が平和だったからといって、外も平和だとは限らない。沈黙は、特大のフラグが発動する前兆に他ならないのだからな!)」
俺は額に滲んだ冷や汗を手の甲でぐいっと拭い、モブとしての生存本能のすべてを研ぎ澄ませた。
このドアを開けた瞬間、上空から網で拉致されるかもしれない。あるいは、玄関の目の前に落とし穴が掘られているかもしれない。スタンガンを持った黒服が待ち構えている可能性だって十分にある。
「(来い! どんなトラップだろうと、俺のモブ回避術ですべて躱してやる!!)」
気合いの咆哮を心の奥底で上げながら、俺は月島家の玄関のドアを、勢いよくガチャリと押し開けた。
バンッ!! と扉を開け放ち、俺は前転からの受け身の姿勢で、コンクリートの地面へと飛び出した。
そして、アスファルトの上を転がりながら、鋭い視線で周囲の安全を確保する。
「…………」
無風。
小鳥がチュンチュンと鳴いている。
初夏の生ぬるい風が、俺の前髪を揺らした。
近所のおばさんが、のんびりと庭のホースで花壇に水やりをしている。
俺の視界には、怪しい影も、罠も、待ち伏せの気配も、何もなかった。
「(……あれ?)」
俺はアスファルトの上に這いつくばったまま、呆然と周囲を見渡した。
おかしい。いくらなんでも、平和すぎる。
不気味なほどの静けさに、俺は逆に背筋が寒くなるのを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
嵐の前の静けさか。それとも、ついに俺は本当の「モブの日常」を勝ち取ったのか。
どちらにせよ、学校に行かなければ答えは出ない。
俺は制服の埃を払い、周囲をキョロキョロと警戒しながら、気味が悪いくらいに平和な通学路へと、恐る恐る足を踏み出したのだった。
新章開幕です




