42.四面『女』歌の修羅場
ズブッ、ズチャッ……。
雨水をたっぷりと吸い込んだ腐葉土が、俺のスニーカーを容赦なく飲み込もうとする。斜面を下るたびに足場が崩れ、油断すればそのまま下まで一直線に滑り落ちてしまいそうだった。
「(……足が、足がプルプルする! これがテレビで見た『生まれたての子鹿』ってやつか!? いや、子鹿の方がまだ優雅だろ! 俺はただの泥まみれのロバだ!)」
極度の疲労で筋肉が悲鳴を上げ、俺の脳内はすでにIQが急降下していた。
ただでさえ足場が最悪なのに、俺の背中には小日向 巳波という名の、恐ろしく柔らかくて重い『爆弾』が搭載されているのだ。
「んんぅ……っ、せんぱぁい……♡」
「(ひぐっ……!?)」
俺が斜面で少しバランスを崩すたびに、背中の巳波が(絶対にわざと)しがみつく力を強めてくる。
その瞬間、俺の背中に、むにゅんっ! ぷるんっ! と、信じられないほどの弾力をもって押し付けられるのだ。薄いシャツ越しに伝わるその感触は、暴力的なまでの柔らかさと熱を帯びており、俺の若く健康な男子高校生としての理性を、物理的な質量でタコ殴りにしてくる。
「(煩悩退散! 煩悩退散! 俺はただの丸太だ! いや、仏像だ! 今の俺は、背中にありがたい経典を背負って天竺を目指す僧侶なん…だッ……ッ!)」
必死に念仏を唱えながら気を紛らわせようとするが、巳波の顔が俺のうなじにぴったりとくっつき、「すぅーーっ、はぁぁ……っ♡」と、俺の匂いを吸引しては熱い吐息を吹きかけてくる。
さらに、俺の右腕は、幼なじみの桃瀬 雫乃によって完全にロックされていた。
「朔ちゃん、危ないよ。あたしがしっかり握っててあげるからね。……絶対、離さないから」
彼女は俺の右手を両手で包み込むようにしてギュッと握りしめ、そのまま自分の胸元に引き寄せている。
俺の手の甲には、巳波とはまた違う、雫乃のしなやかで温かい感触が絶えず擦り付けられていた。
「(前門の虎、後門の狼ならぬ、右手の幼なじみ、背中の後輩! どっちを向いても柔らかな地獄! 俺のHPとMPはもうゼロよ!)」
俺が半泣きになりながら、斜面をずるずると下り続けていた、その時だった。
『――いた! こっちの方よ!!』
木々の向こう側から、切羽詰まったような、ひどく聞き慣れた声が響いた。
「(……ッ! この声、葵依か!?)」
斜面の下から、泥だらけになった三人の人影が駆け上がってくるのが見えた。
「朔……っ!」
先頭を切って飛び出してきたのは、若桜 葵依だった。
常に完璧な身だしなみと女王のような威厳を保っている彼女が、今は高級なブランド物のコートを泥だらけにし、髪を振り乱し、顔を青ざめさせて息を荒げている。
「若桜さん……。それに、三栗屋さんと、志乃さんも」
俺の右腕に抱きついたまま、雫乃が低く冷たい声で呟いた。
「朔君っ! よかった……本当によかったわ……っ!」
志乃さんが、涙で顔をくしゃくしゃにしながら駆け寄ってくる。いつもは落ち着いた大人の余裕を見せている彼女だが、今は足をもつれさせながら、俺の無事を確認するように震える手を伸ばしてきた。
「主君……! ご無事で何より。私の不甲斐なさ、万死に値する……!」
大型のサバイバルナイフを片手に、三栗屋 翡翠が安堵の表情を浮かべてその場に膝をついた。
「……葵依、志乃さん、翡翠。悪い、心配かけたな。とりあえず生きてるよ」
俺が疲労困憊の顔で笑いかけると、葵依は俺の目の前までやってきて、その肩を震わせた。
彼女の手が、そっと俺の泥だらけの頬に触れる。
「……バカ。本当に、バカよ貴方は。あんな濁流に飛び込むなんて……。私が、どれだけ……っ」
葵依の美しい瞳から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。
あのプライドの塊のような葵依が、人目も憚らずに涙を見せている。俺を探すために、彼女がどれほどの絶望と恐怖を味わったのかが、その震える指先から痛いほど伝わってきた。
「(……なんか、ちょっと申し訳ないな。俺のために、ここまで……)」
俺が少しだけ感動し、しんみりとした空気が流れそうになった、まさにその瞬間だった。
「……で?」
葵依の頬を伝っていた涙が、スッ、と一瞬で蒸発した。
彼女の瞳から安堵の色が消え去り、代わりに、氷点下の絶対零度とも言える『殺気』が、俺の全身を突き刺した。
「……朔。無事なのは本当によかったわ。……でも、その陣形は、一体どういうことなのかしら?」
「(ヒィィィッ!? 感動の再会が一秒で終わった!?)」
葵依の冷ややかな視線が、俺の右腕に張り付いている雫乃と、背中に乗っている巳波を交互に射抜いた。
「若桜さん。朔ちゃんはあたしを選んだの。あたしがいなかったら、朔ちゃんは凍死してたかもしれないんだから。感謝してほしいくらいね」
雫乃が、俺の右手をさらに強く自分の胸元に引き寄せながら、葵依に向かって不敵に笑い放つ。
「あら、幼なじみというだけで随分と偉そうな口を叩くのね。そもそも貴女が勝手に飛び出したから、朔がこんな目に遭ったんじゃないの」
葵依がギリッと奥歯を鳴らす。
そして、その矛先は俺の背中――いまだに俺の首筋に顔を埋めている巳波へと向けられた。
「……そこの後輩。いつまで狸寝入りしているつもり? 朔の背中の感触を堪能するのはそこまでにしなさい。引きずり下ろすわよ」
葵依が鋭く言い放つと。
「んぅ……? あら……?」
俺の背中で、完璧なタイミングで巳波が「今、目が覚めました」という演技(オスカー賞レベル)を披露した。
彼女はわざとらしく目をこすり、俺の背中でむにゅんっ!と胸を弾ませてから、弱々しい声を上げた。
「あ、若桜先輩……。志乃さんも、翡翠先輩も……。ご心配、おかけしましたぁ……。あたし、朔先輩を見つけた後、安心しちゃって、気絶しちゃってて……」
「(この腹黒天使!! 嘘をつけ!! お前、さっきからずっと起きてて俺の首筋の匂いを嗅ぎまくってただろ!!)」
俺の心のツッコミを他所に、巳波は「まだ上手く歩けませんぅ……」と言わんばかりに、さらに俺の首に腕を回してギュッと抱きついてきた。
「……ッ!! このメス狐……ッ! 疲労を盾にして朔にひっつくんじゃないわよ! 翡翠、その寄生虫を朔から引き剥がしなさい!」
「御意。……主君、背後の魔獣を物理的に排除」
「待て待て待て翡翠! ナイフを構えるな! 穏便に! 穏便に下ろすから!」
俺がパニックになりながら翡翠を制止していると、今度は志乃さんが、俺の正面へと回り込んできた。
「朔君、冷え切ってるじゃない! ダメよ、そんな状態じゃ。ほら、私の体温で温めてあげるから……!」
志乃さんはそう言うと、俺の正面から、大人の女性特有のふくよかな体でガバッと抱きついてきたのだ。
「(な、なにィィィィッ!?)」
俺の背中には、極上の柔らかさを持つ巳波(後輩)。
俺の右手には、誰にも渡さないとしがみつく雫乃(幼なじみ)。
そして俺の正面には、豊満な包容力で俺を包み込む志乃さん(年上の女性)。
「(前後と右を完全に女体で塞がれた!! これがあの歴史の教科書で習った『四面楚歌』ってやつか!? いや、違う! これは『四面女歌』だ!! モブの許容量を完全にオーバーしてるぞ!!)」
「ちょっと志乃さん! どさくさに紛れて何をしているの!? 朔から離れなさい!」
葵依が扇子を振り乱して抗議するが、志乃さんは「私は大人の余裕で朔君をケアしているだけよ」と涼しい顔で俺を抱きしめ続けている。
「……泥棒猫たちが、次から次へと。朔ちゃんはあたしのものだって、何度も言ってるのに……」
右腕の雫乃が、ドス黒いオーラを放ちながら呟く。
「先輩ぃ……あたし、まだ頭がクラクラしますぅ……先輩の背中、あったかいですぅ……♡」
背中の巳波が、ここぞとばかりに俺の耳元で甘い吐息を吹きかけてくる。
「(……誰か。誰か、嘘だと言ってくれ。俺はただ、家に帰って温かい布団で寝たいだけなんだ……ッ!)」
雨上がりの澄んだ空気の山林に、四人のヒロインたちの嫉妬と独占欲がバチバチと火花を散らすのであった。
サバイバル編これにて終了です。




