41.雨上がりのプレリュード
外の音が、いつの間にかはっきりと変わっていた。
滝のように岩肌を激しく打ち据え、この世のすべてを水底に沈めようとするかのような暴力的な雨音は、いつしか、しとしとと地面を濡らす静かで規則的な水音へと落ち着き始めている。
洞窟の入り口から差し込む空の色が、重苦しく分厚い鉛色から、夜明けを思わせる薄明かりへと静かに白み始めている。嵐が、ようやく過ぎ去ろうとしていた。
俺、月島 朔は、凍りつくような冷気と極度の疲労で軋む体を休ませながら、パチパチと音を立てて爆ぜる焚き火の残り火をただぼんやりと見つめていた。
「(……ようやく、このサバイバルも終わりか)」
俺は肺の奥に溜まっていた重い空気を、安堵の息として細く吐き出した。
俺があぐらをかいた足の上、いわゆる膝枕の状態で、後輩の小日向 巳波が身を丸くして横たわっている。彼女はスヤスヤと規則正しい寝息を立て、まるで揺り籠の中の赤ん坊のように無防備な顔をしていた。
俺を探すために、あの嵐の山を彷徨い歩き、極限の恐怖と疲労の中で俺を見つけ出した彼女は、安心しきったように俺の腰のあたりに両腕を回し、顔を俺の下腹部に近い太ももにすり寄せるようにして眠りこけている。
泥だらけになった彼女の小さな頭を撫でながら、俺は少しの罪悪感と深い感謝を噛み締めていた。
だが、それと同時に、俺は健康的な男子高校生としての、極めて深刻で物理的な苦悩とも死に物狂いで戦わなければならなかった。
「(……しかし、何度見ても規格外すぎるだろ、こいつは)」
小日向 巳波という少女は、普段はその計算高い腹黒な言動や、誰もが振り返る愛らしい顔立ちばかりに目が行きがちだ。だが、その泥に汚れた制服の下には、同学年の女子たちが嫉妬で狂いそうになるほどの、ひどく凶悪で完成されたプロポーションを隠し持っている。
無駄な脂肪など一切ないしなやかな体躯。それなのになぜか、女性としてのアピールポイントにだけは、神が設定を間違えたとしか思えない圧倒的な質量が割り振られているのだ。
それが今、雨と泥に濡れて肌にぴったりと張り付いたシャツ越しに、俺の太ももへとダイレクトにその重みと柔らかさを預けてきている。彼女が深く呼吸をするたびに、その暴力的なまでのふくらみが、むにゅり、むにゅり、と形を変えて俺の足に押し付けられるのだ。
ただでさえ寒さで全身の感覚が異常なほど鋭敏になっているところに、極上の柔らかさと女性特有の甘い匂いがダイレクトに伝わってくる。
「(……落ち着け。俺はただの膝枕用無機物クッションだ。仏の顔だ。悟りを開け、月島朔……!)」
俺は必死に下腹部に集まりそうになる熱を散らし、自己暗示をかけ続けていた。意識を少しでもそちらに向ければ、俺の理性の堤防は一瞬で決壊してしまう。
そんな俺の壮絶な内的葛藤のすぐ真横から、ぽつりと、甘く切ない声が鼓膜を打った。
「……終わっちゃうんだね」
俺と肩が触れ合うほどの至近距離に座り込んでいる幼なじみ、桃瀬 雫乃だった。
彼女は濡れた服を脱ぎ捨て、合羽を素肌の上に直接羽織っただけのひどく無防備な格好をしている。合羽の隙間からは、火の光に照らされた白く滑らかな太ももや華奢な鎖骨が覗いている。
だが、今の彼女から発せられているのは、俺を誘惑するような計算高い色気などではない。ただひたすらに俺だけを求める、真っ直ぐで、純粋で、そして途方もなく重い、一途な愛情そのものだった。
「……ああ。空も明るくなってきたし、これなら足元も見える。そろそろ帰るぞ」
俺が努めて明るい声を作って促すと、雫乃はゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から覗くその瞳は、消えゆく火種よりも熱く、俺の顔だけを真っ直ぐに捉えて離さない。
「……やだなぁ。あたし、帰りたくないよ」
「やだって、お前。こんなカビ臭くて冷える洞窟にいつまでも居られるか。服も乾ききってないし、このままじゃ確実に風邪引くぞ」
俺が呆れたように言うと、雫乃は首を横に振った。
「そんなのどうでもいい。……だって、ここから出たら、またあの『うるさい日常』に戻っちゃうでしょ?」
雫乃は俺の腕に自分の細い腕を絡ませ、すり寄るように体を密着させてきた。濡れた素肌の冷たさと、その奥にある熱い体温が、合羽越しにじんわりと伝わってくる。
「朔ちゃんを狙う泥棒猫がいっぱいいて、隙あらばみんなが朔ちゃんを連れて行こうとする世界。……せっかく、この世界に朔ちゃんとあたしだけしかいない、誰にも邪魔されない完璧な空間だったのに」
「あのな、俺たちは遭難してたんだぞ。一歩間違えれば濁流に飲まれて死んでたかもしれないんだ。冗談でも帰りたくないなんて言うもんじゃない」
俺が正論をぶつけると、雫乃はふわりと柔らかく、そしてひどく妖艶に微笑み、俺の肩にこつんと頭を乗せた。
「あたし、朔ちゃんと一緒なら、このままここで一生、誰にも見つからずに終わってもよかった。……ううん、むしろ、そうなりたかった」
「(……重い! 重すぎる! !)」
彼女の言葉の端々に滲む、狂気的なまでの一途な愛情が、俺の心臓を物理的に鷲掴みにする。
俺の膝の上で巳波が寝ていようが、今の彼女の目には入っていない。「朔ちゃんがここにいて、自分と一緒にいる」という事実だけが、雫乃の世界のすべてだった。
「……朔ちゃん」
雫乃が、絡ませていた腕にさらに力を込め、ぐいっと俺の体を自分の方へ引き寄せた。
合羽の隙間から、彼女の柔らかい胸元が俺の二の腕に押し付けられる。上目遣いで俺を見つめるその瞳は、とろけるような熱情に潤んでいた。
「朔ちゃん……お願い、あたしに頂戴。ここで二人きりだった、証」
雫乃の顔が、ゆっくりと俺に近づいてくる。
彼女の甘い吐息が俺の唇を掠め、雨の匂いと混ざり合った彼女特有の香りが鼻腔をくすぐった。目を閉じ、完全にその気になっている幼なじみ。
俺の膝の上には後輩がいるというのに、彼女はそんな障害など一切気にせず、ただひたすらに俺の唇だけを奪いに来ているのだ。
「(マズい! こんな状況でキスなんてされたら、俺の平穏なモブ人生が完全に幼なじみルートに固定されてしまう! しかし、無理に振り払えば彼女の純情を決定的に傷つけることに……!)」
俺がどうするべきか分からず完全に硬直した、まさにその瞬間だった。
「んぅ……せん、ぱぁい……っ」
俺の膝の上で熟睡していたはずの巳波が、唐突に寝返りを打つように大きく身をよじった。
そして、あろうことか、俺の腰に回していた腕にギュッと力を込め、その顔を俺の下腹部――本当にギリギリの極めて危険な場所に、ぐりぐりと押し付けてきたのだ。
「(……ッッ!?!?)」
その強烈な動きのせいで、俺の太ももに密着していた巳波の規格外の二つの質量が、むにゅんっ!と激しく形を変えて押し潰された。
さらに、彼女の顔が下腹部に押し付けられた衝撃と、言葉にできないほど柔らかい感触の連続攻撃に、俺の体はビクッと大きく後ろに仰け反ってしまった。
「……えっ?」
当然、目を閉じて俺の唇を奪いに来ていた雫乃の顔は空を切り、ぽすん、と俺の肩のあたりに虚しくぶつかる結果となった。
「すぅーーーっ……はぁーーっ……ちゅっ……♡」
仰け反る俺の下腹部に顔を埋めたまま、巳波は極上のアロマでも堪能するかのように限界まで息を吸い込み、甘く湿ったリップ音まで鳴らして俺の匂いを堪能している。
「(……は?)」
俺の脳内で、警報がガンガンと鳴り響いた。
なんだ今の完璧すぎるタイミングは。そして、なんだこの絶妙に男の急所を刺激してくる恐ろしいホールドは。
ただの寝返りだなんて、絶対にあり得ない。
「(間違いない。こいつ、とっくに目が覚めてやがる……!)」
しかも、ただ邪魔をするだけではない。どさくさに紛れて自分の凶悪な武器を俺の太ももに強く押し付け、さらには俺の急所付近で全力のテイスティングをキメているのである。
俺が下半身に集中しそうになる血流を必死に抑え込んでいると、空振りさせられた雫乃が、ゆらりと顔を上げた。
彼女は、俺の下腹部に顔を埋めて幸せそうな寝息を立てている巳波をじっと見つめた。ここで泥棒猫に対する罵倒が飛ぶかと思いきや、雫乃は巳波を一瞥しただけで興味を失ったように視線を外し、再び俺の顔だけを真っ直ぐに見つめてきた。
「……朔ちゃん、わざと避けたでしょ」
雫乃は巳波の存在など端から眼中にないというように、俺の首に腕を回して甘く囁いた。その瞳には、俺に対する深い愛着と、ほんの少しの拗ねた色が浮かんでいる。
「ち、違う! 小日向が急に動いたからバランスを崩しただけで……!」
俺はしどろもどろになりながら言い訳をした。ここで巳波が起きていると指摘すれば、さらにややこしい修羅場になることは明白だった。気づかないフリだ。今はこれが、俺のモブとしての平穏を守る唯一の盾なのだ。
もう限界だった。これ以上この空間に留まれば、物理的な遭難の前に、俺の貞操と命がヒロインたちの独占欲によって消し飛ばされてしまう。
「ほ、ほら、行くぞ! 救助を待つより、自分たちで歩いた方が早い!」
俺は強引に立ち上がると、膝の上にいた巳波の体を滑らせるようにして背中へと移動させ、本格的におんぶの体勢へと持ち上げた。よいしょ、と背負い直す。背中に、再びあの凶悪な柔らかさと熱量がのしかかり、首筋には意図的な甘い吐息が吹きかけられる。
俺が歩き出そうとすると、隣にいた雫乃がその場に立ち止まったまま、俯いて動こうとしなかった。
「どうした、雫乃。歩けないのか?」
俺が振り返って尋ねると、彼女は濡れた髪の隙間から上目遣いで俺を見つめ、ぷくっと頬を膨らませた。
「……行かない」
「行かないって、お前な。空も明るくなってきたんだ、早く帰らないと」
「……やだ。朔ちゃんが、手を繋いでくれないと、あたし、ここから一歩も動かない」
だだをこねる子供のような、けれどその実、有無を言わせぬ重い愛情が込められた要求だった。
背中に巳波を背負っている俺に対して、せめて手だけは絶対に自分だけのものにしたいという、彼女なりの切実な我が儘なのだ。合羽の袖口から覗く彼女の白い手は、寒さで微かに震えていた。
俺は盛大に溜息をついた。
「……わかったよ。ほら、捕まれ。転ぶなよ」
俺が空いている片手を差し出すと、雫乃の顔がパッと華やいだ。生乾きの服を急いで羽織り彼女は寒さで冷え切った両手で俺の右手を包み込むようにギュッと握りしめ、そのまま顔を擦り寄せてきた。
「……えへへ。朔ちゃんの手、あったかい。……大好き」
その純粋で重すぎる笑顔に、俺は何も言い返せなくなり、ただ無言で彼女の手を握り返して洞窟の外へ一歩踏み出した。
そこには、さっきまでの地獄が嘘だったかのような、雨上がりの澄んだ冷たい空気が広がっていた。
木々の葉から落ちる無数の雫が、顔を出し始めた朝日の光を反射して、まるでキラキラと輝く宝石のように山肌を彩っている。澄み切ったオゾンと土の匂いが、肺の奥まで沁み渡るようだった。
「(……ようやく、帰れる)」
俺は心の中で深く息を吐き出した。
いや、正確には物理的な遭難が終わっただけだ。
今も俺の背中で、まるで自分の絶対的なテリトリーを主張するように俺のうなじに鼻を押し付け、確信犯的に熱い吐息を吹きかけ続けているヤンデレ後輩。
そして隣で俺の右手を絶対に離さないとばかりに強く握りしめ、俺への一途すぎる重い愛情を満面の笑みで燃やし続けているヤンデレ幼なじみ。
そして、この山を下った先には、俺を探して正気を失い、文字通り血眼になって山狩りをしているであろう葵依や、翡翠、そして志乃さんたちが待っているのだ。
「(……俺のモブ人生、なんでこんなことになっちまったんだ)」
俺は誰にも聞こえないように、心の底から溜息をついた。
「せん、ぱぁい……。ずっと、あたしだけの、もの……すぅーーっ……ちゅっ……♡」
背中から、はっきりと聞こえるほどのリップ音と、寝言が耳元に突き刺さる。
「(……寝言の範疇を完全に超えてるからな!!)」
背中の極上の柔らかさと熱に耐え、隣の重い愛情と繋いだ手の感触に耐えながら進むこの道のりは、嵐の中を彷徨った夜よりも遥かに長く、険しいものに思えた。




