39.確信犯の唇
「……っ、げほっ……!!」
激しい水の衝撃と、喉を焼くような泥の味。肺の中の空気が強制的に押し出され、意識が火花を散らすように覚醒した。
俺、月島 朔は、濁流に打ち上げられた川縁の岩場で、泥にまみれて横たわっていた。
「(……い、生きてる、のか……?)」
全身が鉄板で叩かれたような鈍い痛みに包まれている。だが、手足を動かしてみれば、幸いなことに骨が折れている感触はない。打ち身や擦り傷は数え切れないが、致命的な損傷は免れたようだ。
俺は泥を吐き出し、重い体を引きずりながら周囲を見渡した。
視界を塞ぐのは、依然として猛威を振るう雨の壁だ。滝のような豪雨が岩肌を叩き、すぐ数メートル先にあるはずの景色すら曖昧にぼかしている。だが、俺はその混沌とした景色の中で、ある「色」を見つけた。
「雫乃……っ!!」
俺が斜面から飛び降りた際、死に物狂いで抱きしめていたはずの幼なじみ。
彼女は俺から少し離れた場所で、流木に引っかかるようにして、ぐったりと横たわっていた。
俺は這い寄るようにして彼女の元へ駆け寄った。
雫乃の顔は蒼白で、唇は血の気が引いて紫がかっている。
「雫乃! おい、しっかりしろ! 雫乃!!」
肩を掴んで揺さぶるが、反応はない。首筋に指を当てるが、雨の冷たさと自分の指の震えのせいで、脈動がよくわからない。胸も動いていないように見える。
「(嘘だろ……。息、してないのか……!?)」
脳裏に最悪の二文字がよぎる。パニックになりそうな心を、これまで培ってきた「モブとしての生存知識」で無理やり抑え込んだ。ここで俺が取り乱せば、本当に手遅れになる。目印として破けた服をここに置いていこう。可能性は低いが翡翠が戻ってきたときに生きてると安心できるだろう。
「……とにかく、ここを離れないと」
俺は雫乃の体を抱きかかえ、増水の届かない高さにある、岩の窪み――洞窟のような場所へと彼女を運び込んだ。
外の轟音は少し遠のいたが、洞窟内はひんやりとした死の気配に満ちている。
「雫乃! 起きろ、雫乃……っ!」
何度呼びかけても、彼女は眠り姫のように静止したままだ。服は濡れそぼり、体温は奪われていく。このままでは救助が来る前に終わる。
気道を確保し、耳を口元に寄せる。……やはり、呼吸が感じられない。
「おい!嘘だろ!?」
「(……やるしかない。人工呼吸だ。家事スキルとか言ってる場合じゃない。救命処置だ。これは、医療行為だ……!)」
自分に言い聞かせながら、俺は雫乃の濡れた体を仰向けに寝かせた。
至近距離で見る雫乃の顔は、泥に汚れていても驚くほど整っていて、いつも俺を追い回す狂気を感じさせないほどに儚げだった。
「(……いくぞ、死なせてたまるか)」
俺は大きく息を吸い込み、彼女の唇に顔を近づけた。
その瞬間。
「(…………ん?)」
違和感があった。
俺の唇が触れる直前、雫乃の唇が、ほんの、ほんのわずかにだが、迎え入れるかのように「ぷっくりと突き出された」ような気がしたのだ。
「(……気のせいか? いや、でも、今……明らかに応えてきたような……)」
俺が寸前で動きを止め、じっと観察する。
すると、雫乃の瞼の下で、瞳が微かにピクピクと動いているのが見えた。さらに、さっきまで死にかけていたはずなのに、彼女の周囲に立ち昇る【真紅のフラグ】が、これまでにないほどドス黒く、そして期待に満ち溢れた色で脈打っている。
「(……こいつ、起きてやがる……ッ!!)」
確信した。
こいつは意識がある。それどころか、この遭難という極限状況を利用して、俺に「人工呼吸(という名のキス)」をさせようと、虎視眈々とチャンスを狙っているのだ。
「(……。このまま唇を合わせたら、一生これをネタにされる。いや、それどころか『あの時唇を奪ったんだから、責任取ってね♡』と外堀を埋められる未来しか見えない……!)」
だが、もし万が一、本当に一瞬だけ息が止まっていたら、という一縷の不安が俺のブレーキを甘くする。
雫乃は、俺が迷っているのを感じ取ったのか、唇をさらに「どうぞ」と言わんばかりに少し尖らせ、じっと俺の唇が重なるのを待っている。その顔には、隠しきれない歓喜の色が微かに漏れ始めていた。
「(……お前、その顔で『死にかけてます』は無理があるだろ……!)」
俺の唇と、雫乃の唇。
鼻先が触れ合うほどの距離。
洞窟の外では嵐が荒れ狂い、俺は今、人生で最も不純な「人命救助」のジレンマに立たされていた。
「……雫乃。いい加減にしろよ。……目、開いてるぞ」
俺が低く、呆れを含んだ声で囁くと。
「…………ちぇー」
パチッ、と雫乃が不満そうに目を開けた。
そこには、さっきまでの蒼白な表情など微塵もない、獲物を罠にハメようとして失敗したことを悔しがっているような、妖艶で歪んだ笑みがあった。
「……もう、あと一歩だったのに。朔ちゃん、空気が読めないのは相変わらずだね?」
「……お前なぁ。こっちは本気で心配したんだぞ」
「ふふ、嬉しい。あたしのために、あんなに必死な顔をしてくれたんだもん。……ねえ、もう一回やらない? 今度は、あたしが『本気で』息を止めるから」
「やるか! そんな命がけの茶番!」
雫乃が起き上がり、濡れて肌に張り付いた髪をかき上げながら、俺の腕に絡みついてくる。
外の冷たい雨音とは対照的に、洞窟の中には、彼女の濃厚な執着が、湿った熱を帯びて充満し始めていた。
「……でも、朔ちゃん。あたし、決めたよ」
雫乃が俺の首に腕を回し、その瞳が暗闇の中で真紅に輝く。
「このまま、誰も来なければいいのにね。……道も壊れて、電波も届かない。……この狭い洞窟で、朔ちゃんと二人きり。……ねえ、もう日常なんていらなくない?いらないよね?」
「(……やっぱりこうなるのかよ……!)」
俺は溜息をつき、洞窟の入り口を塞ぐように座り直した。
体が冷えてきた。火を起こすなり、体温を確保するなりしなければならない。
怪我をしていないのは幸運だったが、この幼なじみと二人きりで、救助が来るまでこの「愛の檻」に閉じ込められることの方が、俺にとっては死の危険よりも遥かに恐ろしい事態だった。




