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38.執着の羅針盤

空は、厚い鉛色の雲に完全に閉ざされていた。

叩きつけるような雨は、もはや「降る」というより、暴力的な質量を持って俺たちの頭上に「降り注いで」いる。

視界は雨のカーテンに遮られ、数メートル先を歩く背中すら、霧の中の幻影のようにぼやけていた。


「……小日向さん、一度止まりなさい。この雨よ、これ以上の強行軍は全員の命に関わるわ」


志乃しのが、低く、しかし毅然とした声で制止をかけた。

泥にまみれ、体力は限界に近い。それでも彼女は、年長者としての責務を果たすべく、荒い息を整えながら葵依あおいの肩を支えていた。その瞳には、さくを失うかもしれないという恐怖が渦巻いているが、それを理性の力で辛うじて抑え込んでいる。


「嫌です。……先輩は、あそこにいるんですから」


小日向こひなた 巳波みなみは、振り返ることさえしなかった。

彼女の足元では、飽和状態になった地面が今にも崩れ出しそうな不気味な音を立てている。だが、彼女はその危機を、まるで存在しないかのように無視して進み続ける。


「小日向さん、いい加減にしなさい! 気持ちは分かるけど状況が悪すぎるわ」


志乃が再び声を張り上げるが、巳波はただ、手元のスマホの画面を凝視していた。

豪雨の中、その端末だけが異常なほど明るく、青白い光を放っている。周囲の闇を切り裂くその光は、この状況下ではあまりにも不自然だった。

葵依が、喉を焼くような乾燥した声で呼びかけた。


「小日向さん。ずっと気になっていたから聞くけど、この一帯は完全に『圏外』のはず。それなのに、なぜ貴女の端末だけが、外の情報を持ち込めてるの? 誰と繋がっているの」


その指摘に、志乃と翡翠ひすいも足を止めた。

この闇の中で、巳波のスマホだけが不気味に青白い光を放ち、何らかのデータを更新し続けている。その違和感は、もはや無視できないほどに膨れ上がっていた。


「……状況分析。この座標で通信が確立している確率は、物理的にあり得ない。小日向、貴女……何をしている」


翡翠の冷徹な問いに、巳波は振り返りもせず、ただ画面を見つめたまま、吐き捨てるように返した。


「……今は、そんなこと言ってる場合じゃないですよぉ! 一刻も早く、先輩を見つけなきゃいけないんです。理屈なんてどうでもいいじゃないですかぁ!」


「ごまかさないで! 私が聞いているのは――」


「うるさいなぁっ!!」


巳波が初めて、獣のような鋭い声を上げて振り返った。その瞳には、普段の甘ったるい後輩の仮面など微塵もない。そこにあるのは、獲物を奪われることを恐れる捕食者のような、ギラついた執着だった。


「……いいから、あたしについてきてください。先輩を……朔先輩を助けたいなら、今はそれだけでいいでしょ?」


その気圧されるような狂気に、葵依は言葉を飲んだ。巳波は再び向き直り、スマホに表示された点滅の印に従って、崖下へと続く獣道へ身を躍らせた。




川底から響く、地響きのような濁流の音。

巳波が指し示した場所――そこは、昨日まで確かに存在した道が、無残に抉り取られた崩落地の端だった。


「……ここ。信号、ここで止まってます」


巳波の、感情の抜け落ちた声。

翡翠ひすいが、震える手で強力なライトを崖下へと向けた。


「……っ!!」


光の輪が捉えたのは、岩肌に無残に引っかかった、泥まみれの「布の残骸」だった。

翡翠が斜面を滑り降り、それを拾い上げる。


「……これは……朔、の……」


葵依が絶句する。

それは、朔が着ていたはずの制服の袖と、引き裂かれた雨合羽の一部だった。

単に脱げたのではない。凄まじい衝撃と濁流の圧力によって、強引に「引き千切られた」形跡がある。布の断面はボロボロに毛羽立ち、そこには少年の生存を否定するかのような、どす黒い泥がこびりついていた。


「……嘘。嫌よ、こんな……こんなものだけなんて……!」


志乃が、その場に膝をついた。年長者としての仮面が剥がれ落ち、泥にまみれた残骸を胸に抱きしめ、声を押し殺して震え出す。


「朔君……朔君、返事をして! お願い、どこにいるの……!?」


救いようのない絶望が、雨の音さえも塗り潰していく。

葵依は力を失ってその場に崩れ落ち、翡翠はただ、血の滲む拳を固く握りしめて立ち尽くしていた。

だが。


「……あは、あははははっ!」


不意に、巳波が乾いた笑い声を上げた。

三人が顔を上げ、巳波を凝視する。

彼女は降り頻る雨を全身に浴びながら、肩を小刻みに揺らし、スマホの画面を食い入るように見つめていた。


「……小日向さん、貴女……何を笑っているの……? 朔君が、あんな濁流に……これを見て、正気なの……?」


葵依の問いを、巳波は冷たく、しかし狂熱を孕んだ声で遮った。


「見てわからないんですかぁ? ……この引きちぎられ方。ただ流されただけなら、こんな風にはなりませんよぉ。……先輩は、生きるためにこれを脱ぎ捨てたんです。……重かったから。あんな女を連れて、少しでも身軽になるために」


巳波はスマホの画面を、爪が割れるほどの強さでなぞり、地形データを狂ったように再構築し始める。


「……先輩は絶対に生きてる。こんなところで死んだりなんてしない、先輩の鼓動は聞こえるんだからぁ……」


巳波は志乃や葵依を振り返ることなく、再び泥の斜面へと這い出した。

その指先は泥を掴み、爪が剥がれそうになっても止まらない。もはや、彼女にとって「死」という概念すら、先輩を独占するための障害に過ぎなかった。


「……あたしは諦めませんよぉ。……あたしのシナリオから逃がしてなんてあげません。……地獄の底まで追いかけて、今度こそ、あたしの鎖で……絶対に、繋ぎ止めてやるんだからぁ……♡」


雨の壁の中に消えていく、小日向巳波の背中。

正気を失いながらも、ただ一つの「朔が生きている」という執着だけを命綱にして。

その姿は、救助に向かう少女などではなく、逃げ出した獲物を死に物狂いで追う捕食者のそれだった。


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