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37.大切なもの

激しい雨音が別荘の屋根を叩き続ける中、リビングの重い扉が、ひしゃげたような音を立てて開け放たれた。


「……っ、翡翠ちゃん!?」


ソファに座り込み、祈るように手を組んでいた志乃しのが、弾かれたように顔を上げる。

そこに入ってきたのは、白銀色の髪を泥で汚し、虚ろな瞳をした翡翠ひすいだった。彼女の指先からは、岩や土を掻きむしった際のものと思われる血が滴り、床に小さな赤い点を作っている。


「翡翠! さくは!? 朔はどこにいるのよ!」


葵依あおいが声を荒らげる。その表情は、かつての女王のような傲岸さは消え失せ、ただ一人の「大切なもの」を失いかけている少女のそれだった。

翡翠は、数秒の沈黙の後、絞り出すような声で事実を告げた。


「……戦略的敗北。……路盤の崩落を予測できず、朔と雫乃しずくのの滑落を許した。……私の指先から、朔が消えた。……救出、不能」


「嘘……。嘘でしょ……?」


志乃が膝から崩れ落ちる。葵依は窓の外、暗い谷の方角を凝視したまま、言葉を失った。

だが、最も深い闇をその瞳に宿していたのは、部屋の隅でスマホを握りしめていた巳波みなみだった。


「(……なんで? おかしいよ。あたしのシナリオは、完璧だったのに……)」


巳波は、震える指でスマホの画面を凝視した。

画面の向こう、彼女の『友達』からは、確実なシミュレーション結果が届いていたはずだった。


『これ以上の大規模な地盤崩壊は起きない。別荘の周辺は安全。何かトラブルでもなければ、身の危険なんて、どこにもない』


「……何かあれば任せたって、先輩、そう言ってた。先輩もすぐに戻ってきて、やっぱりここが安全だって。あたしたちと一緒に、この別荘に閉じ込められて……それから、あたしのタイミングで救助が来て、最高にハッピーな結末になるはずだったのに……」


巳波の独り言が、静まり返ったリビングに不気味に響く。


「……なのに、なんで? なんで先輩は、あんなしずくののために飛び込んだの? なんで、あたしの計算を壊すの……?」


彼女のシナリオには、朔が自分を犠牲にしてまで誰かを助けるという『英雄的行動』など組み込まれていなかった。

モブとして、安全な場所で自分たちの愛に翻弄されるはずだった「月島朔」が、自分の意志で、最悪の泥濘ぬかるみへと身を投じた。

その事実が、巳波の歪んだ愛情を激しく逆撫でする。


「……あは、あははははっ! 先輩ってば、本当にかっこよすぎますよぉ。そんなの、もっとあたしがおかしくなっちゃうじゃないですかぁ……!」


巳波が顔を覆って笑い出した。その隙間から覗く瞳には、もはや常人の理性など残っていない。


「……葵依先輩。志乃さん。……翡翠先輩も。……いつまで、そうやって絶望してるんですかぁ?」


巳波が顔を上げ、リビングにいる三人を見渡した。その瞳は、暗闇の中で捕食者のように鋭く光っている。


「道がないなら、作ればいいだけですよねぇ? 先輩が地の底にいるなら、そこまで引きずり出しに行くだけです。……あたしのシナリオを壊した責任、たっぷり取ってもらわないと……」


「……当然よ。私の朔が、あんな場所で冷たくなっているなんて、私が許さない。……私の家の総力を挙げて、たとえこの山を平らげることになっても救い出すわ」


葵依が、憎悪に近い執念を宿した瞳でスマホを掴み直す。


「……そうね。私も、これ以上黙って見てるなんてできないわ。……朔君。貴方を連れ戻して、二度とこんな思いをさせないように……一生、私の手の届く場所に置いてあげるから」


志乃が、湿った声を漏らしながら立ち上がった。その瞳には「保護者」としての義務感を超えた、一人の女としての昏い独占欲が渦巻いている。

翡翠は、血の滲む拳を固く握りしめたまま、リビングの壁に立てかけてあった予備の装備を手に取る。


「……戦略、変更。……朔が生きていようと、死んでいようと。……その身を奪還し、私の定義の中に固定する。……朔、今度こそ、指一本分も離さない」


悲しみや絶望は、一瞬にして「執着」という名のガソリンに変換された。

もはや彼女たちの目には、救助という名の慈悲はない。

それは、自分たちの世界から欠落した「唯一の宝」を奪還し、二度と逃げられない檻へと嵌め込むための、狂気の遠征の始まりだった。

激しい雨の中、四人の少女たちは、暗い奈落の底を目指して動き出した。




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